第2話 恋愛感情とかけて、心拍数と解く

 土曜日。一週間で一番最強の日である。一番であり最強なのである。


 八月も中旬となると、日本が屋外サウナを領域展開する時期だ。車内が快適な気温であるにも関わらず、窓から見える景色はあまりにも夏夏しく、見てるだけで暑くなってくる。インパネの気温計を見ると、36.3度と表示されていた。体温かな?

 バス停やタクシー乗り場のあるロータリー側の反対側は、細い路地が入れ込んでいる。西駅の裏っかわだ。前後にはちらほらと出迎えらしき車が停車していた。ちょうど車内から二階の改札口に繋がる駅構内の階段が見える。

 ダッシュボードのアナログ時計を見ると、十三時まであと六分。髪型を整えるべくサンバイザーを下ろし、鏡を確認すると、にわかに気分がそわそわしだした。髪型OK、コンタクトも大丈夫。ジャケットに糸くずが付いていたので払う。LINEを確認すると、五分ほど前にメッセージが来ていた。紗希さんのアイコンはお洒落なオレンジ色のパフェ。ちなみに俺のアイコンは高校のオタク仲間が昔描いてくれた、良い感じにデフォルメされた似顔絵だ。

 <みながみ:あと五分でつきます [午後 12:51分]>

 あじゃあもうすぐかと思い階段に目を向けると、紗希さんが丁度階段を降りてきていた。車から降りて歩道に向かう。ドアを開けた瞬間に熱気と湿気に襲われて心がノックバックした。

 「紗希さん! こんにちは」

 右手を胸下のあたりで控えめに振りつつ声をかけると、紗希さんがこちらに気付く。

 「こんにちは」

 俺につられたのか、控えめにあげられた右手が可愛かった。右手だけじゃなく全身も最高に可愛かった。大きめの麦わら帽子に白ワンピとかいう黄金ファッション。リボンが結ばれた腰から上はノースリーブですらりとした感じで、腰から下はひざの半ばぐらいまでの丈でふわりとしたシルエット。つばの広い麦わら帽子はめっちゃ麦わら帽子って感じで、自然な曲線を描くつばから、なんとなく戦前のアメリカ人女優を連想した。どういう連想? ネイビーのリボンがふんわりと巻かれているのがお洒落。砂浜を歩くかもと伝えたのを踏まえてか、下はヒールのないサンダルを履いている。ソールは帽子と同じ小麦色で、甲の部分は白い素材でシンプルながらもお洒落~。手には深い藍色の巾着みたいなバッグを下げている。総評、お洒落。可愛い。

 なんていうかさぁ……オタクが想像する白ワンピと、お洒落な人が着てる白ワンピって、同じ白ワンピなのに何でこんな違うんですかね。オタクの白ワンピはなんていうか、純粋で、ノスタルジックな感じで、最早概念に近い。一方、紗希さんの白ワンピは、もうこれでもかというぐらい大人の良い女感が醸し出されていた。良い女すぎて普段だったら絶対に近付きたくない。怖い。近付いたら最後、屈強なイケメンマッチョマンに頸椎を折られて即死する未来が見える。

 自分が釣り合って無さすぎて最早笑いそうになるが、なんとかこらえる。

 「……どうですか?」

 挙動不審の独身男性に対する発言がそれか? やめてくれ、その優しさは俺に効く。冷ややかな目線を浴びなかっただけで優しさを感じてしまう。独身男性だもの。

 「めっちゃくちゃ似合ってますね……夏っぽくて、凄い可愛いと思います」

 やり手のイケテルメンズをトレースしようとしたけど、自身の魔力では扱いきれず良い感じにキモくなる。いつものことやん、気にせんと気張っていこ! と脳内の美人応援団長が俺を鼓舞してくれた。彼女だけが今の救いだ……。脳内に人いすぎ問題。

 「……ありがとうございます。ちょっとガーリーすぎるかなと思ってるんですけど……良かったです。伊織さん、ジャケット似合いますね。暑そうだけど、薄手だから案外……日焼け対策?」

 「ありがとうございます。慣れたからか、割とジャケット着ようが着まいがあんま変わりないですね。てかごめんなさい暑いですよね、どうぞ」

 ちょっと良い感じにならんか? と思って着てきた失敗ファッションを無事咎められつつ、紗希さんの肌に汗が浮かんでいたので慌てて助手席のドアを開ける。

 「どうも」

 自然と差し出された紗希さんの左手。オタクに衝撃走る。思わず手にとる我が右手。重なる手と手、滲む汗。内なるラッパー解き放たれる。……もうこのままフリースタイルで食っていこうかな。オタク何故すぐ会社止めてラップやろうとする?

 紗希さんと視線が重なりつつ、ゆっくりとドアを閉める。グレーのセダンに白いワンピースを着た女性が乗り込む姿は犯罪的に美しい。犯罪的とか言うな。いずれにせよ俺よりよっぽどこの車に似合う。

 運転席に戻る最中、今の一連の行動がリフレインする。アレ、もしかしなくても手をとって貰うために差し出した訳じゃなくて、バランス取るために左手が出ただけなんだろうな。それを俺の勘違いで握られてびっくりしたから、座った後に思わず俺を見た。はい、QED。

 役得の気分以上に、引かれたかもしれないというやっちゃった感に内臓をやられつつ運転席に座る。紗希さんの手は細くてひんやりとしてた。とかリフレインするのがキモいんだって。でもしょうがないじゃん。

 車外の猛烈な環境と打って変わって、車内は正しく地上の楽園だ。若干の気まずさも熱および湿気と共に車外に置いていきたいところだけど、そんなものを置いていかれても車外環境さんも困るだろうし、仕方が無いので車内に連れ込むしかない。

 これまでの浅すぎる経験を鑑みるに、紗希さんはあまり愛想を振りまくタイプでは無いし、もちろんスキンシップを取る系の女子でも無さそうだ。本人もダウナー系と言っていたし。ただしイケメンじゃないに限る、ではないと思いたい。分からんけど。ただ、直感的に正解な気はした。親しい相手だろうとそうじゃ無かろうと割と塩対応な雰囲気がするし、そういうところも彼女が樋口円香にシンパシーを感じる由縁な感じはする。人に媚びないというか。

