15 クール失踪事件

 閉じかけた瞳の中に一筋の青白い光が入り込んできた。思わず目を開けると、おびただしい数の結界が、まるで水流のような形に重なっていた。「折紙おりがみ」と呼ばれる魔術は、確か結界術の技の一つであったとルネは記憶していたが、その「結界術」を得意としている術師ナオトは、既にこの世から――――


「ルロワさん!大丈夫か、死んでないか!」


 しかし現実は、ルネの悲観的な想像を覆してくれた。走り駆け寄ってくる直登に対して、自分の身はひとまず気に留めずに、吹き飛ばされて倒れている男を直ぐに戦闘不能にするように指先で指示を出す。

 身体強化魔法で集中して体の部位を強化する場合、魔力の流れから考えると体の中心部や頭、体内の魔力の源とされる部位の魔力量は極端に少なくなる。普段魔術師は戦闘の際、相手の魔術による攻撃や物理攻撃を魔力に緩衝かんしょうさせることによって多少その威力を低減しているが、魔力量がほとんどない状態で一方的に魔力による攻撃を受ければ、それは人間の身体にとって途轍とてつもない被害となることだろう。


 実際に男は5、6メートル離れた所に虫の息で倒れていた。直登はその方向に手をかざし、掌中に生成した四つの鋭く尖った結界を一気に放つ。気絶しているのか、氷塊がそれぞれ四肢の中心を貫いても、何の反応もない。 


「―――あ、ありがとう。だけど、ナオトくん、その魔法、無詠唱で唱えられたの……?六大対抗戦では詠唱していたはずなのに、もしかして手を抜かれていたとか……」


「そんなことあるはずないよ、する余裕もなかったし。でも前に賀茂先生が言ってたんだ。殺意の籠った攻撃を受けたときに、俺の魔力量は格段に上昇するって」


「そう……それなら、いいけど」


 多分、彼は何か勘違いをしているのだろう、とルネは思っていた。魔力には人それぞれの特性が確かにある。しかし人それぞれといっても、その特性は血統や家系に因るものが大きく、非魔術師家系のものであれば特性を持たない者も多い。


「(しかも、特性は何かと何かのトレードオフ関係で作られるもの。ナオト君の言っているように魔力量を上げる特性もあるけど、それは一度に放出できる魔力量、つまり魔術出力が一時的に上がるだけだった。でもナオト君は明らかに魔力を貯めるタンクそのものが対抗戦のときよりも何周りも大きくなっている……)」


「どうかした?ルロワさん」


「な、なんでもないよ」


 なんでもないの一言では済まないほど思考を巡らせてはいたが、「魔術師同士の余計な詮索は不幸への近道」という魔術界での常識を思い出したため、これ以上何も聞くまいとルネは思った。


「それよりルロワさん、こいつどうする?気を失っているみたいだ。大学の人を呼んで尋問にかけてもらおうか」


「そうね、それが良いと思う。風で橋から落ちない所までその人を引っ張っておいて。こんな状態だからしばらく列車は運休だろうし轢かれる心配はないわ……私は大学に連絡するから」


 いつの間にか立ち上がったルネは、まだ覚束おぼつかない足で、風に煽られながらも電話を手に取る。魔術界の先住民と言われているから、現代的な電子機器に抵抗があったりするのかと直登は思っていたので少し驚愕の表情を浮かべていた。しかし、はと我に返り男の両肩を雑に掴む。


「ん、なんだ……」


 小さな違和感が直登を襲い、直登は男の体から手を離す。ルネの「ちょっと、何やってるのよ」と言う呆れ混じりの声は届かない。

 初めは音を聞いた。これは周りの風の音によって判断材料としては不足。次に直登は再び男の体を、今度は丁寧に、左手首、首、足首の順に触れる。足首に触れた瞬間、直登の疑念は確信に変わった。


「ルロワさん。この男……既に、死んでいる―――で、でも、どうして!ついさっきまで微かに呼吸音も聞こえていたはずなのに……それに、そこまでの攻撃はしていない」


 珍しく動揺した直登の声を聞き、ルネは取り出した携帯片手に急いで倒れている男の前まで来る。ルネは気味悪がりながらも、一応呼吸の有無と心拍を確認してから直登に答えた。


