人工呼吸器の少年

詠三日 海座

人工呼吸器の少年

「さつきくん、ばいばいなん?」


「ちがう、よ」


「凛くん、皐くんはね、病院で歩けるように治してもらいに行くねんで」


 不意に凛太郎の頭に大きな手が乗せられた。凛太郎は先生を一瞥し、再び皐を見やる。


「なんで歩けるようになんの?」


「凛くんはさぁ、行きたい所に自由に行ったり、かけっこして遊びたいなぁって思う時あるやろ?皐くんも自分で歩けるようになりたいねんて」


「皐くん歩けへんの?」


「知らんかったん?皐くんは病気やで?」


 皐は眉根を寄せて頷いた。


「皐くんが寝るの好きなんやと思ってたん?」


「りんはそうやと思ってた」


 全国の児童養護施設のうち、人工呼吸器をつけて自宅介護を必要とする子どもが入設しているのは、この施設だけである。

 皐は、5歳の時に両親を失い、同時に人工呼吸器を要する生活を、この施設で4年間続けている。

 ―呼吸不全。わずか5歳の子どもには重い病であった。自己で家族を失い、養育できる親戚もいなかったこの寝たきりの少年を、施設長は引き取った。彼の両親には、遠い昔に縁があるようだったのだ。

 皐の介護は主に施設長の笠木と、その他に介護免許を持つ施設員数人、時折病院から訪問に来る看護師によって成り立っていた。

 この保護施設は、ほかの施設と比較しても皐のような介護支援や、発達支援を必要とする子どもが多く保護されている。もちろん身体は健常な孤児も入設しているが、子どもたちの全体の3割が特別支援が対象の児童である。凛太郎もまた、発達障害を患った孤児であった。

 凛太郎は6歳でこの施設に入設した。両親の育児放棄が原因である。窓が開け放たれただけの部屋で横たわり、孤独と飢えを忍んで、暑さに朦朧とした日々を、凛太郎は今でも夢に見る。

 凛太郎は入設してまもなく、施設長の言いつけを破って、何人もの人が出入りするある一室の扉を開けてしまった。そこにいたのが皐である。様々な精密機器が置かれた部屋、首から管を通され横たわった少年に、凛太郎は興味を引かれた。始めは驚いた皐も、声は出せたので「触らないで、大人しくしていて」と凛太郎に言い聞かせ、彼もそれを守った。凛太郎は、今のように皐のそばで腰掛け、初対面の皐に親しく話しかけた。その様子を、あとで施設長に見つかり、ひどく叱られた。

 それでも今もこうして、ほかの子どもが出入り禁止の一室に、唯一凛太郎が立ち入れるのは、皐が凛太郎ともっと話がしたいと強請ったからである。同じ年頃の友達が必要であるという施設長の計らいから、凛太郎だけが、施設員も同伴で皐のもとに訪ねて来られるのである。


「もしさぁ、さつきくんがさぁ、歩けるようになったら、皆のとこにも行けんの?」


「行けるで」


 皐も頷いた。凛太郎は思わずほくそ笑んで、


「ふふ、ほんならぼくが最初の友達やって、皆に自慢すんねん!」


「まずは、自己紹介から、したい、なぁ」


「それもぼくがする!」


「ほんと?僕の苗字知ってる?」


 施設長は2人のやり取りを見て微笑んだ。皐は凛太郎の前ではよく笑うようになった。心から、凛太郎には感謝をしなければならない。


「さ、ほな入院の準備せなあかんから、凛くんは出るで」


 施設長の一声で、凛太郎は部屋を出た。「元気でな!」と皐に声をかけて、凛太郎は皐のいない、もとの居場所へ戻るのである。


「なぁ凛太郎くん宿題やったん?」


「…まだ」


「なんでやってへんの。凛太郎くんの宿題めっちゃ簡単やん」


「…ううん、難しい」


「絶対簡単や!終わらな遊びに入れたらへんで!」


 健常者とそうでない者とには見えない隔たりがある。それは辛くも現代社会における大きな課題でもある。子どもは時にそれを露骨に揶揄して、包み隠さず、思ったことを言い放ってしまう。


「凛太郎くん“ひまわり”やから、皆が授業してる間、ひまわり教室で遊んでるんやろ」


「隆介くんが凛太郎くんのこと“ガイジ”って言ってたで」


 子どもには子どもの社会があり、大人が知りえない、彼らの常識や意義が存在する。そこに歪んだ偏見や非道徳的な価値観を生み出してしまえば、それを大人は正さなくてはならない。

