友の妹
友の部屋でくつろいでいると、彼のスマホがぴろりんと鳴った。寝そべって漫画を読み耽っていた少年は、友の表情がかすかに変わるのを見逃さなかった。
「どうしたん。なにかあったん」
「んや。なんも」
といって、彼は彼で別の漫画に視線を落としたものの、どこか浮かない顔をしている。少年は友がそれ以上話したがらないものと見て、面白くもない漫画に戻ろうとすると、友はパタっと、手にしていた漫画を床に置いた。
「妹、入院してるって言ったじゃん」
「ああ。聞いた」
「今日、体調悪いってさ」
少年は驚いた。ならばこんなところで呑気に漫画など読んでおらず、すぐにでも見舞いに行ってやるべきではないか。市立病院までは自転車で十分とかからない。真夏の真昼の直射日光は耐え難いが、一刻を争う事態かもしれないではないか。
「そんな深刻な顔すんな。うちの妹、元気だからこうして連絡してくんよ」
「……そういうもんか」
試験を終えた。夏休みになった。なのにカレンダーの予定表を埋めるのはバイトの一語だけで、大学生らしい旅行の予定も遊びの予定もなかった。
夕方になって特にやることもなく、友の部屋を後にした。
大学生になってからというもの、少年は中高に感じた以上の退屈を感じていた。駅までの歩く道すがら、ちらほらと知った顔を見た。この街では、往来で知っている人とすれ違うのも珍しくはない。都会ではこうはいかないらしい。もっと栄えた場所にある大学に通っていれば、これほどの退屈を味わうことはなかったのだろうか。
駅へと続く銀杏並木をぼんやりと歩きながら想像する都会の光景は、なんだか人が多くてごちゃごちゃしていて誰もが淡白でさらりとしていて、それはそれで退屈だろうと思う。
駅前の広場にたどり着くと、構内の電光掲示板が見える。次の電車まで十五分もあった。都会に出た同級生のSNSを見ていると、電車を一本逃したところで五分後には次の電車がくるらしいことがわかる。きっとだれもが一度は考えただろうが、それだけ前後つめて電車を走らせるのならば、いっそのこと線路上をすべて車両で繋いで仕舞えばよいではないか。とくだらない思案にいつまでも耽っているわけもなく、この街唯一の本屋に立ち寄った。
平積みになった新刊本を適当に何冊か手に取り、興味の持てそうな作品がないと早々に切り上げると、奥の参考書置き場へと向かった。とうに受験を終えたというよにこのルーティーンが癖になっていた。大学入試の参考書を見たところで意味がないので、TOEICや簿記など、就職に役立ちそうな本を何冊か手に取って中を見てみる。そこには見たこともない言葉が無数に並んでいるのに、未知の領域にはじめて足を踏み入れた胸踊る興奮など微塵もなく、日常と同じ退屈が参考書のなかにまで地続きになっていた。少年は本屋を出た。
改札を抜け、遠くから電車の音が聞こえた。部活動の帰りであろう、よく日に焼けた茶色い肌の少女が降りた。溌剌とした声で「またね」といって、車内に残された友人に手を振ると、急いでいるわけでもないだろうに、軽快な足取りで改札へと向かった。友の妹も入院していなければあんな風だったかもしれない。友の妹に、少年は一度も会ったことはない。
友は隣の高校に通っていた。大学まで面識はなかったが、共通の知り合いはかなりの数いた。小中同じだった同級生たちは大抵、少年の通った高校か、友の通った高校へと進学した。特別な事情——たとえばスポーツ強豪校への進学——などがない限り、その二校のいずれかに入学するのが当たり前のことだった。少年の通った高校は中堅、友の学校が進学校という位置づけではあったが、学内のばらつきも大きく、少年と友とのあいだに、学力差などほとんどなかった。そして二人は、地元の同じ大学に通うことになったのだ。
友の家までは電車で三駅。田舎の三駅は、都会の三駅とはわけが違う。気軽に徒歩や自転車で向かえる先ではない。ちょうど少年の家と大学との間に友の家があった。だから定期でいつでも行けるのもあり、両親が共働きの友の家の方が気がおけず居心地が良かった。だが、まだ一度も妹の顔を見たことはない。
