08 命運

 見知らぬ天井がそこには広がっていた。木張りのそれは、直登にとってどこか懐かしさのあるものだった。


 直登は上体を起こし、自分が布団の上に寝ていたことに気づく。しかし、それと同時に直登の目に飛び込む多くの情報は彼を驚かせる。

 

「和室か、これ!」


 薄緑色の畳と壁、木枠に囲まれた障子や天袋、壺の置かれた床の間。そのどれもが、彼が日本にいたころに目にしたようなものだった。

 しかし、それも束の間、一つの不安が頭をよぎる。


「どこだ、ここ……」


「君の故郷、日本さ」


 透き通るような声と共に、障子が開く。



 彼女は穢れを知らぬ新雪のように白かった。

 木々から零れ輝く朝日を背に受け、肩まですらりと伸びた純粋な白が透けている。澄み渡るように美しく儚げな肌と、純白の髪の下から覗く神秘的な青色の双眸。

 彼女のその全てが、一度見たら目を放せなくなるほどにはかなげで、美しかった。


「だ、どなたさまでしょうか」


 全身を電流のように走る動揺をどうにか抑えようと直登は胸を掴んだ。しかし、そんな些細な動作とは無関係に鼓動は速くなり、全身が震える。


「僕かい?」


 彼女は自分を指さしそう言った。その一挙一動に、直登は思わず目が釘付けになる。美しく着こなした巫女服とその下わずかに見える白い二の腕も、また心臓の収縮を大きく速くしていた。


「僕はこの世界の主、存在という存在、あるいは神だ」


 澄んだ瞳で優しく微笑む彼女を前に、直登は思わず耳を疑った。『主』『神』という聞きなれた単語は、状況と場所により新鮮な言葉と化していた。

 

 しかし、彼はすぐに気付く。自身の、その胸の中が未だに激しく収縮を繰り返していることに。そして、その恋にも似た症状が、圧倒的な恐怖によるものだと。


「へ、へぇ……なるほど」


 彼は怖気づき、女が口にした虚言にしか思えないそれを肯定するように頷いた。

 彼女の背後に広がる巨大な空虚、それは、宇宙に思い馳せるときのような圧倒的な無力感と、大海原を前にしたときのような漠然とした恐怖を、その二つとは比べ物にならない程増幅させて内包していた。


「ははっ、まぁそう怖がらないでおくれよ」


 彼女は、直登の額に滲む汗を見てそう言った。


―――


 竹のように伸びる幾つもの木々は、『樹海』と呼ぶには整えられていて、枝葉の隙間から零れ指す朝日が神秘的な輝きとともに澄んだ空気を照らしていた。


 どこかの神社であろう、直登が久しく目にしていない日本様式の瓦の作りや、阿吽の呼吸をしたところで時間が止まっている狛犬。そして、鳥居。なによりも『神』の居場所として、これ程までに適している場所は無い。


「まず、何から聞きたい?」


 前を歩く少女が直登にそう聞く。散歩でも、という誘いを受けた直登は彼女とともに本殿から続く石畳の階段を下りていた。


「……なぜ、ここにいるのか」


 直登がそういうと、少女は振り返り彼を見つめる。直登は不意に視界に入る彼女の顔に思わず胸がときめいた。恐怖と恋の中庸のような感情が未だに彼の中にうごめいていたのだ。


「いいのかな?僕が『神』だということは」


「気にならないことは無いですけど……」


 曖昧な彼の言葉に、少女は、ははっと肩を少し震わせた。その白い笑顔はしんしんと降り積もる雪のように穢れ無く見え、直登は思わず目を逸らす。


「まぁいいさ、君をここに連れてきた理由だったね。……それはずばり、『君』とこうして話をするためさ」


「俺と、話を?」


「正確には、今一番『可能性が高い人間』と、だけど、今はそんなことはどうでもいいかな」


 再び背を向けて歩き出した彼女の後ろで、話が見えないままの直登は、はぁ、と気の入らない相槌を打つ。

 あの笑顔からだろうか、彼女に対する恐怖心は直登の中からすっかりと消えていた。


「ところで、最近の調子はどうだい吉備直登きびなおとくん。アリア・ハワードとは仲良くしているようだけど」


「……どうして、俺の名前を知って―――」


「そりゃ、君達の言うところの『神』だからね。知ろうと思えば、賀茂劉基かもりゅうきやノア・ロシニョール、それに行方知らずの君の父親のことだって、ね」


 ―――父親、遠い昔にもう関わることは無いと確信し、その存在ごと頭の奥深くに埋まっていた言葉が、少女によって強引に引きずり出された。しかし、間髪を入れずに、彼女は直登を弄ぶような表情で再度振り返り、それで、と促す。


「……調子は、いいですよ。アリアも先生も、ノアやアンヘルだって良くしてくれるし。それより――」


 直登が自身の『父』について初めて興味を持ち、それをぶつけようとした、その瞬間だった。


 少女の柔肌が直登の口に触れる。冷たく、溶けてしまうのではないかと感じるその右手は直登の唇を優しく包み、彼女は直登と息が触れ合う距離まで顔を寄せていた。


「まだ、君には話せない……人智の範疇はんちゅうにある君には、まだ」


 ささやく彼女の声が頬にかかり、耳を震わす。紅潮は耳だけでなく顔全体に上り、目が、脳が、揺れるような錯覚を起こしていた。これが今際いまわきわであっても構わない程の幸福感、張り裂けそうな心臓が五月蠅く鼓動を繰り返す。


