04 回復

 サン・マルコ広場はベネチアのほぼ中心に位置する広場で、その奥に構えるサン・マルコ寺院や100m近くの鐘楼、広場の周りをぐるりと囲む柱廊などのバランスからその美しさは世界一と言われる。

 深夜11時、人気のないその広場に一人の少女が現れた。見るものを魅了する優美な立ち姿は、暗闇の中でも変わらなかった。隙は無い。張り詰めた空気が広場一帯を漂っていた。


「遅かったな」


 上空から聞こえたその声は、声量こそなかったが広場中に響いていた。


「あなたが爆破予告を?」


 アリアはそう言いながら上空を見回した。月明かりの中、鐘楼の頂上にある人影。声の主は見下すように立っていた。


「ほう、娘一人か。呑気なものだな」


 彼はどこか遠くを見てそう言った。


「まぁいい。あと一時間、いささか余興としてはつまらんがな」


―――


 直登は細い路地を凄まじい速さで駆け抜けていた。呼吸は荒く、レンガ造りの住宅と緑色の川に挟まれた細い路地には激しい足音が響いていた。

 刹那、交じる異質な音。水面に落ちる殺意に満ちた影。


「逃がすわけねえだろっ!!!」


 背後から木霊こだます怒号と共に右を走る川の水が浮き上がり、それと同時に氷の壁となり彼の前に立ちふさがった。直登は走ったまま氷を破ろうと右足を突き出した。


「ど素人っ!!!」


「うそぉっ!?」


 直登は自分の身に何が起こったのか理解できないでいた。


「(かかとは入れた……けど、抜けない!)」


「あまり引っ張らない方が良いわよ、足ごと持ってかれるから。ま、そのままでも壊死してくだけだけど」


 そう言われ、直登は足の力を抜き上を向く。少女の顔はすぐ間近に迫っていた。その開ききった瞳孔には狂気の色。垂れ下がる銀色の髪は彼の頬をなぞり、吐息までもが顔にかかっていた。

 少女の顔は、直登が思っていたよりも幼かった。頬のふくらみ、髪の艶からして彼よりも4~5歳年下であろうか。


「ナオトとか言ったか、あんたが最も苦しむこと……そうだァ!」


 ニタリと笑った少女は、直登のもう片方の足を石畳ごと動かし同じように氷に埋める。そして宙に浮いたままの直登の頭を両手で支えた。


「今、お前の首筋に棘を作った。お前の結界を貫くことなんて容易い鋭い棘だ。私が10秒後、手を離すと同時に腹筋で耐えろ。30分耐えたら見逃してやる」


 少女はケタケタと楽しそうに笑った。冗談ではない。背後にひたひたと感じる殺気に直登はそう思った。悪魔じみた彼女の行動は、ただ自分の怨みを晴らすためだけのものであった。


「そんなことやって、何にな――」


「じゅーう」


 少女は聞く耳を持たず、カウントダウンを始める。


「きゅう」


「(ヤバい、こいつはマジでヤバい。両足首までしか固定されてない状況で耐えれるわけがない。腹筋とかそういうレベルじゃないことをこいつも知っているはずだ)」


 そう、少女には見逃す気など毛頭なかった。ただ、目の前にいるこの男をなぶり殺したい。自身が愉悦に浸りたい。それだけしか頭になかった。

 

「ごお、よん」


 着々と進むカウントが彼の死を意味していた。華奢な手によって支えられたその顔は目を瞑り、力が抜ける。諦めのようにも見えるその表情は、死が近伯しているこの状況にしては穏やかであった。


「さん、にい、いち」


 確信した勝利に一瞬笑みがこぼれる。


「死ねぇええ!!!」


「簡易結界『籠』ッ!!」


 直後、甲高い音と共に何かが潰れた。


―――


「詠唱が必要ない魔術を、詠唱して出したらどうなんの?」


 直登はアリアの話を遮り質問をした。窓の外には暗黒が広がり、そろそろ授業も終わりになる頃である。


「威力と精度の上昇」


 彼女は眠たそうな瞼をこすりながら、そう答えた。


―――


「どうしてっ!?」


 沈み切った目の前の男は未だ生きていた。結界の強度は最初の攻撃で把握したはずだった。そして、それよりも強い強度で棘を作ったはずである。暗闇に散る火花。それと同時に、彼女は次弾に備えようと腕を上げる。