 しかし子どもの社会に、大人の常識や世知辛い事情、世間の秩序を紐解いて説明するには、子どもには少々理不尽で頭ごなしな部分も、見え透いてしまうのである。

 施設長は長きにわたり、健常の子どもたちとともに、特別支援を必要とする孤児の入設も歓迎してきたつもりでいる。しかしそこでは時折、「家族」としての環境ではなく、彼らにとっての小学校社会のような場所を作ってしまっているのではないかという思いが、胸を過ぎるのであった。

 健常の子どもには誤った偏見を正し、特別支援の子どもには、一体どんな言葉をかけてやるのが最善で、どんな優しさを与えれば、一度は誤った考えを持ってしまった彼らを、許してやるようにできるのだろうか。そんな思いが、この施設の大人たちの頭に、常に訴えかけている。




「皐くん!?皐大丈夫!?」


 鮮血だった。


「今お医者さん呼ぶからな。ごめんな、皐くんごめん。先生が下手くそなばっかりに…」


 痰を取り除くための気管吸引は常に危険が伴う。吸引カテーテルが喉の圧調節孔に挿入されている間は、患者は息ができない。多少の痛みを伴う場合もある。

 何らかの衝撃で、気管の動脈が傷ついてしまうと、カニューレからたちまち血が溢れ、大出血で呼吸ができなくなってしまう。

 この事故を皐は1年前に体験し、そばで凛太郎も付き添っている時であった。


「さつきくん…?」


 皐は目を見開いて呻いていた。喉から血が溢れ、肌の色がどんどん変わっていくのを、凛太郎は間近で見ていた。





 どくどくと、皐の喉から血が流れ、皐の目が白目を向いたように思えたところで、凛太郎は目を覚まし、飛び起きた。


「こわいゆめ…」


 1年前の鮮明な記憶である。実際にはあのあと、皐は救急車で搬送され、無事に処置が施された。

 凛太郎は途端に皐が心配でたまらなくなった。今頃病院であの様な危険な目にあってはいないだろうか。

 皐が施設を出てしばらくが経った。凛太郎は皐のいた部屋以外に居場所のようなものがなかったのだと痛感した。どこにいっても、同じ年頃の子どもからは、どこか仲間はずれのようにあしらわれる。障害者だと、“ひまわり”だと。ある子は、さながら覚えたての言葉で「無能」などと言い放った。凛太郎にとってはたまらなかった。目頭が熱くなって怒りがふつふつと湧き、息を大きく吸い込んで怒鳴りつけてやろうとした時だった。


「そない言いつけることないやろ!」


 凛太郎の背後で怒声が響いて、凛太郎は不意に肩を震わせた。向かい合っている子どもたちの視線も、自分より奥を見やって、たちまち表情が強ばった。振り向くと、そこには施設長がいた。


「なんや無能って。みんなそんなこと思ってるんか?先生絶対許さへんで!」


 普段は温厚な施設長の鋭い声に、周囲は静まり返って、凛太郎は全員が凍りついてしまったように思えた。


「隆介くんにも、京ちゃんにも、得意なことと、そうじゃないことあるやろう?凛くんにも得意なこととかすごいとこあるの、先生は知ってるで?凛くんのいいとこ見えへんのか?なんでそんな言い方するねん、みんな家族とちゃうんか?」


「なによ、凛太郎くんのいいとこって」


 誰かが呟いた。施設長は続ける。


「みんなすぐ仲間はずれにするから、知らへんと思うけど、凛くんはみんなと仲良くするのめっちゃ得意やねんで。みんなはできるか?凛くんには、出会ってすぐ仲良くなった大親友がおるねんで」


「それって」


「さつきくんって言うねんで」


 凛太郎が付け加えた。


「そう。凛くん、皐くんを紹介したりや」


「え?」


「今戻って来やったわ」


「ほんま!?」


 凛太郎はぱっと顔を上げて、施設の入口を振り返った。

 ガラスの自動ドアの向こうに十字架のマークが付いたマイクロバスが止まっていた。車椅子に乗った人影が、ゆっくりとこちらへ向かってきていた。

 それは―

 凛太郎は頬を緩めて、ぴょんぴょんと飛び跳ねて、その場を駆け出した。


「さつきくんが、さつきくんが帰ってきたぁ!!」

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人工呼吸器の少年 詠三日 海座 @Suirigu-u

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