 紗希さんがシートベルトを締めたのを確認し車を発進させる。カーナビの目的地にセットされている野間埼灯台の予想到着時刻は午後二時四十分。途中のサービスエリアには二時過ぎに着くぐらいか。邪推を振り払いしばらく運転に集中していると、紗希さんの方から沈黙を破る。

 「……高そうな車ですね」

 「親父の車なんです。単身赴任中で、たまに動かしといてと言われてるので」

 「そうなんですか」

 先週ドライブデートの約束をした後、喫茶店帰りの車内で親父に許可を貰っておいた。

 『親父、来週の土曜に車借りていい?』

 『ええで。何や、女か?』

 『そう、ちょっと、見栄張りたくて』

 『別にええやんデミオで、けどまあ見栄張りたい気持ちも分かるから許したるわ。ちゃんとやれよ。けど車内ではヤるなよ』

 『ありがとう、なんやけどやかましいわ』

 カッカッカッと笑う親父の声が脳内にこだまする。うるさい。つくづく、何でこの関西親父からこの陰キャが生まれるのか、これは立花家の七不思議の一つ(俺調べ)。

 「実家暮らしですか?」

 「一人暮らししてるんですけど、実家から車で三十分ぐらいのところに住んでます。紗希さんは?」

 「私も一人暮らしです。実家は岐阜の方ですね」

 「ああ、そうだったんですか。って言わないですね?」

 岐阜の言葉といえば『やお』やお?

 「……よくご存知で。高校と大学は東京の方なんです。それで方言が抜けたのかも……元々、そんな方言を喋るタイプでも無いですけど」

 「高校からって珍しいですね。親の都合とかですか?」

 「はい」

 身の上話をしている内に気まずさが消えていく。会話に気を取られ過ぎないように、ハンドルを改めて持ち直し運転に集中する。ルームミラーチェック、ドアミラーチェック。しかし走行中の静けさがデミオとはダンチですわ。やっぱ良い車って良いな。買う気は無いけど。というか買えないけど。

 「岐阜から東京でこっちに来られたって、何かUターン未遂って感じですね」

 「ふっ……そうですね。まあ、こっちの方が会社多いですし」

 「なるほど」

 紗希さんが静かに前を向いて座っている様子をちらりと伺う。横顔も本当美人だ。

 「伊織さんは、ずっとこちらですか?」

 「俺は大学は関西の方でした。中高はこっちだったんですけど、小学校は西日本を転々としてましたね」

 「そうなんですか。伊織さんも方言、無いですよね」

 「父はこってこての関西人なんですけど、何故か逆に方言使わん、みたいなマインドになってましたね……」

 「ああ、なるほど」

 しばし会話が途切れると、視界を緑白青の看板が通り過ぎていく。

 「あそうだ、高速乗る前にコンビニ寄ります?」

 もうちょっとで高速に乗るというところで、そういえば聞いてなかったとふと思い出した。

 「飲み物、買ってきていいですか」

 「了解です」

 すぐに次のコンビニが見つかり、車をバックで駐車させる。これぞ現代日本、消費社会の恩恵を感じる瞬間だ。

 「何か買ってきましょうか?」

 紗希さんが聞いてくる。

 「あ、自分も付いていきます。ありがとうございます」

 車から降りると、先に降りていた紗希さんがこちらを向きながら待ってくれていた。気持ち歩幅を大きくして近寄り、一緒にコンビニに入る。距離が近い。二十センチと離れておらん。すげえ! デートみたい! デートなんだよ。

 しかし浅ましすぎて口に出す事は無いけど、美人と共に行動してる時のドヤ顔感半端じゃないな。でも君紗希さんの何なの? はい、何者でもございません。虎の威を借りて申し訳ございませんでした。というかよくよく考えずともその紗希さんの横を歩いてるのがこんなんなんだぞ。委縮しろ。はい、委縮します。

 脳内で謝罪会見をしつつ紗希さんと連れ添って飲み物コーナーまで歩く。何となく一人ですーっと行きそうなイメージがあったので、一緒に行動をしてくれることに対してデートだから気を遣ってくれているのかと勘繰る。でも最初は俺の分まで買ってこようとしてくれてたぐらいだし、気心の知れた相手ならすーっと一人で買いに行くんだろうか。

 紗希さんは午後ティーといういかにもなチョイス。俺は綾鷹を選ぶ。選ぶといったら綾鷹である。

 レジに並ぶと紗希さんが右手を差し出した。

 「会計、一緒に」

 「あっえ? はい」

 普通逆では? と思ったけど後で清算すれば良いか。良いか……?

 「運転代です。……いや、お昼も私が出しますよ」

 イケメン? 彼女の発言、ちょくちょくスキップしてるから一瞬考え込むけど、今のは察するに、運転の労力とかガソリン代とか高速代とか諸々のコストを考慮して飲み物代だけじゃ釣り合って無いだろう、というのを踏まえての発言か。奢られる気の無い感じ好きよ。全然こっちが払うつもりで来たけど。でも女性に財布を出させない原理主義者の者では無いので、素直に奢ってもらう。

 「えーと、とりあえずじゃあ、お茶はごちそうさまです」

 「はい」

 会計を済ませ車に戻る道すがらに綾鷹を手渡される。まあ、昼のお金の話とかはその時になったらしよう。だって高速代はETCだから自動親父払いだし! 馬鹿息子がよ……。だが親父は承認済みなのだ! 伊織ちゃんの勝ち勝ちー。馬鹿息子が……。ガソリンが減ってたら自分で払うぐらいはしてるのでセーフということにしておく。

 親父への親孝行について考えつつ車に乗り込み綾鷹を一口。紗希さんは制汗シートで汗を拭き、日焼け止めを塗っていた。

 「ゴミ箱、足下にあります」

 「ありがとうございます」

 紗希さんは足下を覗き込んで、ふとももに乗っけていた制汗シートを捨てた。後で――……一瞬脳内に浮かび上がってきた閃光を瞬時に葬る。まだ人としての尊厳を失いたくなかった。

