109.拘束


「アイさん…………」


 小さく声をかけるも何の返事も返ってこない。

 うつ伏せになっているため正面切ってその表情を確認することはできないが、目の端に捉えるその顔は確かにアイさんだった。

 部屋が暗く、廊下から漏れる光だけが頼りだが間違いようがない。その長い黒髪、整った顔に一度だけ聞こえた声の主は俺の知る限り一人しかいない。


「勝手に部屋に入っちゃったことは、ごめん。 ただ、扉が空いてて携帯が鳴ってたから……」


 見られたくないものを見られたというのは誰だって怒るだろう。

 俺だってそうだ。勝手にスマホの中身を見られたら当然怒る。


 彼女に謝りつつ、倒された衝撃でどこかにいってしまった携帯を探しに視線を動かしていくと手元のすぐ横に転がっているのが確認できた。

 しかし取ろうにもその両手は彼女に拘束されていて動かすことができない。

 どうしようかと考え直していると、彼女は片手で腕を拘束したまま携帯にスッと手を伸ばして自分の手中に収めていった。


「…………あぁ、たしかに着信が来てますね」

「う……うん!それを届けようと思って―――――」

「まぁ、慎也さんに取らせるため私が掛けたんですけど」

「――――えっ…………」


 彼女はなんて言った?

 俺に取らせるため?

 失くしものを探すためでもなく?

 

 いや、その言葉が真実だとするならば、俺がこの部屋に入ることは仕組まれたことだったと?

 俺はとめどない疑問が溢れながら、なんて言えばいいかわからずに声にならない声を発し続ける。

 彼女はそんな隙を狙ったのか携帯をポケットに仕舞い、代わりにリング状のものを慣れた手付きで俺の手首に巻き付けていく。


「……はい、出来ました。 痛くないですか?」

「これは……手錠!? 何するの!!」


 手首から聞こえるのはジャラジャラとした鎖の音。

 押さえつけられている力が抜けた今抜け出そうと試みるもリングの間に繋がった鎖に阻まれてしまい動かすことが出来ない。


 何故こんな事をする――――。

 そう思って首を大きく捻りその表情を目にすると……………………何もなかった。



 彼女の、アイさんの表情は何の感情も持っていなかった。


 ただの無、表情が無い。


 無表情の彼女はただただ鎖の正常性を確認するや、スッと目を伏せポケットからもう一組の手錠を取り出していく。


「落ち着いてください。 ほら、ただのオモチャですよ」


 目の前に掲げられたのは、金属でできた手錠ではなくただのプラスチック製の手錠。

 まさかと思って手首に巻かれた手錠を確認するとズシッとした重量感もなく鎖の音も軽い。確かにオモチャで間違いなさそうだ。


「ここ、少し出っ張ってるのわかりますか? ココを押せば外れますよ」


 示されるのは鍵穴のすぐ横。

 オモチャらしく救済措置が取られているようだ。


 俺も慌てて手首を捻り解錠しようと試みるも…………届かない。

 鎖が短すぎて手首を捻っても指がそこまで到達しないのだ。

 さらに言えば力づくで壊そうにも体勢が悪くて力が籠もらない。


 壊せず、解錠も出来ない手錠など本物とそう変わらない。プラスチック製でも壊せなければ金属とそう変わりはしないのだ。

 どうする。と途方に暮れていると今度はカシャリと足元から小さく音がした。


「今度は何を……?」

「足首にも掛けました。これも痛くないですか?」


 気付けばベッドの側面からはみ出して宙に浮いている足にも同様の手錠が。

 彼女はその足を叩きベッドに乗れと促してくるから大人しくその指示に従う。


「なにを、するの?」


 もう一度彼女に問いかける。

 すると今度はうつ伏せの状態から仰向けになるよう促してきて、体勢を変えると同時に腹に馬乗りになりながら見下ろしてきた。


「慎也さん、部屋の壁、見ましたか?」

「えっ……うん……俺と、エレナが」


 チラリと視線を動かしてもう一度確認すると、確かに壁は俺とエレナの写真で埋め尽くされていた。比率的にはちょうど半分。

 彼女はその答えに満足したのか口を半月状に大きく歪め、前かがみにそっと頬へ手を触れてくる。


「正解です。 何をするか……そうですね。慎也さんを奪いに、でしょうか?」

「奪う……? 誰から――――!!!」


 その行動は突然だった。

 心当たりは何かと探り出す一瞬の思考の隙を突いた彼女は自らの顔を近づけてその唇を俺の唇と接触させてしまう。


 キスだ。

 その理解を得るまでにはだいぶ掛かった。

 ただ目をつむった綺麗な顔が近づいて唇に柔らかな感触がした、とだけ認識していた。


 30秒、1分……どれだけ長いことそうしていたかすら理解できない。

 俺がその結論に到達する頃にはその顔がそっと離れていく頃だった。


「ふぅ、ぬいぐるみで練習しておいてよかったです。 やっぱり事故に見せかけるより、堂々とやったほうがいいですよね。慎也さんもそう思いません?」

「な…………! な…………!」


 事を把握した俺には驚きで何も声を出すことが出来ない。

 そんな驚愕に満ちた表情を見た彼女はクスリと小さく微笑んでもう一度、今度は一瞬触れるだけのキスをする。


「慎也さん、駆け落ちしません?」

「かけ……おち?」


 かけおちとはどういう意味か。

 書け落ち…………駆け越知…………駆け落ちか!


 確か恋仲の二人が一緒に逃げること。

 意味はわかるがやはり理解が追いつかない。なんでアイさんが俺と?どうして?


