事故物件
あかんぼうの鳴き声が止まへん。蒸し暑い。幽霊やから気温は感じへんけど、部屋の気温計は一番上まで振り切れとった。
視界の端に黒い影が流れていく。ずっと耳ン中に、羽音がある。そりゃあわたしは幽霊や。噛まれも触れもせんのはわかっとるけど、そんでもやっぱり、部屋におる虫はきもちわるい。しかも尋常やない。きもちわるい。
この子どんくらいお乳飲んでへんのやろ。ポルターガイストくらいはがんばればできるけど、部屋中振り回したってこどもの食べれるものは出てこない。ごみ、酒、袋、酒、酒の空瓶、石のように乾いて黴びたパン――。
母親はたまに部屋に来る男にしかられてしかられて、必死になだめても泣き止まないわが子に自分のほうが大声で泣きわめいて、それからふっと冷静に身づくろいすると、見たことないようなきれいなワンピース着て、それからまるでこの部屋にはもう自分以外だぁれもおらんみたいになって、すっと赤ちゃん置いて出てってしもた。
わたしは、この子のお母さんやない。この部屋の住人でもない。このひとたちが入居する前、そのずっとずっと前に暮らしていたひとりぐらしの女の子やった。
あかんぼうとも、その母親とも、面倒を見てやる義理はない。
そんでもなあ、死んでも人間やもの。放っておけるわけはないやん。
母親にもあきれるけど、なんか責めきれへんわ。だってわたしは――。
窓にカーテンの影が揺れとる。黒い滲みのついたカーテンが揺れる。
わたし、一個だけ自分が怖いと思ってたん、生きてるとき。
初めは小学生の頃やった。絶交した。もう顔も見たくないと思った。そのこが車に撥ねられてな、喧嘩したこと知らんあのこの親が形見をくれた。わたしがずっと欲しかったゲーム機やった。
中学生になって、自由が欲しいと思った。厳しかった祖父は台風の用水路で発見された。
高校生のとき、そろそろ携帯電話が欲しいと思った。両親はずっとこどもが携帯なんてと渋っていたが、隣町で女子高生の遺体が発見されると血相を変えて携帯電話を選ばせた。電話で親と連絡が取れていたら防げた誘拐だったらしい。
わたしが欲しいと願えば、欲しいものが手に入る。ただしそれは、他人のものや、まさかの不幸によるもので。
すまんな、あかんぼう。すまんな。こんなことになったんも、きっとわたしが幽霊のくせに「ああうちがあんたの母親やったら子育て飴食わしてでも育てたるのにな」なんて思ったせいや。
そんなこんなで血まみれのぼたもちが棚から落ち続けるような一生やったわ。
最期のときなんて、ほんまに、なぁ。
不意に、聞いたことのある男の声がした。
「……そうかもう……、新しい人も入るわなぁ……」
わたしは。
わたしの勤めていた会社は、とってもひどいところで、それを補うように、みんな会社の中ばっかりで仲良しのお友達や恋人を作っとった。わたしも例に漏れず、とっくにきれいな女の人と結婚しとる上司のおじさんとおつきあいしてて、ある日給与明細と医療明細と、結婚してくれるわけもない人の写真を見比べていたら笑っちゃって、そのままベランダから飛び出してしまったの。わたしの部屋は、当然、事故物件になっちゃった。
おじさんは、毎年わたしの命日に、わたしの部屋を訪れる。わたしの部屋は事故物件だから、ずっと新しい人は入らんかった。
迷惑やったのよ?
あなた毎年毎年お花を供えてくやろ。郵便受けからしなびれた花束が出てくるたび、掃除する大家さん、めっちゃ気味悪そうな顔しとったで?
郵便受けの蓋が一度だけ動いて、少しためらうような間があって、今年は花束は見えなかった。
待って。
足音が遠ざかる。
待って。
「……ったすけて……」
張り叫んだ。力の限りに張り叫んだ。
助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて!
助けて! 助けて! 助けて! 助けて!
助けて! 助けて! 助けて! 助けて!
助けて! 助けて! 助けて! 助けて!
わたしの部屋で、おじさんがぼんやりとテレビを見ている。何ヶ月も昔の新聞がずっと置かれている。
「ネグレクトの乳児、奇跡的に救出」
あの日アパートの異変に気づいたおじさんは急いで警察に通報し、あかんぼうはすぐ病院に運ばれた。たまたま見たニュースによると、母親はすぐに捕まり、あかんぼうはすくすく育っているとのこと。幸か不幸かはわからへんけど、とりあえずは命あってのなんとやらやな。
おじさんはこの騒動のせいで、アパートに来ていた理由も奥さんにバレてしまい、今度こそたっぷり怒られて離縁されてこの部屋に引っ越してきた。これも何かの縁だと、あきらめた顔で彼は笑う。
黒い滲みのついたカーテンが揺れる。
な? わたし、絶対に欲しいもんは手に入れるやろ。
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