 

 『人を乗せている時は絶対に無謀な運転はするな』。

 父の教えに従い、高速の左車線をゆっくりと走る。

 通行量はそんなに多くない。右車線をカッ飛ばしていく車が、グレーのセダンを見て覆面と勘違いしたのか慎重に追い抜いていく場面が何度かあり、申し訳ないやら愉快やら。まあ特に気にはしない。免許取り立てだったらね、どことなく居心地が悪くなってただろうけどね。そもそも覆面パトにレクサスないし。早とちりさんめ。


 運転開始から四十五分ほど。サービスエリアまであと二十五分ぐらいだろう。ほぼ制限速度で走っているからか、ナビの予想到着時間は午後二時四十五分。当初の予想時間との差異はコンビニ休憩で後ろにずれた五分だけだ。地味に凄くて感動する。

 これまでの車内の様子はというと、基本は静かだけど、どちらからともなく会話がぽっと発生したりと、旅の始まりから一転して居心地の良い時間が過ぎていた。紗希さんはたまにスマホを取り出すぐらいで、基本的には大人しく座っていらっしゃって、景色を眺めているようだった。退屈してるようにも見えるけど、その割には良い感じに会話も発生していて、何というか……凄く自然?だった。ドライブに慣れてるのかな。

 というか、そもそもドライブは好きなのだろうか。本当にそもそもすぎる。嫌いだったら初対面の異性に誘われてドライブになんか来てないはずなので、嫌いでは無いと思うのだけど。これまでにもよく恋人とドライブデートをされてたのかしらと思い、ふと先週の喫茶店で彼女が発した言葉を思いだし嫌な汗が出てきた。

 『そうですね……周りには結構驚かれました。別に失恋とかじゃなかったんですけど』

 髪型をロングからショートに変えた時のくだりで、俺は『そらこんだけ美人なら彼氏に困らんわな』と思った。つまりその時は短絡的に水上紗希=彼氏持ちと認識していたにも関わらず、その後そのことを完全に失念してドライブデートに誘っている。まじ? 自分に対してまじ?だし、紗希さんに彼氏がいたとしたらそれもまじ?である。いやいないかもしれないじゃん。……オアイズイット本当に? それを確かめるため、リチャードと私は現地に向かいました。ここが現地や。

 こういう時は火の玉ストレートに限る。

 「紗希さんって、彼氏はいるんですか?」

 「……え……」

 アカン、アウトや。見てみ、紗希さんの不快そうな眉。表情と沈黙に胃がしぼられつつ、紗希さんの口が開かれる。

 「……いたら、来てないですよ」

 親父、すまねえ。ヤったわ。駄目な方向でやっちゃったわ。……いや、リカバリーリカバリー。落ち着いていこう。

 「ああ、すいません。……そういえばどうなのかと思い」

 「世にはそういう女性もいるでしょうけど、私個人としては恋人がいるのにドライブデートをするのはナシですね」

 「奇遇ですね、私もです」

 「じゃあ何で聞いたんですか?」

 「返す言葉もございません……」

 神妙に謝ると、その雰囲気が面白かったのか、紗希さんが小さく吹き出す。良かったあたし許された! 無罪! 無罪では無いですね。情状酌量といったところだろうか。

 「……伊織さんが私のことをどう思っているかは分かりませんが……少なくとも私の周りの女の子で、彼氏がいるのに別の男と二人きりでドライブデートは、よっぽどのことがない限りないと思います」

 「なるほど……いや、すいません。ドライブデートぐらいならオッケー村出身の方な可能性もあるのかな、ぐらいに思ってました」

 「なら、はっきりして良かったです。NG村出身です。……ここまで言って、伊織さんが彼女持ちとかいうのはなしですよ?」

 「あ、同じ村の出身なんでいないですよ」

 「そうですか、良かったです。嘘つき村出身の可能性は考えないようにしておきます」

 「そうして頂けると助かります」

 グッドコミュニケーションでいいでしょうか? ノーマルコミュニケーションのような気もする。男立花、ここでもう一歩踏み込みたくなった。しかしドライブデートには一つのリスクが付きまとう。仮に雰囲気が終わっても、簡単に抜け出せないという地獄のリスクが。ゆっくり会話がしたかったから誘ったドライブデートではあるが、改めて諸刃の剣であることを意識する。けど……それでも、父さん、ごめん。俺は……いくよ。

 「紗希さんは……経験――恋愛経験が豊富そうに見えるんですけど」

 「それ、本当に言ってます?」

 ガチめに失言をしかけた。というかした。人数の「に」ぐらいまで言いかけてた。一気に汗が噴き出す。やばいやばい。いや本当にやばい。キモすぎる。何で? ほぼ初対面の相手に経験人数聞くような人じゃなかったじゃん? 脳内の幼馴染も悲しんでいた。自分自身にげんなりしつつ、ちょっとガチめに反省する。いやほんとさぁ……。言い訳も何も出てこない。

 「本当に言ってますけど……むしろ、何でそう言われるんですか?」

 ちら、と横を伺う。彼女は無表情で車の進む先を見ていた。……可愛い。少し退屈そうな顔は、切れ長な垂れ目によるところが大きい気がする。多分だけど、実際は本当にニュートラルな表情な気がする。可愛いとか考えてる場合か?

 「……私、愛想、なくないですか?」

 「あるかないかで言ったら、ないとは思います」

 「ですよね」

 そして沈黙。

 「え、それだけですか?」

 「……そうですね。まあ、概ねそれだけだと思います」

 「なるほど……」

 それだけとか言わないの! 失礼でしょ。全く、こういうのはちゃんと脳内の段階で止めておいてよね。脳内チェック担当者を叱りつつ紗希さんの発言について考える。

 「……なんていうか、俺が相手……っていうと語弊がありますけど……いやまあ。だからなのかな、とは思ってたんですけど」

 「違いますね。割と、誰に対してもこんな感じですよ。……まあ、つまらない女なので」

 これまで抱いていたイメージから、一転して陰の雰囲気を帯びた紗希さんに若干びびる。クールと陰キャは別やからね。ウグッ……。しかしこの陰の雰囲気は一体? これは過去に何かあったのか、元々自己評価が低い人なのか、どちらだ……?