「簡易結界『障子』」


 しかし、直登の手は彼女の額に達していた。

 詠唱と共に少女は後方に吹き飛んだ。それを見て彼は体をよじり起き上がる。足元の氷は結界によって切れていた。


「(……殺意がこもり過ぎなんよ)」


 長い道のほぼ突き当りまで飛んだ少女を見て死んでないかと心配になったが、魔術師は存外丈夫であるはずという希望的観測の元、彼は振り返って走り出した。少女の意識が途切れたからか、氷の壁は水へと変わり川に流れている。

 薄暗がりの街の中、駆け出す彼はサン・マルコ広場のすぐそこまで迫っていた。


 レンガ造りの住宅に囲まれた細い路地がまばゆい閃光に包まれ、そのすぐ後に轟音が鳴り響く。繰り返し、何度も。その間隔は広場に近づくにつれて短くなる。


「アリアっ!!!」


 光と音が重なった瞬間、直登は白い石畳の先にいる彼女の名を叫んだ。


「……え?」


 彼は目の前の光景を吞み込めなかった。

 ひび割れ、所々剥がされた石畳。木端微塵になった柱の残骸。クレーターのような穴がいくつも開いた寺院。途中で真っ二つに折られた鐘楼。それは世界一と謳われた美しさを欠片も残してはいなかった。

そして、鐘楼の上で箒にまたがりこちらを見る少女。月明かりに照らされたその顔は赤く染まっていた。


「……ねえ、これどうしよう」


 物凄まじい速度で直登に近づいた彼女は、いつも通りの無表情ではあったが少し声色が高くなっていた。


「それよりも爆弾魔は?相当強いって聞いたんだけど……」


 彼女一人しか見当たらないことに気づいた直登がそう聞くと、彼女は彼の頭上を指さした。彼が後ろを振り向くと、時計台がそこにあった。蒼く塗られたその時計は所々に傷があり、真ん中に行くと大きな穴が開いている。


「突き抜けてなかったら、あそこに埋まってる」


「殺したの?ま――」


 「また」と言いかけて慌てて口を紡ぐ。それを聞いて僅かに蟀谷こめかみにしわを寄せた少女は大きく首を横に振る。その顔は、何か言いたげなように見えた。


 そうこうしているうちに、もう一つ、コツコツと足音が二人に加わる。時計台の影から現われた男は呆気に取られたような表情をしていた。


「こりゃまた、派手にやってくれたなぁ……」


 広場中の悲惨な景色に当てられた男は、掌を額に付け大きく溜息を吐いた。しばらくして、彼は汚れ一つないそのスーツの中から携帯を取り出しどこかに電話をかけた。


―――


 窓の中を走る街灯を眺め、はぁ、と一息つく。白く曇ったガラスが外の景色を遮るので、直登はそれを指でなぞって消す。何時間ぶりの何気ない日常は彼にはやけに久しぶりに思えた。それは自身の隣で座席に深く腰を掛けて、ぼんやりと外に視線を向けている少女も同様であろうと感じていた。それゆえ、静寂が続くこの車内も気まずさは無かった。

 