「はい。駆け落ちです。アイドルも辞めて……節約すれば十数年は暮らせるだけのお金はあります。どこかアパートでも借りて二人の愛の巣を作りましょう?」

「俺と……どうして……」

「どうしてって、慎也さんの事が好きだからに決まってるじゃないですか」


 好き。

 その言葉を伝える為にここまでのことを。


 でも、アイさんは男性恐怖症のはずだ。それなのに男の人を好きになるなんて……


「男性恐怖症だから、って思ってます?」

「…………」


 心の中を覗いたかのような言葉に黙って首を縦に振る。


「もちろん男の人は怖いです。それは変わってません。 でも、慎也さんは別です。優しくて、私をちゃんと見てくれて……。 ほら、どうです?毎日慎也さんに囲まれるためにこんなに写真を撮ったんですよ。うまく撮れてますよね?」

「でも、エレナは……」

「……あぁ、エレナの写真もありますものね。 もちろんエレナも大好きです。おばあちゃんになっても一緒に居たいと思ってます。 でも、慎也さんのことも大好きなんです」


 彼女はジャージのファスナーに手をかけながら話を進める。


「私は考えました。どうすればいいかって。 そうして一つの答えにたどり着いたんです。慎也さんがエレナとくっつくかもしれないと。 それで決めたんです。エレナに奪われるくらいなら私が奪ってしまおうって…………」


 もはや彼女の中に論理的な思考プロセスは無くなってきているのだろう。

 そんなことはもしもの中のもしも……そう指摘しようにも聞く気配など一欠片たりとも見当たらない。



 言い終わる頃には手を駆けていたファスナーが下まで到達し、前の部分があらわになる。


 それは真っ白な肌に真っ白な下着。

 ジャージの下には何も、シャツすら着ていなかったのか彼女の豊かな胸とそれを覆うブラが目に入る。

 そして服が間に挟まらないようゆっくりと倒れ込み、俺の服を下から捲って肌と肌を合わせだす。


「あぁ……これが慎也さんの……。 温かい」


 ゆっくりと倒れた彼女は俺の胸元に耳を当て、心音を聞くかのように目をつむる。

 拘束されて何も出来ない俺はただただそれを見ていることしか出来なかった。


「駆け落ちしたら慎也さんは何もしなくていいですよ? お金だってありますし、お料理だってお掃除だって。望むのならずっとベッドの上にいてもらって構いません。ただそばに、一緒に居てくれたらそれでいいんです」


 胸の上で甘美な響きが聞こえてくる。


 それは…………ラクそうだなぁ。

 労働も家事もしなくていい。ただ与えられたものを受け取るだけ。最高じゃないか。


 彼女はアイドルをするほど美人だし性格だっていい。料理も上手だし唯一の欠点である恐怖症も俺には問題ない。

 常々天使と評しているように文句のつけようがない人だ。



 ――――でも、そんなのは……


「たのしくない」

「えっ…………」


 ポツリと漏らした言葉に彼女の顔が覗き込んでくる。


「ごめん。アイさんのことは好きだけど……恋愛の意味かはわからない。 それに、駆け落ちは楽しくないよ。閉じられた世界で二人なんて…………俺は今アイさんも、エレナとリオが居てくれるから毎日楽しいんだから」


 その言葉に今まで全く動かなかった瞳が揺らぐ。

 瞳孔が開き、頻繁に視線を動かしている。

 けれどそれも一度だけのこと。彼女はすぐさま一つゆっくりと深呼吸して瞳孔の開いた目で俺を見つめる。


「それじゃあ、次のプランに移ります」

「プラン……?」

「えぇ。既成事実です。 今なら誰も来ませんし、慎也さんは動けません。既成事実を作って心身ともに一緒になります」


 既成事実…………そんなことはあってはならない。

 ただ一瞬の心の爆発に一生を賭けるのは避けるべきだ。


 まさか本当にするつもりなのか、今度は俺のラインパンツにまで手をかけはじめる。

 しかし手足を使えないなりに必死に腰へ体重をかけて抵抗を示した。


「アイさん!待って!! よく話そう!?」

「今が最後のチャンスですから待てません。大人しくしていてください……!」


 必死に脱げないように抵抗するも体勢も悪く、人ひとりの手を使った力に相対するには限界がある。

 段々とズレていくパンツと下がっていく彼女の腕。掃除の件もあってか俺の体力もカラに近い位置にある。


 ここまでか…………。

 そう諦めの言葉が頭をよぎった時、チラリと光に照らされた茶色が目の端に映ったような気がした。


「――――いや、アイこそ大人しくしてて」

「なっ…………! リ…………くぅ!!」


 一瞬のことだった。

 パンツに手をかけていた彼女の身体が大きく浮き上がったと思いきや、一瞬のうちに俺の横へと倒れ込む。


 そしてその先――――。

 彼女が突然倒れ込んだ原因である人物はそこに居た。


 アイさんの首根っこを掴み、右手首を掴みながら自身へと引き寄せてベッドに押さえつけるリオの姿がそこにあった。

 彼女はチラリと俺の顔を見て少しだけ頬を緩ませる。


「いやぁ、常々恨んだり嘆いたりしてたけど、今日ほど自分の影が薄くて良かったと思う日は無いね。 大丈夫?慎也クン」

「リオ…………」


 リオはまるで何の問題もないかのようにおちゃらけた様子で俺の安否を確認してくる。

 その問いにゆっくりと頷くと微笑みを返され、今度は真剣な様相で捕らえているアイさんを見下ろした。


「さて、現行犯……っていうのかな? どうしよっか、エレナ」

「っ……! エレナ……!」


 捕らえられたアイさんは小さく彼女の名を呼びながら視線を扉の方へと向ける。

 そこにはゆっくりと廊下から姿を現す金髪の少女――――エレナが俺たちを見つめていた――――――――。

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