 「それって、何かあってそう仰ってるんですか? 一ミリたりともつまらない女性とは思わないのですが」

 ちょっと狙い過ぎたキモい発言をしてしまったので、恐る恐る本日数億回行っている横チラをすると、紗希さんはまばたきの回数が増えているご様子だった。良いか悪いか分からないけど何か効いたっぽい。

 「……伊織さんって、結構言ってくる人なんですね」

 「あっ……不快にさせたらすいません……」

 狙い過ぎた。思わず苦虫を噛み潰した声が出た。もうこれは実際噛み潰したね。苦い。

 「いえ……嫌いじゃないですよ。何を考えてるのか分からない、表層だけの発言に比べたら、百倍マシだと思います」

 おお、今の発言円香っぽい。感動していると、横から息を飲み込む音に続けて言葉が発せられる。

 「あの……言い方を間違えました。百倍マシじゃなくて……その、良いと思います。そっちの方が、好きですよ」

 おお……。何かうまく説明出来ないけど感動が生まれた。今の発言、後ろの部分だけ切り取って無限再生し――お止めなさい、尊厳を失いたくなくば。はい止めます。申し訳ございませんでした。

 「……とはいえ、なるべく失言はしないようにします」

 「ふふ、そうして下さい」

 よし、うまく会話できたな! これはパーフェクトコミュニケーション。本当にうまく会話が出来たかのか、疑問が残る点も含めて原作再現である。信頼度が三つあがったのでこれで思い出アピLv.1が打てる。

 「さっきの質問に答えると……――」

 そう言うと、円香に似た女性は言葉を探すように口をつぐむ。

 「――そうですね、あまり意識してはいなかったんですけど……何かあったのが、意識してないところに刺さってるのはあるかもしれません。……大した話じゃないですけど。とはいえ、それが無くても、こんな感じだったと思いますよ」

 「なるほど……」

 なるほど(?)。よし、戦果は得られた。これ以上の深入りは無用だ。撤収! こちらの方は脳内ベテラン隊長さん。

 「……」

 何となく、横から何か言いたげな様子を感じ取る。感じ取るのは得意だ。こちとら四半世紀、空気を読むことだけして世間を渡ってきたキャリア二十六年のベテランぞ? 本当に渡れてます? はい、あまり渡れていません。

 「……個人的には、紗希さんめちゃくちゃコミュ力高いし、頭良いし、話してて面白いので……語弊を恐れずに言うと、まず見た目で気になって、その後性格で好きになる人は多いんだろうなって思ってました、友情、恋愛問わずで」

 「……その人達の中に、伊織さんは含まれてるんですか?」

 いや自分の発言キモくね?と思ってた中で放り込まれた紗希さんの発言に、脳内の住人達がびっくりして一斉に電気ショック受けたみたいな反応をした。え何その小悪魔ムーブ? 急に来たじゃん。え怖。妖艶。テクニック(?)。どういう感情で言ってんのこの人恥ずかしくないのか……いや恥ずかしいのはお前の発言だよと戦慄しつつ紗希さんの表情を伺うと、あくまで会話の流れの戯れにすぎませんことよ? とでも言わんばかりの無表情であった。何でこの人このムーブして恋愛経験豊富じゃないみたいなこと言ってるんですか? 含まれてるに決まってるだろ。

 「……えー……あー、色々と言い訳は浮かんでくるんですけど、端的に言うと含まれてますね」

 いや冷静に大丈夫かこの会話? と思っていると、例のふっ、が聞こえてきた。

 「すいません、変なこと言って」

 「いえ、こちらこそ」

 ほぼオートマチックに返答しつつも脳内ではクエスチョンマークが浮かんでいる。いいねえ楽しくなってきたね。『なんだこの状況?』になってきてからが人付き合いよ。ほんまか? それ、あなたがキモいからそうなってるんじゃないですか? ……いや、それは多分にあると思いますけど。そこまで言わなくてもいいじゃないですか。脳内で拗ねていると、円香……じゃねえや、紗希さんが口を開く。今のはガチで失礼だし本当気を付けないと駄目ですからね立花さん。

 「まあ、とはいえ普通ですよ。……恋愛経験は三人、経験人数は二人です」

 声にならない悲鳴が心の底から聞こえてきた。口に出してないよ。大丈夫。ただ脳内で何人かが心肺停止しただけ。脳内に何人かいるの冷静に考えて怖すぎる。

 「ご、ごめんなさい……。でも、確かに思ってたよりは何か、普通ですね」

 「はい、普通の女です」

 あら、笑っていらっしゃる。お美しい……。若干シニカルみのある笑いなのがポイント。

 「何人ぐらいだと思ってたんですか? ……あの、恋愛経験」

 ごめんなさい。

 「二桁までは覚悟してました」

 「ふっ、何の覚悟なんですか」

 仄暗い感情が芽生えることに対しての覚悟です。

 「伊織さんは?」

 「付き合った人ですか?」

 「はい」

 経験人数を聞かれても困る。それを実際に聞いた馬鹿がいるらしいですね車内に……。

 「ふ……つうですよ。三人です」

 「普通ですね。私より恋愛経験豊富じゃないですか」

 いえ、数は同じですよ紗希姉さん。何か勘違いしていらっしゃいませんか。

 「実際、恋愛経験って人数じゃないですもんね。その点、俺は正直……ほぼほぼ、ままごとみたいなもんだったので、無いようなものですよ」

 「……例えば?」

 例えば?