「流石に、今日は疲れたっしょ」


 静まり切った中、不意に賀茂が話し始めた。二人は特に驚くことも無く賀茂の方を見る。


「10時間以上授業した後だったんで、相当しんどかったですね。ま、俺以上にアリアの方が大変だろうけど」


 そう言って直登がアリアの方を見ると、彼女は目を合わそうとせずにまた外を向いた。少しの間、静寂が戻ってくる。彼は行き場の無くなった言葉を誤魔化す様に軽く笑った。


「(アリアも疲れてるんだろうな……)」


 彼はそう自分に言い聞かせて、何事もなかったかのように窓を見た。


―――


「ただいま、アンナ」


 いつも通りの派手な出迎えに、アリアは芯の無いよれた声で答えた。連日の授業の準備に加えて、戦闘による膨大な魔力消費。流石のアリアにも疲れが溜まっていた。


「……シャワー、浴びてくる」


 彼女は焦げ茶色の木でできた廊下の上、途切れ途切れの足音を鳴らしバスルームに向かう。顔は俯き、目尻にしわを寄せたその表情は外で決して見せないものであった。


「大丈夫ですか?」


 後ろから聞こえるその声に、こくりと頷いて返事をする。彼女は熱くなった目頭を指で摘み、ふう、と大きく息を吐いた。

 直後、肩に何か乗った気がして彼女は振り向いた。


「無理しないで話してみなさい、アリア」


 少女の荷物を受け取ったままのアンナの青い瞳は小刻みに震えていた。途端、少女は何かが切れていたようにその場にへたり込む。頬を伝う大粒の涙は少女にとって初めての感覚であったが、そんなことは些細に思えた。


 今はただ、泣いていたかった。


―――


 少女は幼い頃より「魔女」と呼ばれ、周りから忌み嫌われていた。それはある種の差別に等しかった。授業中手元に飛んでくる紙屑や塵は数えたらキリがない、謂れもなく酷くいじめられたこともしょっちゅうである。

 

 そうしているうちに、少女は次第に感情を表に出さなくなった。何をしても馬鹿にされ嗤われるのであれば、何もしなくてもいい、何もしたくない。少女の心は内に閉じてしまった。

 

 それは周りの環境が変わっても同じであった。彼女は二年飛び級し、古郷から離れたルーデウス大学に入学することとなったが、どこからか彼女が「魔女」と呼ばれていることと、その理由が入学前には既に伝わっていて、周りから孤立し担当教員も決まらないまま2ヶ月が経っていた。

 

「ここ三日、イタリア・ボローニャにおいて連続通り魔事件がおきている。被害者はもう50人近くになっているそうだ。おそらく、『人形使い』によるものだろう。したがって、今回の任務達成条件は人形を仕留めることである」


 学長の臓腑に響くような重く低い声で命じられたのは、最近魔術界を騒がしている「人形使い」と呼ばれる人物に関する事件。通常なら学生に任せられるような事案ではなかったが、魔術師としての彼女はその戦闘能力において学長から一目置かれていた。



 幾度目かの任務。それまで通りにこなし、報告をして、報酬を貰う。彼女にとって、任務などそれ以下でもそれ以上でもない。しかし、今回の件に関しては一つ懸念があった。


「(……死なせちゃうのかな)」


 魂を器である身体から奪い、魔術で生成した人工の魂を身体に注ぎ直す。数々の死体解剖から人形使いの手口として分かったことだ。したがって、一連の事件を受け魔術界はこれを禁忌とし、更に器に正しい魂が注がれている状態を「人間」と再定義した。


「(それでも、生きているなら人間だと思うんだけど)」


 凍えるような上空で、夕焼けが消えていくのを見ていた。そろそろ空も飛べなくなる季節に入る。少女は、はぁ、と白い溜息をついた。

 その瞬間、魔術の衝突を感じ直後に耳を劈くような高い音を聞いた。


「(二人いる……?)」


 彼女は一瞬の内に地上のすぐそこまで降りた。それは、すぐ下で起こっていた。

 男が二人、淡い光に照らされて見合っている。溢れ出すどす黒い邪悪な魔力から大きい方が「人形」である、と彼女は確信し魔力を左手に込める。

 刹那、戦闘態勢に入った「人形」から練り出される膨大な量の魔力。


「あぶないっ!!」


 不意に察知した予想外の魔力に、声を発した時には攻撃を終えていた。


―――


 救った命は不思議な男であった。魔術師なのにその自覚が無い。魔術学校に通ったことがない。普通では考えられない境遇もだが、何よりも自身を特別視しない同年代の魔術師は彼女にとって新鮮であった。


