19 影の世界(2)

 周囲を覆い尽くす影。深淵しんえんに呑まれたかと錯覚を起こすほどに暗く、届くはずの街灯の明かりでさえ届かない。駅舎、ビル、道路、月までもがその光を失い、全てが輪郭をかたどった黒いはりぼてのように見える。

 『ヴィア』、勿論アリアは警戒していた。このレベルの魔術師ならば、ヴィアを使えることも、見える箇所でなくとも、裏地、肌着、肌、至る所にそのための魔法陣が描かれていることも分かっていた。しかしヴィアはさほど重要ではないと意識から切り離していたのだ。少なくともそれが決定的な原因にはならないと、今まではそう思っていた。


「魔力が、足りない……ヴィアを発動するだけの魔力が、残ってない……」


 つま先から、腰まで。アリアとルネの柔肌を、影の触手が縛る。触手が上半身まで達さないのは、何かの意図があってか、それともミラのヴィアに掛かっている制約か。

 アリアはそれから逃れようと、魔法を放ち破壊を試みるが効果は無い。それどころか、刺激を与える度に縛られる力は強くなり、より一層アリアの白い肌に食い込む。


「やはり、まだまだ学生レベルだったようね。あなたは一刻も早くヴィアを使うべきだった。確実に勝とうと、出し惜しみなんてせずに。戦っているときの顔を見て分かったのよ、一時的な痛みで悶えることはあっても、その奥には余裕が見えた。よほど絶対的なヴィアなのでしょうね」


「……うるさい」


「それでも、結局発動できなかったら意味は無い。あなたは私の動きを追うことに集中しすぎて、自分の魔力残量の確認を怠った。どれだけ自分にとって不利な局面に陥ろうとも、自分には最強のヴィアがあると高を括っていた。私はそれが分かっていたから、敢えて致命傷を与えずに回復できるような手傷しか負わせずに待っていたのよ。あなたの魔力が少なくなるまでね」


 ミラの語気が強くなると、締め付けも強くなる。あまりの苦しさに思わず声が出て、苦悶の表情を浮かべる。自由の効いていたはずの手も、しゅるしゅると地面から伸びる影に掴まれ完全に身動きが取れなくなった。


「あなた、手加減していたの」


「もちろん。まさか私のヴィアが『ある一定の高さ以上には効果がない』なんて出来の悪い物だと期待していたのかしら」


「くっ……」


「抵抗できる余地があった方が、どうしようもできないってなったときの絶望が強いじゃない」


 音もなく、影の使い手はゆっくりとアリアに近づき、縛り上げらた彼女を笑みをもって見上げる。不穏当ふおんとうな静寂。敵意の籠った瞳で見つめるアリアは諦めている様子ではなかった。


「私を無視してるんじゃないわよ!鷲獅子グリフォンッ!!!」


 赤毛の少女の上半身は、未だ自由が効いていた。召喚魔法、この場で唯一ヴィアの影響を受けていない物を呼び寄せる術。

 ミラは半身を飛来する魔獣に向け、詠唱を始める。しかし、それを待っていたかのような激しい電撃。さらに怯んでいる間に鷲獅子は前足の鉤爪かぎづめをもって銀髪の女の胴体を切り裂く。

 短い悲鳴、反響は無く闇に吸い込まれる。


「っ……!」


 電撃の主はアリアであった。一寸先の女が目を逸らす瞬間を、ずっと待っていた。


「ルネ、今なら抜け出せる、この魔術は感情の変化で乱れるみたい……」


 麻痺はさせたが、おそらく致命傷にはなっていないだろう。まだ追撃はできない、残りの魔力で倒せるという確信が持てない。一刻も早く、この場から離れなくては。


「わ、ほんとだ。『ぐりりん』っ戻っておいで、アリアさんも乗せるよ!」


 ルネの声に応え、鷲獅子はぐるりと宙を旋回する。特異な魔術、戦術、技術、ヴィア、あまりにも強すぎる。アリアの魔力が回復するのを待ってからでないと勝ち目は薄い。二人の少女は言葉に出さずとも、共通の認識を持っていた。


「待ちなさい……」


 背後、女の声。まだ麻痺は解けていない。急いで鷲獅子の背にまたがり、走らせる。


「早く、早くっ、飛んでしまえば追っては来れない!」


 鷲獅子は徐々にスピードを上げ、くうを駆ける。閉ざされていた希望への道が開く。


「よしっ!やったよアリアさん!これで―――」


 背中に感じる重み。アリアはぐったりとルネに寄り掛かっていた。

 予想以上の疲労。最後の一撃で魔力を使い果たしてしまったのか、意識も半分途切れかかっているで様子だ。魔力の回復にはどれくらいかかるだろう―――半日か、それ以上か、十分な食事をとればもっと早くできるだろうか。


「(何にせよ、今、逃げ出せられればどうにでもなる……)」


 完全にスピードに乗った。すぐ目の前には、光と影の境界線。影の世界を抜け出すのにあと一秒も掛からない。絶望の終わりは、手の届くところまで来ている。




 