 「うーん……例えば、一緒に旅行に行ったことは一回だけ。クリスマスは呪われてて、高校の時は逢引き失敗。大学と社会人ではクリスマスになる前に別れる、とか。サンタに呪われてるんじゃないかと思ってます」

 「あー……何か、微笑ましいですね。高校生の下りとか」

 「はい、微笑ましい恋愛経験を送ってきています」

 そうですか、と言うと、彼女は窓にもたれかかるようにして、窓から見える景色を見ていた。何となく、自分の過去を振り返っているのかなと思った。

 わずかな風切り音にタイヤノイズ、時折右車線を車が追い抜いていく音。しばらくの無音の後、紗希さんが口を開く。

 「あの……その」

 「はい」

 「聞き流してください」

 「はい」

 相槌もほどほどに、紗希さんの言葉に耳を傾ける。

 「……私も、最初の人は学生の恋愛なんで、微笑ましい恋愛経験でした。円満に別れたとかではないですけど。大学で出会って、三年前まで付き合ってた人が二人目で。その人、凄い嫉妬心が強い人で。でも、凄い優しかった人で。……ふっ、優しいだけの人なら良かったんですけどね。良い思い出もたくさんありますし、それ以上に嫌な思い出もたくさんあります。……別れるまでが本当に最悪で。最後に言われたのが、『お前なんて、顔しか無いじゃん』でした。もちろん私だって酷い言葉も滅茶苦茶言いましたけど。何にせよ、その言葉、忘れたはずだったんですけど、残ってましたね」

 「ヴッ……」

 「……何の鳴き声ですか、それ?」

 「いや……あの、……まあ白状しますか。多分その人俺です」

 「違います」

 それはそう。

 「……続けて?」

 水上紗希はクールに促す。

 「いや……その、自分も二人目の子が一番長く付き合ってたんですけど。うまくいかなかった理由が、俺が……その、独占欲と嫉妬に塗れたクソ野郎だったからで……今の話を聞いて無駄に辛い気持ちになってました」

 「……なるほど。嫉妬……しちゃうんですか?」

 実家に実在する妄想ノートは黒歴史だけど、人に話せないことは無い。一方で、こっちの話は自分が人生で本当に最もクソ野郎で醜かった、文句なしの人生の汚点の話で、数年は引きずったし、今でもあまり話したくない。

 「その当時は、本当ダメダメでしたね。別に今がダメじゃないってつもりじゃないんですけど……それでも、大分反省しました」

 「それで?」

 何かめっちゃ手厳しくない? 面接受けてる気分になってきた。なぜなぜを五回繰り返す……五回……。

 「……長くない上にまとまってない話をされると不快になられる方ですか?」

 「違うと思いますよ」

 クールだねぇ……。

 「というか、そんなに気にしないでください。そんなNGだらけの人間じゃないので。不快だったらそう言いますし。……不愛想なんで、分かりにくいとは思いますけど。ちゃんと言いますから」

 すき。

 「了解です。……んー、その、嫉妬するのはもう生まれつきみたいなもんだなと思ってます。空気吸うレベルで、どうしようも無い……ってことを理解したら、大分うまく対処出来るようになりました。客観的に見れるようになったというか。『ああ、こういうシチュだと立花伊織って嫉妬するんだな。うんうん、分かる分かる。じゃあ、うまく付き合っていこっか』、みたいな。……ちょっと曖昧な言い方ですけど、こんな感じで考えられるようになってからは、その感情に振り回されなくなったし、独占欲みたいなのも無くなった……わけではないですけど、……その感情に支配される感じは無くなりましたね。『ああ、独占したいのね。報告ありがと』みたいな感じで」

 返答は無く、どうやら今の言葉を考え込んでいるようだった。俺の言葉を水上紗希が咀嚼しているな、と思って、そう思う俺ってキモいなって思った。多分もうこれ生まれ持ったものだししょうがないよ。うまく付き合っていこ。はい。

 どんな返答が来るのか、怖くもあり、楽しみでもあった。ただ怖さの方がでかい。八対二ぐらいで恐怖心が勝つ。何なら返答が無いとか無いよね? それもう終わりよ?

 「……それ……。……それで、伊織さんは……んー……」

 めっちゃくちゃ咀嚼してくれてた。何なら咀嚼しきれてない。変なものをお出ししてしまった。

 「何か、うまく伝えられないんですけど……それ、結局伊織さんはいいんですか?」

 え駄目なん? と脊髄で思うが、今度はこっちが簡単に咀嚼出来ない返しだ。

 嫉妬を対処出来るようになっちゃっていいんですか、ってことだよね。え、それって嫉妬があった方がいいんじゃないのってこと? そういうこと? 分からん。分からなくなった時は人に聞くといいですよ。社会人が一億回ぐらい言われる奴。

 「それって、嫉妬がある方が良いんじゃないのか……って意味ですか?」

 「何ていうか……ちょっとお花畑なことかもしれないんで、あんまり言いたくなくなってきたんですけど」

 紗希さんでもお花畑とかいう表現使うんだ……。

 「はい」

 「……。その……嫉妬するのって、でも、好きであることの一つですよね? あの……別に私がそうだとかじゃないんですけど。それを、悪いものとするのに、何ていうか……」

 「切ない?」

 「……薄っぺらい表現をすると、そうですね」

 切ないを薄っぺらい表現って言ったぞこの人。言葉に対する意識が高すぎる。俺達オタクがJ-POPで百万回ほど酷使されてるこの表現を一生揶揄してるのと違って、この人が言うとなんつうか切れ味があるな。ていうかもうこの人めっちゃ顔が良いただの陰の者じゃない? ってことを本人に言えば絶対あの「ふっ……」って笑いと共に「今更ですか?」って言われる未来が見えた。大分彼女を脳内シミュレート出来るようになってきた。やったね! やったか?

