01 魔術都市
直登がフィレンツェの街に足を踏み入れるのは二回目であった。
前に来たのは以前イタリアに訪れたとき、それこそもう8年ほど前のことだ。何かを見ようと、人混みをかき分けて一心に歩いていた記憶がある。
あの時、見ようとしていたものは何だったろうか。
「アリア」と名乗った彼女は、あれから彼を半ば強引に連行し、ここフィレンツェまで一切の口をきかなかった。
怒っているのか――とも考えたがどうやらそうでもないらしい。
その鋭い眼差しは俺に向けられることは無く常に前を向き、思考を巡らせているようだった。
ふと、彼女の足が止まった。
普段なら出歩くことの無い深夜の街。微かに灯る街灯がちらちらと二人の影を揺らしていた。
「おぉ……」
直登は思わず声が漏れてしまう――サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。薄明りでも圧倒される強烈な存在感と迫力。それは彼に8年越しにその名前を思い出させた。
純白の壁に堂々と飾られた彫刻の数々。そして、その上に乗る巨大なドーム。まさに圧巻だった。
「直登には、いまから私とアルテイアにきてもらう」
「アルテイア?」
彼は聞き覚えのない場所の名前に、思わず顔をしかめた。つい数時間前に人を殺したはずの彼女は、何事もなかったかのように彼をここまで連行し、さらに彼の知らない場所に連れて行こうとしていた。
そのまま二人は淡い灯りの中をコツコツと歩き、大聖堂の傍にある洗礼堂の前に立つ。
「天国への門……」
大聖堂が建設されたと同時期に、イタリア随一の鋳造の腕前を誇ったとされるロレンツォ・ギベルティが30年近くもの歳月をも費やし造ったとされるその門は、周りにある彫刻とは違い、光が当たらない中でもわずかな輝きを保っていた。
「ま、いま私たちが見ているのはレプリカだけど」
直登が「へえ」と相槌を打っている間に、彼女は門の目前まで進んでいた。そして、ぽつぽつと声をおとす。その声は彼に届くことはなく地面に吸い取られていく。
彼はとたんに訪れた沈黙に気づき、手持ち無沙汰にあたりを見渡す。大聖堂に飾られる彫刻の数々は、そのすべてが自分に視線を送っているように感じ少し気味が悪い。月がちょうど雲に隠れその領域が次第に地上から消えていた。
「ねえ、どこ見てんの。はやく来なよ」
「えっ……なに、それ……?」
閉ざされていた扉が開き、その先にある闇に彼女は進もうとしていた。闇は濃く、深い。彼女の美しく束ねられた金色の髪はその色を失い、ほとんど見えなくなっていた。
「……ほんとに大丈夫なの、それ。運悪く取り残されたりしない?」
直登が躊躇していると、彼女は少しいらついた表情を見せ、「大丈夫だから、早く」と彼の腕を引っ張り中に連れ込んだ。なるようになるか、諦めの様相と共に発せられたその言葉は扉が閉じるのと共に闇に吸い込まれていった。
時計の針はちょうど直上に向いていた。
―――
魔術研究都市アルテイアは、世界に6つある魔術研究都市のうちの一つである。南ヨーロッパ唯一の魔術研究機関であるルーデウス大学を中心にほぼ円形に伸びている都市で、南ヨーロッパ中の魔術に関係するすべてのことがここに詰まっている。
その都市の細い路地に、黄金色の門が現れた。
「……着いたよ」
しばらく目を瞑っていろと言われ、閉じていた目蓋の隙間から光が入ってくる。キョロキョロと首を振っている直登とは対照に彼女は前にすたすたと進んでいた。黙って前に歩いていく彼女の背中は細い路地裏に見合わず、堂々としていた。
ここら辺かな、と立ち止まり、しなやかなその右腕をぴんと横に突き出す。彼女は開いていた手を握り、そしてまた、この度は手のひらを下にして開きなおした。その瞬間、彼女の手には
「乗って」
彼女は直登の方を見てそう言った。箒は物理法則に反したまま彼女を乗せている。この数時間、目の前に現れた非現実に驚いてばかりの直登であったが、今は驚きよりも、恐怖よりも、好奇心と興奮が自身の大半を占めていた。
「もしかして、それで飛ぶの?」
こくりと頷く彼女は門を通る時と同様に箒の後ろに方をポンとたたき、彼を催促した。彼が箒に乗るとその重みで少し箒が沈む。「つかまっていて」と彼女に言われ、彼女の肩に手を置くとすぐに二人はあっというまにはるか高くまで上昇した。
上から見る街は橙色の淡い街灯の灯りが並び、綺麗だった。風を切るその音も、少し息苦しい感じも、飛行機に乗っているときには感じられなかった感覚であった。
「……ははっ」
感動は、涙を通り越して笑いになっていた。
「なにか言った?」
吹き付ける風に遮られ声こそ届かなかったが、視線の端ではちらりと肩が震えているのが見える。
「別に、何でもないよ」
今度は聞こえるように。耳元で囁かれた上擦った声は彼女に、新鮮な感情をもたらしていた。
街の真ん中にいくにつれ灯りは増えていく。しばらくして少女は「もうすぐだから」と箒を減速させ降下させていった。直登が降りるとすぐに、彼女は箒を出した時と同じように右手を突き出し、開いた手を閉じた。それと同時に箒は消え、彼女は目の前に見える巨大な門に向かって歩いて行く。
「夜遅くにすいません」