「確かに、死んでる……こ、これが例の……」


「例の……?」


 聞き返す直登に、ルネは躊躇ためらいながら口を開く。


「これが、人形使いに掛けられた『死の呪文』よ。まだ大まかにしか発動状況の解明はされていないんだけど、今言われているのは、『例え相手に殺されずとも、これ以上の戦闘ができない状況』になっていしまえば、掛けられた魔術師の生命いのちを奪う。どこからどう見ても禁忌の呪文よ……」


「人形使い……そうか、この男もボローニャで遭遇したあの男と同じ人形使い。あのときは、アリアが殺してしまったけれども、彼も結局死んでいたのかな……いや、だからといって――――」


 直登の回顧かいこの中に出た「アリア」という単語に、ルネの鋭く尖った耳がぴくりと反応する。


「アリア、ってあのアリアハワードのこと?……へえ、意外にも優しいんだね、あの子」


 合点のいかない直登はどういうことかと聞き返した。


「呆れた。あなた、ほんとに何も知らないでここに来てるのね……あのね、こんなの生命魔法学の中等教育で学んでいるはずなんだけど――――」


 ルネが言うにはこういうことであった。

 人間の魂というのは通常、「死の瞬間」には死を認識しておらず、どのような場合であっても、いくら死を覚悟していても、死が訪れるのは一瞬の出来事である。その一瞬の間におぞましい死の恐怖が死者を襲うため、その瞬間が気付かない内に過ぎている程短くないと、あまりの恐怖で魂は耐えられない。しかし「死の呪文」で命を奪われた人間は、「死の瞬間」が数時間にも及ぶという。その後の魂の状態は論を俟たない。


「だから、アリアはあの男を……そうか、そういうことだったのか。……ありがとう、ルロワさん。俺はとんでもない誤解をしていた」


 ルネからの返事は無い。彼女は直登を残して一人、橋の根元にあるばらばらに砕けた列車の残骸に向かい、車内に置いたはずの彼女の鞄を探している途中であった。少々見渡しても見つからなかったのか、ルネが何か呪文を唱えると残骸の中腹あたりからほぼ無傷の深緑色の革製の鞄が飛び出し、彼女の手元にそのまま飛んできた。


 直登が「魔法って便利だなあ……」と驚いている間にも、ルネは直登の隣まで歩き、直登にも早く自分の鞄を取り出すように促す。


「いやいやいや、俺、結界術しかできないから、そんな便利な魔法知らないし、あと鞄もそんな頑丈じゃないからきっと木端みじんになってるよ!いま丁度そのこと思い出して、軽く絶望してたとこだよ!」


「そう、それなら諦めてさっさと歩くことね。私達が呼ばれたスイスのクールまであと100キロはあるし。どんなに運が良くても次の次の駅くらいまでは電車も止まっているはずだよ。ナオト君のその格好じゃ寒さで体が動かなくなるまで後何時間も無いだろうね」


「さ、さむい!今まで必死だったから気付かなかったけど、確かに寒い!早く行こう、今すぐ行こう」


「あ!ちょっと忘れ物したから待って!」


「おいいいぃぃぃぃぃ!!」


 直登の雄叫びは、アルプスの山々に響く。

 ヨーロッパの屋根を歩く彼らの旅は、未だイタリアとスイスの国境を越えたところであった。


「で、ナオト君はなんで橋の下から戻ってこれたのかな?」


 赤毛の少女は、少し不服そうに口を切った。午後5時を回ろうかというところである。この季節になると日も短い。空は暗く、霞む雲に星々が淡い色を付けている。山を幾度も超え、目的地のスイス、クールまでの道半ばというところである。本来ならば半日以上も掛かるこの道のりをわずか4時間余りで踏破できたのは、「シープ」と呼ばれる中型魔獣にルネが跨って移動していることと、その隣で直登が息も切らさずに走っているからだ。


「なんでちょっと不満気なのかな!」


「そんなことはどうでもいいから」


「―――どうでもいいって……!ルロワさんの隣で、落とされた瞬間に俺も遂に死ぬのかなって悟ったんだけど、前に賀茂先生っていう俺の担当教員?に見せてもらったことがあって、やってみたんだよ」