「……ま、まだ」


 直登は少女の手の内で言葉にならないような声を上げる。


「そろそろ、本題に移ろう」


 彼女は直登の口から手を離し、わざとらしく指を弾いた。


「ここは……?」


 少女の指から澄んだ音が鳴り響くと同時に、二人の周りを囲む木々は消え、足元の石畳は青々と生い茂る雑草に変わっていた。そして、遠く遥か先までその緑は続いている。

 『転移』、その言葉が直登の脳裏に浮かび、彼は咄嗟に予想される吐き気に備えた。


「はははっ、安心しなよ、今回は酔うことはない。無理に移動先を変えてないからね」


 少女はそう言い五六歩前へ踏み出し、そこで止まる。左右の小山を切り開く草原に咲く純白の花は走る風になびいていた。

 『美』という単語を体現したような凛とした立ち姿。直登がその姿に見惚れていると、彼女は流れる風に沿うように振り返り、手を差し伸べる。


「こっちへ来なよ、少年」


 自らを神と称する彼女と、次第にそれを疑いなく信じるようになった直登にとって、十八の彼が『少年』と呼ばれることは全くの自然であった。

 

「……この巨大なくぼみが、ど―――」


 少女の横に立った直登はその光景に思わず声が詰まる。

 思えば、その地形は見覚えのあるものであった。標高の低い山が流れるように繋がり、開けた中央に堂々と広がる平野。建物さえ一つとして残っていないが、ここは―――


「ここは、俺の実家だ……」


「へえ……よく、気づいたね」


 興味深い、と直登の顔を覗く少女も、しかし、直登の目には映らなかった。

 荒れ狂う波のように過去の記憶が、ここにあるはずだった夢が、希望が、彼の心の『過去』というさび付いたフォルダを潤していた。


「そう、ここは君の実家であり、いるべきだった場所……史上最大の人災『メテオラ』が起こるまでは」


「今、何て―――」


 信じ難いその二文字に、直登は思わず聞き返した。


「人類史上最大の天災は、史上最大の人災だったんだよ」


 振り向く少女の前、直登は驚愕と困惑のあまり全身に鳥肌が立ち、開いた口が塞がらない。


「そして、もう一つ」


 少女は、申し訳なさそうに直登を見た。

 草木を靡かせていた風は止み、澄み渡る晴天に少しの陰りが訪れる。雨の香り、衝撃の余韻で呆けている直登は僅かに残る正気で嫌な予感を嗅ぎ取った。


「一か月後の12月31日、僕はこの世界を滅ぼす」


 直登にもう一度、電撃が走る。冗談や嘘ではない、鋭く見つめる覚悟の目がそこにはあった。


「生き残れるのは『最も優れた人間』ただ、一人だけ」


 そう言って彼女は右手を前に出す。点と点が繋がらない直登は唖然とし、見えていないはずの彼女の手に釣られて右手を差し出した。


「せいぜい頑張りなよ。直登」


 手と手が触れ合う、その瞬間、彼の意識は再び途切れた。


 目を覚ますと、ベッドの上に横になっていた。部屋の電気は消され、窓から漏れる橙色の光が頬を微かに照らす。

 一瞬、自室かと思ったが、普段のそれよりも遥かに明るい窓の色と僅かに見える部屋の内装から、その考えを改める。


「……どこだ、ここ」


 その日、三度目の位置感覚の消失。直登は上体を起こしながら、窓がちょうど顔の高さにあることに気づき、覗くようにして首を捻った。


 ガラス越しに見える淡く滲んだ街灯。まだ活発な人通りを照らすそれは、提灯ちょうちんであった。さらに、四角がほぼ直上に反り上がった瓦屋根、至る所赤色が散りばめられた木造の建築物。

 そこは、まるで中国のようだった。


 新鮮でどこか懐かしい景色を前に、『時間』という言葉が直登の頭に浮かぶ。


「(ここが中国だとすれば、この部屋は魔術都市のホテルのどこか。日本と時差の小さいここが、夜なのはおかしい―――)」


 灯りも少なく視界が悪い部屋の中、直登は手探りで携帯を見つけ、画面を開く。


「なっ……」


 『19時20分』そう大きく表示された下にあったのは、現地時間で転移した日の翌日の日付であった。

 一瞬の自失の後、直登は携帯の下に感じる薄い感触に気付きそれを取り出す。携帯の裏に付いていた白い紙には暗くてよく見えないが、何行かに渡り文字が書かれていた。


「灯りは……ここか」


 直登の指一つで部屋に落ちる影は跡形もなく消え、瞬く間に光に変わる。良くなった目で見る部屋は想像していたよりも狭く、シングルベッドと壁際の机、そしてその間に狭い通路があるのみであった。

 しかし、直登にとって部屋の狭さなど大した問題ではない。確かな記憶と、ここにある現実の矛盾。体感としては一瞬だった意識の隙間に入り込んだ一日半という時間で何があったのか、彼は何故かその答えがそこにあると確信し、掌の白い紙に目を落とした。


 『おはよう、少年。僕の都合で君を翌日の夜に飛ばしたが、安心しておくれ、その間は君を完璧に模した人形が君の代わりをしていたから、何も心配はいらない。』


 そして、その確信は間違ってはいなかった。


「そういう問題じゃないんだけどなぁ……」


 少し落胆するような表情を見せた直登は、その手紙が白紙になっていることに気付いた。何かの魔術であろうか、などと思いつつ彼はその紙を丸めて屑籠に放った。

 

 そして直ぐに、少女のあの言葉で脳が埋め尽くされる。


 なんだ、あれ。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る