 「自分は……違うと思うようになりました」

 「そうなんですか?」

 「んー……紗希さんって嫉妬ってします?」

 「……多分、……いや、まああまりしない方だとは思います。聞いてる限り」

 「そうですか。……あの、持論なんですけど、嫉妬ってそれ自体は尊ぶべき感情じゃないと思うんですよ。相手を大好きで、相手のことが大事だから嫉妬する、ってのは健全ですけど、ほとんどの嫉妬って『自分の支配下にあるものが別の支配を受けてて不快だ』ぐらいの感情だと思うんですよね。嫉妬は良いことだとされてる文化も海外にはあるみたいですが」

 ソースは俺である。少しだけ悪意のある表現になってるのもソースが悪いよソースが。

 「二次元のコンテンツで嫉妬する女の子可愛い! みたいなのありますけど、あれって『嫉妬してる自分に嫌気が差す』までセットで可愛いになってると思うんですよ。ただただ嫉妬してるだけなら魔女ですからね。何て言えばいいかな……嫉妬って感情自体は善悪では無いと思うんですけど、ただ、その度合いが強くなれば強くなるほど、それはただのエゴイズムの延長線上になってくるというか。……すいません、めっちゃ長文で」

 俺はこういった人の感情のアレが大好きなアレなので、ついついオタク全開で語り過ぎてしまうのだ! テヘッ。まじで人にこういうの言うのやめときな。もうこれ、何回も繰り返して言ってるよね立花? うぐぐ……人は過ちを繰り返す。ついでにフォローの文章が浮かんできたので再び口を開く。

 「……尊ぶべきは、純粋に相手を思いやる気持ちだと思うんです。それは……嫉妬に含まれてるかもしれないけど、でも嫉妬そのものでは無いというか。……紗希さんが言ってたことに対して、今ので多少なりとも回答になってませんか?」

 「なってますよ。なるほどなって思いました。……伊織さん、急に饒舌になったんで、オタクだなって思いました」

 ピキ――――ッ。今のはキレた音では無い。俺が氷になって砕けた音だ。

 何で? 何で急に通り魔してきた? しかも紗希さん無表情が溶けてめっちゃ良い表情になってるし。若干シニカルフェースね。なんかこういうところが陽キャだわ。やっぱ陽キャやこの人。独身男性、拗ねる。

 「……す、すいません」

 独身男性、拗ね謝罪。

 「いえ……良いと思いますよ。さっきも言いましたけど、私はそっちの方が好きです」

 温度差で風邪引くわ。

 「ど、どういたしまして」

 「はい」

 独身男性、適切な返答思いつかない。

 そんなこんなで人間の心について熱く語っている内に、第一目的地のサービスエリアへと辿り着いた。


 「なんか……小綺麗ですね。サービスエリアっぽくない……個人経営感?」

 「ですよね」 

 サービスエリアの建物、向かって左側が食事処になっている。木目の床、広めの感覚で設置された木のテーブルに、白い清潔感のある壁が、解放的な空間を生み出していった。オタクは闇属性なので多分このフィールドだと浄化されて死ぬ。オーダーは食券制で、券売機が設置されているところだけサービスエリア感を出していた。

 さっきコンビニで言っていた通り俺の分まで昼食代を払おうとする紗希さんに対し、高速代等々は父が払ってくれることを説明して、結局それぞれで払うことになった。俺は鶏肉のなんちゃらかんちゃらを頼み、紗希さんは白身魚のなんちゃらかんちゃらを頼んでいた。お洒落メニュー、あまりにも日本語が少なすぎる。

 「いただきます」

 「いただきます」

 紗希さんに合わせる。そういえば、いただきますって一人暮らしになってから言って無かった気がするな。

 会話も無く、お互い無言で食べる。紗希さんの食べ方は非常に綺麗だった。育ちが良さそう。マナーのなってない奴と思われないよう、なるべく丁寧にナイフとフォークを扱う。右手がナイフで合ってたよな……? 多分紗希さんがそう持ってるので大丈夫だと思う。

 よくラノベとかで好きな人と出かけて緊張で味がしなくなる描写があるけど、自分も最初はどうだっただろう。あんま記憶にないってことは味がしなくなったのかもしれない。少なくとも今回味はしっかり感じる。おいしい。大人になるって、慣れちゃうってことなんだろうな。もちろん緊張していない訳では無いけど……あとは紗希さん側があまりにも普通そうで、舞い上がる余地が無いというか。

 というか、彼女は楽しんでくれているのだろうか。自分は女性とドライブデートというだけで気分が良いけど、紗希さんが楽しんでくれていないとしたら……ちょっと辛くなってきた。まあ、あんま今考えてもしょうがないか。一日の最後にどうだったかで判断しよう。……それはそれで吐き気がしてくる。

 対面に座っているから当然だけど、紗希さんが常に視界に映る。俺の好みを現実に召喚したみたいな人が目の前に座っているのに、何故自分は緊張していないのか。舞い上がる余地がないとはいえ不思議だ。

 不思議といえば、紗希さんだ。ドライブデートに付き合ってくれるということは、多少なりとも好感度だったり脈だったりがあるのかなと思ってたけど、今日これまでのハイライトとして全く脈が無い。……そうでも無かったりする? いやぁでもあんま感じない。さっきの小悪魔ムーブとか割とアレだったけど、あれはどっちかっていうと、直前の俺の失言に対する報復な感じもする。報復とかいうワード、個人の関係間で使うことある?

 うーん、考えてると一生ネガティブなことを言い続けるな。とりあえず、今日一緒に過ごせるだけでも光栄だと思うようにして、なるべく変なことは言わずに、後悔の無いようにしよう、うん……。なんて思ってると、ふいに脳内に響く紗希さんの声。『そっちの方が、好きですよ』『私はそっちの方が好きです』。この言葉が聞けただけで、まあ何か、一日の目的達成って感じではないでしょうか……。

 ぐだぐだと考えている内に、大体同じタイミングで食べ終わる。

 「ごちそうさまでした」

 「ごちそうさまでした」

 「おいしかったです」

 「良かった、自分もおいしかったです」

 しっかりと手を合わせる紗希さんが可愛かったので、ごちそうさまを口実に拝んでおいた。


 高速に再び合流し、しばらく走った後に下道に乗り換える。口の中には、紗希さんから貰ったミント飴の風味がまだ残っていた。樋口に餌付けされる小糸の気分を味わっています。