彼女は門のわきに空いた小窓を叩く。すると門の優美さとは合わない白髪の混ざった中年の男が窓から顔を出した。男はよれよれのタンクトップ一枚を着ていて、思い出したかのように警備員の帽子を被る。
「全然気にせんでええよ、わしらはどうせ24時間勤務やしね。それはおいといて、君たちえらい高いところ飛んできたねえ。」
彼女は「そんなことより」と何かを見せ、手続きを済ませた。オレンジ色の街灯に照らされているせいか、その横顔は少し赤く見える。
学長室は長い廊下の一番奥にあった。6畳程度の小さな部屋の壁には数百の書物が置かれていて、中にはいつの時代に著されたものかも分からない古い物も見えた。
その部屋に若い男女二人と髪が白く染まり切った老人が一人、対面していた。ルーデウス大学学長であると紹介された老人は、肌や髪こそ老け込んでいるが、その眼には見る人に緊張感を与えるような光が一閃こもっていた。
「まず、ひとつ聞きたいのだが、お前がその力を自覚したのはいつだ」
老人は、アリアの話を一通り聞き終わった後、口元に蓄えた白いひげの中、震える唇からそう言った。
「『メテオラ』のときです。俺はそのとき東京に住んでてちょうど晩飯を食っている最中でした―――」
―10年前 8月11日 東京―
吉備家は四人家族であった。長男の直登のほかに妹が一人、そして両親がいたが、父親は単身赴任で何年に一回しか会うことができなかった。しかし、直登も妹もそれに関して特に寂しいという感情を持ち合わせてはいない。彼らは生まれてから父という存在を認識したことは無かったのだからそれは当然のことであった。
「っぱ、母ちゃんがつくる飯はうめぇよ!昨日
少年がそう言うと、その隣に座る少女は恥ずかしそううに、ただ「違うもん」と下を向いた。
「もう。ダメよ直登!紗英だって一生懸命に料理したんだから」
母親は常に優しかった。褒めるところは褒め、彼らが道に反するようなことをしても決して感情的に怒ったりはしなかった。そして兄妹も子供ながらに、そんな母に苦労はさせまいと努めていた。
そのとき、青白い光と共に爆音が轟いた。家族は雷かと思い居間に一瞬、静寂が訪れる、しかし直後に届いた揺れによりただ事ではない感じた。箸を動かす手は止まり、家族の笑顔は消えていた。
「ちょっと待っててね、お外見てくるから。紗英のこと、見ててね」
母親はそう言って、玄関の鍵を回し扉を開けた。外の光景はまさに地獄であった、道を挟んで向こう側は、家も、公園の木々もどこにも見えなかった。そこにはただ、クレーターのように広がる巨大な穴があるだけであった。彼女は目の前にある悲惨な光景に、ただ天を仰ぐことしかできなかった。しかし、絶望は地上にだけある訳ではなかった。
「うそ……」
空から降ってくる巨大な何かに彼女は一瞬硬直したが、すぐに家に置いてきた二人の顔を思い出し、家に駆けだした。空いっぱいに広がるその光景に、逃げ場など無いことは分かっていたが、それでも彼女には家族の元に向かうほか無かった。
玄関を開け、彼女は大きく息を吸った。
「直登!紗英!逃げ―――」
彼女はかつてない程の光に包まれていた。
眩しすぎる程明るい光を見て、少年は「あ、俺、死ぬのか」と悟る。刹那、玄関の扉が開かれようとしているのも、凄まじい轟音ともに家が破壊されていくのも、彼の目に映る全てがゆっくりに見え始めた。
「簡易結界『
少年は無意識にその言葉を発していた。しかし、同時に真っ白な壁が彼の周りを覆っていた。
少年は気が付けば荒野に立っていた。家も、妹も、母も、跡形もなく消えていた。
―――
彼がその経緯を説明し終わると、アリアと老人は顔をしかめ、少し考えるような仕草を見せた。
「興味深い、『あれ』と共鳴したのか、それとも天与していたのか。どちらにしろ、異例であることには変わりは無いが……」
老人は、そういうと机の引き出しをガタガタと開け、一枚の紙を取り出し、それを直登に突き出した。
「すまないが、お前は留学生としてうちの大学に来てもらう。そのためにこの書類にサインをしてくれ」
「りゅ、留学って、嫌ですよ!しかも、こんないきなりに……」
「このことに関してお前に拒否権は無い。いいから、早くペンを取れ」
直登は少し抵抗しようと固まったが、老人のもつその眼に圧倒され、思わずペンを取りその紙にサインをした。
「後のことは、明日書面で記す。今日はもう帰ってよい」
そう言われ、二人は学長室を後にした。もう夜も遅い。長い廊下は電灯も何も付いていないので真っ暗で何も見えなくなっていた。これを歩いていくのか、と彼が立ちすくんでいると、隣にいたアリアが「光よ」と唱えた。彼女がそう唱えると、小さな光が彼女の手のひらに現れあたりをほんのりと照らした。
「直登はこれからどうするの」
「いや、どうするって、家に帰るけど」
「そうじゃなくて、時間」
彼女はそう言って左腕に着けていた腕時計を指した。午前1時10分。『今日』はとっくの前に終わっていた。この時間になると、公共交通機関も何も動いていない。足を持たない彼にとって、それは絶望的なことであった。
「よかったら、家に来なよ。ここから、そう遠くもないし」
「え……」
彼にはその魅力的な提案に乗るしか選択肢は残っていなかった。
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