 直登が答えると、直登の視界の少し上の方から「なにを?」と尋ねる声が聞こえる。シープ、羊の名を持つその魔獣は直登の生きていたそれよりも二回りほど大きく、跨るルネは直登を見下ろす位置にいた。


「結界の上に立ったんだよ。先生は多分見えないくらいに薄い結界でやってたんだけど、俺の結界はそんな強度でないから1メートルくらいの結界を出してみたら何とか落ちずにすんでさ――――」


 そこまで話すと、直登は異変に気付いた。羊に跨る赤毛の少女が口を開いたまま唖然として自分を見ていたのだ。


「な、ナオト君……あなた、魔術の高強度固定ができるってこと……?クラスAでもできない人も居る高度な技術を、ナオト君が?」


「ま、まあ一生懸命だったし……それに、落ちてる間に何回か失敗したから結局大分下まで落ちたんだけどね……だから、上がってくるまでに時間がかかったんだ」


 直登の必死の説明も聞こえないのか、ルネは半笑いで口角をひくつかせながらどこかを見ていた。実際、彼女はヴィアを持たないため、クラスAには入らないがその魔術適応の高さと魔術の幅によりクラスA並の実力を持ち、自身の実力に誇りを持っていた。その誇りからか、少し前に魔術の世界に入門してきたばかりの直登が、自分の出来ない事を出来るという事実を受け止めたくはなかったのだ。


「結界術しか使えないから、このたった一つの武器だけは磨かないとだし……」


 しかし直登が謙遜を続けると正気を失ったルネの瞳にまた光が戻った。


「そ、そうだったの!ナオト君、結界術にしか特性がないの!だから結界術の扱いは人より……そうよね!普通の人ってそんな急に成長しないもんね!それなら納得だわ!一点特化型の魔術師なら珍しいけど、居ないことは無いもの。へ、変だと思ってたのよ!――――って、あれ」


 それも束の間、ルネは違和感を覚え言葉に詰まる。


「……ナオト君、身体強化魔法使ってないの?」


「使ってないよ」


「えっ……」


 一体どれ程の距離をこうしていたのだろうか。遅くとも20キロ毎時で駆ける「シープ」に涼しい顔をして、それに時折雑談もしながら並走する直登が身体強化魔法を用いていないと知り、赤毛の少女はかつてない驚きと共に訪れる混乱で上手く言葉が出せなかった。


―同時刻、スイス・クール―


 その部屋は薄暗く、今にも消えてしまいそうな、ふらふらと揺れる蝋燭ろうそくの火が唯一の灯りであった。

 凡庸な家の地下にあるその一室には、椅子に括りつけられた男と、もう一つの影。男は全身の身包みを剥がされ、これまた凡庸な椅子のひじ掛けには腕を縛り付け、両足も同様に縛られていて、身動きは取れない。というよりも、男は怯えきっていてもう一切の動きを取るつもりは無い様子であった。目には目隠しをされ、口にはタオルで作られた簡易的な猿轡さるぐつわ、全身の皮膚はまだらただれ、爪は一本分を残し全て剥がされ、ただ涎よだれを垂らしながら唸っているだけで廃人と化している。


「あら、シャキリは死んでしまったのね。優秀な部下だったけれども……しょうがないわね」


 ペンチのような物を持つ黒い影は、何かを見ながらそう呟いた。腰まで伸びる長い髪と、その声色から察するに女性。部下の訃報であったが、それほど悲しむ様子も無く、椅子に括りつけられた男に向かう。

 近づいてくる足音と共に、男は正気に戻り、身を捩じらせ抵抗の構えを見せる。しかし、抵抗虚しく男の手は簡単に掴まれ、爪と指の間に冷たい感覚が過る。


「ほら最後の一本もいくよ」


 べり、という鈍い音と低く情けの無い悲鳴。その不快な協奏は部屋中に響き渡るだけで、外に漏れることは無かった。男は目隠しを涙で濡らし、猿轡さるぐつわの中で嗚咽混じりの過呼吸をし始める。

 黒い影はそれを蔑むような目で見降ろし、振り返る。彼女が地上階へと向かう階段を上り始めた頃にはもう、後ろの椅子の男は何の反応も無くなっていた。


 「クール失踪事件」、後にこう呼ばれる事件の被害者はこの時点で既に30人を超えていた。

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