 「紗希さんは、こういうデートで喋らなくても大丈夫な方ですか?」

 そもそも男の方から気を利かせて話題を振れ派閥の方から殺されそうなことを尋ねる。

 「……そうですね、割と。あんまり雰囲気悪いなとかは思わないタイプですね」

 「逆に、めちゃくちゃ喋ってくる人だったら?」

 「鬱陶しいなとは思いますけど、それで嫌いにはならないですよ。伊織さんは?」

 「自分は……最初の方だと、色々と喋るんですけど、慣れてきたらそんなに喋れない方ですね。……当たり前かもしれないですけど」

 「今は結構喋ってる方なんですか?」

 「いや、結構喋って無い方だと思います。というか、普通ですね」

 「へえ……」

 ちらっと横を伺う。いつもと同じ表情、つまり無表情だ。

 「……俺、喋り過ぎですか?」

 「いえ、むしろ割と喋らない方だなと思ってました」

 「悪い意味で?」

 「……どちらかというと、良い意味で」

 「なら、このままで」

 「はい、そうしてください」

 「……今の会話の流れでアレなんですけど、紗希さんっておいくつなんですか?」

 本当に流れがおかしい。でもずっと気になってたし聞きたくなってしまったのである。コミュ障がよ……。

 「今年で二十七になります」

 「あ、同い年だ」

 「ああ、そうだったんですか」

 お互いもうアラサーだった。

 アラサーあるあるでちょっとばかし盛り上がってるうちに、ふいに海が現れる。特段綺麗な海という訳でも無いけど、それでも空とのコントラストが綺麗だし、広いし、テンションがあがる。夏って感じ。


 駐車場から道を横切り段差を上がると、すぐに砂浜が現れる。海岸線を右手に進んだ先には小さな白い灯台がある。海水浴場ではないので泳いでいる人はいないが、ちらほらと人がいた。家族連れもカップルもいる。

 紗希さんはスマホを取り出すと、一枚だけパシャリ、と白い灯台までの海岸線を撮った。俺は紗希さんを撮影したい。麦わら帽子に白ワンピとサンダル。多分この海岸線で一番海が似合ってる。あと純粋に彼女の写真が欲しい。もう欲望に抗えそうにない。

 なんとか撮影の口実を考えつつ、しかしうまい口実が見つからず脳内会議では絶望的な雰囲気が漂っている中、紗希さんがぽつりと口を開いた。

 「多分、今年は最初で最後の海だな……」

 「毎年行かれてるんですか?」

 「……ええ、前に言ったインスタの子と例年、休暇の時に行くんですけど。今年はその子が失恋して、スイーツ会……というか慰め会になったので」

 それってその子のインスタ見たら紗希さんの水着が見れるってこと? とか最低な考えが頭に浮かんだ。クズ。ゴミ。

 「そうだったんですね。ここは来た事あります?」

 「ありますよ……例の彼氏とですが。車じゃなくて、色々と乗り継いで。……車だと、こんな近いんだな、って思いました。伊織さんは来たことあるんですか?」

 ぐえ……元カレと来ておった場所に連れ出したのか……。しかも――

 「……俺も、元カノと来たことがあります」

 「ふっ……お互い……ですね」

 お互い苦笑する。

 「私は二回目ですけど、思い出補正抜きで、ここ好きだなって思いました」

 紗希さんと隣り合って、灯台の方を眺める。太陽が眩しいし、海特有の強い風が気持ちよかった。自然って感じ。紗希さんが言葉を続ける。

 「別に最高に綺麗な海でも無いですし、飛行機とか船とか、すごい商業港を感じるけど……完璧じゃないところも含めて、何か良いなって思います」

 「へえ……」

 「……変ですか?」

 「いや、その……嘘っぽく聞こえるかもしれないですけど、気が合うなって思ったので。……何か、薄い言葉で同調してるなって思われるかもしれないんですけど」

 「ふっ……信じますよ」

 今のは確実に、俺の卑屈な感じにオタ性を見出した笑いだね。俺は見抜いた。何でいらん言葉を言ってしまうんでしょうね。悲しいね。

 「だって、わざわざ元カノと来た場所にもっかい来るぐらい、この場所が好きなんだなって」

 「はい、その通りでございます……」

 まあ、それは確かにそうかもしれない。……単純に女性と出かけるレパートリーが無いというのが真実なんですけど。


 どちらともなしに、灯台に向かって二人で砂浜を歩き始める。

 陽は落ち始めているけど昼過ぎというには遅く、夕暮れというには早い。青空には小さな雲がぽつりぽつりと気まぐれに浮かんでいた。

 普段引きこもっているからか、大自然を前にすると毎回『ああリアルだなぁ』というヤバめの感想を抱く。潮の生臭い匂いがするし、太陽は眩しく、風は凄いし音も凄い。風と波の音に混じって、さく、さくと砂浜を踏みしめる音が心地よかった。紗希さんが言った通り、最高の海というわけではない。海の色は青色とも言い難い暗い寒色系の微妙な色だし、砂浜もそんなに広くなくてそこまで綺麗でも無い。バえそうな白い灯台が無ければ本当に見どころの無い海だ。でも、それが何となく好きだった。他の海と比べてとびきり魅力的というわけではないけど、それでも悪くない、みたいな。そんなところが好きで、それを紗希さんも好きだと言ってくれたことが嬉しい。

 潮の匂いに混じって時折紗希さんの匂いがして、理想像そのものみたいな女性が横にいるのを意識する。キモいね。でも仕方が無いよね。

 紗希さんの身長は低くは無いけど、流石に身長差があると普通に歩いているだけで自分の方が早くなってしまうので、少しだけゆっくりめに歩く。

 会話はぽつぽつと。見える景色について言葉を交わす。

 灯台に着いても変わらない。相変わらず表情は分かりにくいけど、なんとなくリラックスした雰囲気だった。そうだったら嬉しい。

 ちなみに、この灯台には近くの何かに南京錠か何かをぶら下げると恋人が幸せになるな何かの願掛けスポットがある。何回か来ているにも関わらずあまりにも情報がラフいが、そういうのを利用しないタイプのユーザーなので仕方が無い。元カノと一緒にそれをしてたら何か変わってただろうか。変わらなかっただろうけど、利用していないので分からない。流石にもう未練も無い。なんてことを白い灯台を見上げながら考えていると、紗希さんはその南京錠をかけるスポットに目を向けていた。彼女は元カレと南京錠をかけたのだろうか。やってなさそう。偏見。聞いてもそこまで変なことにはならないと思ったので、声をかける。

