16 夢

 アルプス山脈の中央、スイス東部に位置する街に二人はいた。周りは山に囲まれていて緯度も高いため、昼は短い。時計の短針は未だ落ち切っていないが、辺りは既に山の影に覆われ、つんと刺すような空気が身を擦る。


「遅いな二人とも」


 痺れを切らした男が低い声でそう言った。あまりにも寒い街中、しわの無いスーツだけを身に纏い、顎鬚あごひげはきっちりと整えられている。中肉中背で壮年の域に入ろうかという男は、隣の少女とかれこれ1時間程待機を強いられていた。


「なにか、あったのかも……。ルロワは分からないけど、ナオトは遅刻するタイプじゃない。それに、私たちと違って、ナオトはイタリアから向かっているので、例の落石事故に巻き込まれている可能性もあります」


 アリア・ハワードは駅の掲示板に書かれていたことを思い出していた。落石による運休。魔術師にとって、この手の事故に関する掲示や報道など信じるに値しない情報ではあるが、とにかく列車が運休しているのだという事実は受け入れなければならなかった。


「そうか……ルロワもイタリアから向かうと言っていた。二人とも遅刻しているとなると、お前の言っている通りかもな。……まあいい。賀茂も急用でこれなくなったから俺達二人だけだが、先に調査を開始するぞ。相方には旧市街にいると伝えておけ」


「分かりました。クルーニー先生」


 そうして、二人はクール駅を立ち去った。もとより特別人が多い街でもないが、最近は失踪事件のせいもあってか駅前でも物静かで、あたりには数台の車と、毎時二三本、数人を乗せたトラムが通るだけである。それだけに、長々と滞在していた二人の影はやけに目立っていた。


―――

 日は完全に暮れ、より一層静けさが増す。しかし、足元が不安になる程ではなく、営業中の店舗から漏れ出る光で不自由なく歩くことができる。旧市街といっても、外観が統一されているだけで、内装は普通の街と変わらないレストランやブティックが多い。まばらではあるが人気ひとけもある。


「最近、やけに多いと思わないか」


 静寂の中、落とされた一言をアリアは拾えなかった。しばらくあっけらかんとしていると再びクルーニーが話し始める。


「魔術事件が、だ。特に人形使い絡みの事件はここ三か月で加速度的に増加している。勿論、お前たちがお祭り気分で騒いでいた時もそれは変わらなかった」


「……」


「別に責めているわけではない。本来、学生の責務ではないものを『演習』などという建前を使って学生に強いているからな。寧ろお前たちは被害者と言える。更に言えば、俺の様な学術教員に回ってくる仕事でもないはずだ。賀茂も急用と言っていたが、おそらく上からの任務だろう」


 少ししてクルーニーは、まあ奴は実技担当だが、と付け足す。彼が後方を振り返り見ると、きょとんとした顔のアリアと目が合った。


「……どうした」


「いえ、特に……」


 見かけに寄らずよく喋る人だ、とアリアは内心思っていたが、口には出さなかった。声の低さとその風貌から冷酷な人柄を想像していた彼女であったが、言葉の節々に優しさのような物が伺える。

 ニコラス・クルーニー、丁度今、クールから南方に20キロ離れたレンツァーホルンのあたりを掛けている赤毛の少女の指導教員で、魔術大学における所謂いわゆる魔法生命学の教授でもある。


「……さっきよりも魔力の残絵が大きくなってきた。じめじめと湿り気のある、悪意の塊のような魔力がそこら中に飛び散っている。……ここら辺がな」


 アリアも彼と同じ物を感じていた。決して強いという訳でもない、並の魔術師なら見逃してしまう者も少なくないであろう魔力の残り香。秋口の空気のように、肌を撫でる冷たい魔力。ベネチアで感じたそれとは質が異なる。


「アリア・ハワード、お前は夢とか、野望とか、そういった大層なものを持っているか」


 緊張感のない、ありふれた会話であった。


「持っています、けど……」


「それは何だ」


 食い気味に質問を続けるクルーニーに、アリアは強く不信感を抱いていた。何故、急に、どう考えても場違いな会話を始めたのだろう。彼自身は戦闘向きでないようなことを言っていたが、魔力を探る勘も、微小に残っていただけの魔力を察知する速さも熟練の技であり、流石は魔術大学の教授だなと思っていた。それだけに、彼女は納得がいかなかった。