「直登、吉備……」


 明日の授業の準備を終え、部屋の隅に置かれたベッドに体を沈める。真っ白な天井に映る彼の黒い瞳は、いつも優しさであふれていた。初めて自分と対等に接してくれた彼は、俗に言う「友達」と呼べるものなのだろうか。

 この一週間いつもなら考えないようなことを、ふとした時に思いついてしまう。彼女は未だ困惑していたのだ。


 しかし、彼女には一つだけ確信したことがあった。


「直登とは上手くやっていけそう……」


 疲れ果てた彼女はそのまま瞼を閉じ意識が途切れる。その口元は、少し緩んでいた。


―――


「殺したの?」


 目の前の男からその言葉を聞いた瞬間、彼女の頭は真っ白になった。

 滅茶苦茶にした広場も、直前まで感じていた焦りも、もうどうでも良かった。彼は自分を何だと思っているのだろうか。対等な関係だと思っていなかったのだろうか。その疑問と共に、怒りと虚しさが混ざり合って彼女の頭の中を回っていた。

 

 気付いたときには数年ぶり涙を流し、廊下にへたり込んでいた。情けなくアンナに胸を借り、頭を撫でられていた。


「彼と話をしてみてはいかがでしょう」


 アリアが一通り話をすると、アンナはそう言った。嫌なことがあったら、何が嫌だったか伝えろとのことだった。


「でも、悪いのは直登アイツだしなぁ……」


 外から漏れる僅かな明かりの中、ベッドの上で彼女は考えていた。彼に悪気は無いのは知っている。でも、だからこそ、自分から何が違うと詰め寄るのは嫌な気がした。


「もう、『友達』じゃないのかな……」


 思わず口にした言葉に、はっと驚き口を塞いだ。それと同時に、顔が真っ赤になり胸が締め付けられるように感じた。

 もう、考えるのは止めよう。微かに残る胸の痛みと共に、彼女は目を閉じた。


―――


 その朝は憂鬱な気分がした。学校に向かう足取りは重く、普段は決してしない擦れるような足音が響く。

 しかし、その気持ちとは裏腹に彼女は無表情を崩さないで大学の正門まで来ていた。


「……えっ」


 白く、巨大な門の脇に一人の男が立っていた。彼は流れる人を気にもせず、ただぼんやりと青い空を眺めている。

 まだ心の準備が整っていない彼女は、隠れるように人の波に入った。


「……あっ、いた」


 微かに声が聞こえ、彼女が思わす直登の方を見ると彼が小走りで駆け寄ってきていた。その黒い瞳は、真っ直ぐアリアだけを見ていた。彼女は彼が近づいてくるに連れて自身の鼓動が早くなるのに気づく。


「ごめんっ!!!」


 アリアの目の前で立ち止まった彼は、深く頭を下げた。それと同時に、突然発せられた大声にアリアを含めた人の波は一瞬止まり、彼の方を見る。


「俺、アリアに酷いことを言った。友達として、言ってはいけないことを言った」


「……だっ」


「アリアを傷つけてしまった――」


「だから、なに」


 直登の用意していたかのような言葉に、思わず声が出た。突き放したようなたい言葉だった。一瞬、訂正しようと思考が走ったが意地のようなものが彼女を止めていた。


「だから、いや、だけど、これからも俺と友達でいて欲しい………です、お願いします」


 意外な言葉。しかし、今一番欲しい言葉でもあって―――

 アリアは顔を上げようとした直登の頭を手で押さえた。もう片方の手は、無意識に口元を覆っている。彼女の鉄仮面に綻びが見え始める。


「こっち、来て」


 頭を押さえていた手で直登の手を握り、急いで人目のつかないところに走った。

 冬ももう間近の、ある朝のことである。街には冷たい風が吹き、木々は実りを終え木の葉を散らす。重ねあった掌だけが、じわりと暖かかった。


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