「あまり私のヴィアあなどるな!」


 強い衝撃と同時に、覚えのある感触。

 つんのめり、振り落とされそうになるが、影の触手がそれを許さない。


「しまった……」


 目の前に立ちはだかる漆黒の影。爆発的な魔力。あと一歩、たった一歩、届かない。

 影は鞭のようにうねり、少女達を縛り上げる。ルネは堪らず鷲獅子を下げた。魔獣といっても生物、例外はあれど一度死に至った魔獣が蘇ることは無い。


 影の触手が体にまとわりつく。今度は手も、足も、ぴくりとも動かせないよう強く、固く。電撃による効果は解けたのか、ルネは黄金色の瞳を目尻に寄せ視界を広げる。


「どうして……」


 驚愕か感嘆か。


「まだ麻痺したままじゃない……!どういうこと……体も、顔すらも動かせていない。でも、じゃあどうやってこの影を、予備動作も無しで、こんな馬鹿げた魔力を…………」


 ほうきを出す際に右手を地にかざす。結界や魔法を放つ際に掌を相手に向ける。移動魔術を使用する際に行く先を見る。どれも意味の無い動きではない。魔術をより早く、正確に、強く使うための決まり事。

 素立ちで魔術は扱えない。些細な魔法であればせっかちな魔術師はこれを端折ることもあるが、これだけの魔力を指一つ動かさないで制御するのは驚異的であると言わざるを得ない。


「(気合だ、気合だけでヴィアを動かしてきた……!こんな魔術師、見たことも聞いたことも無い。賀茂劉基かもりゅうきだって、の学長でさえできないはずでしょ!?)」

 

 絶望。赤毛の少女にとっては再び現れた感情。麻痺は次第に解け、女は小柄な身体を持ち上げるように、ゆっくりと立つ。


「こんなに重たい一撃は初めてよ、アリア・ハワード。それに赤土せきど族の娘」


「っ……」


 ルネは差別用語を舌打ちで返すしかなかった。


「それにしても不思議ね。に仕えて30と余年、邪魔をする魔術師を何人も葬ってきたのに、あなた達みたいなたかが学生が私を一番追い詰めるだなんて……」


 少女達の両手は頭上に、しばらくの静寂の後に吹き出したかのような笑いが聞こえる。


「……なにが可笑おかしい」


 意外にも笑みはアリアから零れていた。今までは俯き、意識は朦朧とし、抵抗する素振りも見せてこなかったがアリアが急に、堪えきれず壊れたように笑いだす。


「(どうしちゃったの……アリア・ハワード。勝てないと悟って、頭がおかしくなったの……!?)」


「なにが可笑しい!」


 締め付けが強くなる。絶望に打ちひしがれるルネと、不敵に笑みを浮かべるアリア。並べられた二人の表情は、あまりにも違うようでどこか類似している。


「―――あなた、何歳いくつなの……くくっ……」


 その言葉には様々な意が込められていた。目の前の女の年齢、その年齢でその服装、顔、声、動き。与えられた情報と、体感して得た情報とのギャップ。

 実にくだらないことがにはまっていた。


「黙りなさい!これは、あの方が初めて―――」


 激昂も一瞬。ふと我に返り、悪態をついた少女を見上げる。

 口角こそ上がっているものの、目には精が無いように見える。


「ふっ、まあいいわ。アリア・ハワード、今の貴女は何も出来ない。せめて苦しみながらの死を以て役に立ちなさい」


 影の範囲はかなり狭まっていた。ヴィアを維持するための魔力は相当なものである。必要最低限、二人の少女を囲むだけの広さに変わっていた。

 アリアは手を後ろに組まされ、前傾の姿勢を取らされる。目線を小柄なミラと同じ高さに持ってくるためである。


「早く殺してくれという目ね…………嫌よ、楽に死んでも意味がないじゃない。言っているでしょう、苦しみながら死になさいって」


 触手はより一層強く締め付ける。短い、嗚咽混じりの悲鳴。構わず何度も、ぎゅうぎゅうと締め付けを繰り返す。その度に漏れる、荒い息、声。

 ミラはそれを冷淡な目をもって見ていた。


「早く、お願い……」


 見上げる顔を、容赦なく打つ。冷酷に作業のように。

 触手はアリアの靴を切り裂き、タイツを破き、その指一本一本に絡みつく。この先自分の身に訪れる災厄を悟ったかのように、アリアの顔は青ざめる。


「柔らかい肌。まだ学生なのに、魔術大学が貴女達を差し向けなければ、こんな目に合わずに済んだのに、可哀そうよね」


 そう言う女を赤毛の少女は怪訝な顔で見つめていた。無論、次は自分の番であろうという恐怖も持ち合わせていたが、それと同時に大きな疑問を抱いていた。


「(どういうこと……何故ここまで殺し方に拘るの。時間をかけて良いことなんて一つも無いじゃない。今の私達なんてすぐにでも殺せるはず……そもそも、こいつらの目的って―――)」


「5」


 ミラは数を数えはじめた。


「4」


 それはカウントダウンであった。少女の左足の小指に巻き付く触手だけが、締め付けを強めた。


「3」

「おねがい、おねがい……」


 祈りなど関係無しに、左足小指に加わる圧迫は強くなる。折られるのだろう、関節の可動域を無視して、絶大な痛みを伴って。


「2」

「はやく……」


 アリアは首をだらんと垂らし、呟くように願い続ける。

 計り知れない苦痛の始まり。ミラの言う『苦しみながらの死』が目先まで近づいて来ていた。


「1」


「おねがい!早く来て!!」


 顔を上げ、叫んだ。

 瞬間、弾ける膨大な魔力。轟音と共に槍状の結界がアリアの目の前に突き刺さる。影を切り裂き、光をもたらす、正に希望の槍。アリアはずっと待っていたのだ。己の死を苦しまずに迎えさせてくれなどとは一度たりとも願っていなかった。

 ただ、ひたすらに、彼が助けに来てくれることだけを待ち焦がれて―――

 

「―――お待たせ」


 月や星々は光を取り戻し、吉備直登きびなおとを照らしていた。

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