 それでも、アリアは答えた。真直ぐな眼差しで、はっきりとした口調で―――


を全て破壊する。そして、この世界と魔法界の区別を無くす。それが私の夢であり、野望です」


「そうか、途方もない話だ……」


 足は随分と前に止まっている。どんよりと重たい空気が漂う街の一角、そこには妙な間が生まれていた。


「……」


「お前生きろ」


 振り返る男の口からは、血。半分生気を失っている瞳でアリアを見つめる。なにが起こっている。再び、理解が追い付かないアリアは、一瞬の内に可能性を探る。しかし、どうしても答えは分からない。否、答えは分かっているのだ。ただ答えまでの過程が思いつかないだけで。その一瞬、僅かに0.2秒ほどで、半開きになった男の口から何かが聞こえ始める。


「ステンフォ―――」


 詠唱の途中ではたりと倒れる。


「せっかく生かしてあげていたのに」


 男の影から覗く長い白銀の髪。息を呑むアリア。何かが、何かどうしようもないことが起こっている。


「あなたは誰!なにをしたの!」


「さあ、誰かしら」


「いったい、いつから……」


 声の主は、未だに姿が見えない。暗いから、ということではなく、倒れるクルーニーを支えるように彼の影に隠れてしまっているのだ。


「邪魔ね」


 クルーニーの息はない。どさりと雑に地面に投げ、その素顔をあらわにする。顔立ちははっきりとしているが、背丈は小さく、季節外れのミニスカートを着ているからか遠目からは子供の様にも見える。そしてアリアは気付く、異質な魔力の主が彼女であることに。


「あら、逃げないのね。呪手じゅつてなんか付け直して、それはヴィアかしら、それとも別の魔法?」


「……逃げても殺されるだけでしょ」


「そう、やけくそってわけ?」


「それに私、けっこう強いから」


 質問は敢えて無視した。魔術の属性も使う魔術も分からないが、魔力量だけで見ればアリアの方が格段に上だということはアリア自身分かっていた。


「(勝機はある。クルーニーさんもいまならまだ間に合うかもしれない。早めに終わらせて、助けないと)」


「……へえ、いいのかしら。後悔すると思うけど」


 間合いは5メートル。気持ちの切り替えは出来た。目の前の女に武器のような物は見当たらない。静かに、素早く、魔力を練る。初手で足場を崩し、怯む間に追撃、その後は流れだ。あとは、いつ始めるか。


「そう、それならしょうがないわね。始めようか」


 わざとらしく言った女は、大きめに息を吸い、にやりと笑った。


「消えたっ!?」


緑弾種ステンフォル・パフっ!!!」


 声は思わぬ方から聞こえた。


「先生っ!」


 アリアが強い衝撃を感じると同時に声の方向に目をやると、息絶えていたはずのクルーニーが半身を起こしていた。それも一瞬、アリアは途轍とてつもない速さで遥か後方に吹き飛ばされる。


「先生っ、なにを……」


 『逃げろ』、刹那の間だったが、彼の口元はそう動いているように見えた。


「はなしてっ!今やらなきゃ!」


 絡みつく木々がアリアを離さない。もがいて取ろうとしても、その先を阻まれ、ほぼ動けない。そうこうしている間に、クールの街は遠く離れていく。早く剥がさなくては、そう焦る度に締め付けは強くなる。


「ああっもう!今やらなきゃ、先生が―――」


 そんな思いも知ってか知らずか、アリアに巻き付くように成長する樹木の弾はもう街を囲う山に届こうかというところまで来ていた。


「ああ、もう……」


 もう、間に合わないだろう。じきに背中に少しの衝撃が伝わり、どこかの森にした。


「高度な魔術。地面にぶつかる瞬間に木が背中に回ってきた……こんなに凄い魔法を使う人が、どうして」


 どうして、あんなにもあっさりと負けてしまったのだろうか。そもそも彼女はいつの間にあそこいたのだろうか、足音など聞こえていなかったのに。それに、最後の一瞬――――


「消えた。というより何かに潜るような。それに、クルーニー先生はそれを待っていたかのように……」


 謎は深まる一方であった。取り敢えずこの暗い森から抜け出さなくては。そして、直ぐにクールに戻らなくては。アリアは立ち上がり、雪山を歩き始めた。纏わりついていた木々はいつの間にか枯れ果て、アリアを見送る。空は漆黒に染まり、僅かな月明かりだけが彼女を青白く照らしていた。

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