大学の夏休みは長い。六月末には大学の授業は終わりへの準備を始め、講師によっては七月に授業をしない。七月に授業があっても試験対策のためのもので、出席そのものを取らなかったりもする。上手に授業を組みさえすれば、試験をのぞいて七月から九月の中旬までは実質的な夏休み、小学生よりも長い。
少年は律儀に七月中も通い続け、八月頭の試験を終えてようやく夏休み、といっても八月の間はバイト漬けで、九月になってようやく友と久々に顔を合わせた。後期が始まる前に一度会っておきたかった。履修する授業や、初日がいつか、教科書の販売はいつか、そんなことを確認しておきたかったからだ。
「よ」
「よ」
珍しく彼らは駅前で待ち合わせた。少年はいくらか訝しんだが、今日は両親のどちらかが家にいるのだろうとしか思わなかった。少年は友の母とは何度か顔を合わせたことがある。とても世話焼きの、人好きのするおだやかそうな人だった。友とよく似ている。母似だな、というと友はぼりぼり頭を掻きながら、ああよく言われるよ、と不平そうな顔を見せた。いくらかお節介なところはありそうだが、少年は、別に友の母が家にいてもかまわなかったのに、と思った。
「ああ、違う違う。今日は親父もいるかもだから」
夏の終わり、あるいは秋の始まりだろうか、季節の境界線を示すように分厚い雲が空に垂れ込めていた。入道雲ではないが、秋らしい青空に浮かぶ薄い雲でもない、鈍色の気の塞ぐような雲だった。
平日昼間の駅前は閑散としていた。夏の終わりとはいえ、まだ暑い。二人は近くのカフェに入った。
店内も空いている。入り口から一番遠い窓際の席にした。四人掛けのテーブルに、互い違いに座った。よく見知った店員が注文を取りに来た。二人ともアイスカフェオレを頼んだ。少年は友が話すのを待った。友は話そうとはしなかった。二人は人の少ない外の通りを眺めていた。ここでこうしていると、時々見知った顔を見つける。友人経由やSNSで、その日誰が何をしていたか、たいていわかってしまう。地方の人脈の濃度を思い知らされるのが嫌だと思ったこともあるが、今ではどうでもいいという気持ちの方が強かった。
二人が注文したアイスカフェオレを持って、さっきとは別の店員がそれをテーブルに並べた。はじめて見る顔だった。
「両親、今、休み取ってるんだ」
「ふーん、そっか」
なぜ、と尋ねるのが怖い気がした。前期の終わり頃から、友が暗い表情を見せることが増えた。友がスマホ画面をちらっと見て眉を顰めるのを、何度も見た。どうしてだろうか。良い予感というのは外れてばかりなのに、悪い予感だけはぴったり当たってしまう。
「……後期の準備してる?」
友の声は、不自然に語尾が上がっていた。動揺しているようにも見えた。少年はストローでアイスカフェオレを混ぜてから、二口ほど飲んだ。
「してない。始まってからでいいかなって思って」
「そっか」
雲の隙間から光がさした折、ちょうど二人の座る席は銀杏の陰になっていた。この席なら日がさしても陰になると知っていたのに、惜しいことをした、と少年は思った。理由はわからない。ただ、惜しいことをした、ともう一度頭の中でその言葉を繰り返した。
「両親が家にいるってのも、鬱陶しいけどな、我慢しないとな」
「あはは。うちなんて母親はいつも家にいるからな。だからこうして出てくるんだけど」
「ああ。家族って邪魔くさいよな」
「ホント。邪魔くさい」
と相槌を打って向いを見やると、しっとりと濡れた黒い瞳が少年を見据えていた。ずっとそこにあった何かが、ついにこぼれ落ちた。ぽたっとアイスカフェオレが跳ねた。
「……やっぱり、悪いんだ?」
「ああ、かなり悪い」
友の声が震えていた。少年は立ち上がると、友の隣に腰掛け、その肩を抱いた。夏の終わり、蝉の声はまだ聞こえる。それがはたと消えたかと思うと、また一斉に大合唱を始めた。
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