 「やりました、あれ?」

 「え? ああ。やりませんでしたよ。伊織さんは?」

 「やりませんでした」

 「そうですか」

 彼女はそう言い、少しだけそこを見つめて、視線を海へと移した。

 何を考えているかは分からない。昔の自分はこういう時、相手が何を考えているのかすごい気になる性格だった。けど、それを聞いたところでしょうもないといつしか思うようになり、気にならなくなった。これも大人になるってことなのかね。

 しばらく海を二人で見ていたけど、どちらともなく戻る雰囲気になり、砂浜を後にした。


 帰りの目的地に着くのは六時半頃だったので、駅周辺のちょっとだけ良いディナーにお誘いしたら、紗希さんは最初に誘った時と同じく二つ返事だった。何故かように彼女は二つ返事なのだろう。私気になります。

 彼女が現在恋人を募集中であるかは分からないし、それを聞くのはあまり良くないと思ったので聞かない。これが合コンで出会った相手とのドライブデートだったら、お互い付き合うことを見据えた上でのお試し期間という感じだけど、我々はそういう出会い方をしていない。お互い、恋人がいた場合他の相手とドライブデートはNG村出身ということで、これってつまり当方にはいつでも恋人を迎える準備があるということでは……!? と思っていたが、よくよく考えると、別にそういうのを抜きにした友達作りなのかもしれないなとも思った。個人的には、オタク友達が増えるという出来事、普通の友達が出来るのと違って戦友だとか同志が増えるみたいな特別な感じありますからね。

 一方で自分はどうしたいの?というと、それはもちろん、そういう関係になれるならなりたい。見た目は言うまでもないけど、性格に関しても落ち着いた感じで自分の好みだ。陰キャは陰キャに惹かれ合う……とかいうと紗希さんに失礼すぎるけど、彼女の波長は好ましかった。素っ気なくて少しぶっきらぼうだけど、俺に対して興味が無いからそうなってるのではなく、彼女の素はこんな感じなのかなと思えた。そうじゃなくて全部演技だったら大したものだけど、まあその時はその時だ。

 ……今日告白する気は無かったけど、よく考えたらもう告白すべきなのだろうか? これ以上デートを続けても、多分今日と似たような感じになるだけな気がする。だとしたら、もうとっとと告白して振られ……いやでもなあ。告白しなければ、彼女と友達を続けれたりしませんでしょうか。告白を断られて、その後も交友を続けられるイメージがあまり出来ない。というかそもそも俺自身、本当に彼女と付き合いたいのか、本当に彼女が欲しいのか、いまいちよく分かってない。そう、あれだ。初恋の時のあのどうしようもならない感じになってないのだ。好きすぎてつらぴ、みたいなあの感じ。とはいえ、あの状態になれたらいいなと思う気持ちがある一方で、そんな風になれる時期はもう過ぎてしまったような気もしていた。

 今一度紗希さんの言動に目を向けると、彼女の俺に対する雰囲気は悪くないと思う。もしかして……この子、俺のこと好きなんじゃね? とは微塵たりとも……微塵ぐらいは思わなくも無いけど、でも冷静に考えてそうは思えない。あっこの子俺のこと好きなんだな、みたいな乙女の表情みたいなものは紗希さんから一切感じられないし。塵ぐらいの可能性を感じるのは二つ返事のところで、俺に対する印象がネガティブないしプラマイゼロのあたりだったら普通断るものでは無いのか……? とはいえ、陰キャさのある彼女といえど基本は陽キャ。恐らく自分がそうだと思うことが当てはまらないことは多々あるだろう。

 今日の会話を思い返すと、結構雰囲気は良かったと思う。ともすれば、昔の自分だったらすぐに好きになってしまっていたと思う。じゃあ今好きじゃないのかというと勿論好きなのだけど、若かりし頃の盲信的な恋愛感情ではない。うんうん、それもまた大人になるということだね。昔に戻りたい訳では無いけど、取り戻せないものへの憧れ的なものはある。

 ぐだぐだ考えている内にまとまってきた。今日告白してもそもそも受け入れられるとは思わない。とはいえ、彼女と付き合ってみたい気持ちは強い。だから、あともう二回ほどデートをして、大丈夫そうなら告白しよう。三回デートして駄目だったらしょうがない。後のことは、なるようになるだろう。


 市内では比較的高めの価格帯の洋食で、店内の雰囲気は落ち着いている。二人とも今日のディナーという定番の日替わりメニューに身を任せた。

 食事中はちょくちょく会話があった。サラダがおいしいだとか、飲み物がおいしいだとか、紗希さんが喋るでもなく呟いた言葉に、時たま短く、たまに会話になりつつ食事を楽しんだ。最初の頃よりもかなりリラックスした雰囲気だった。

 そう、彼女といるとかなり自然でいられるような気がした。オタクを隠す必要も無いし、良いか悪いか分からないけど、場の空気を読んで話題を提供しなきゃとか、そういう女性関係でのあたふたをしなきゃいけない雰囲気も無く、自然でいられる。それはとっても素敵だなって、って魔法少女のまどかさんも言ってる。そうは言って無いけど。ああ……ってかもうこれ、あれだな。俺紗希さんのこと好きだわ。

 先程のことで紗希さんのことを考えて意識したからだと思う。彼女への恋心が芽生えたのを自覚した。それでも、不用意に挙動不審になることも無く、今日幾度となく思った、大人になったなという感想が浮かぶ。思い過ぎ問題。でも、二十六ってそういう年なのかもな。もうとっくに大人だけど、結婚もしてなければ子供もいない。俺はモテないオタクなので、子供と大人の狭間の時期みたいなのにも大分長いこといる気がする。ただ、まだ子供だな、と思うことはあまり無い。大人になりきれていない大人って感じだ。

 ああ、ご飯を食べる紗希さんは可愛いし美しい。彼女と将来結婚する男はさぞかし幸せだろうなと思った時、よく慣れ親しんだ仄暗い感情君が起床するのを察知する。おお、久しぶりに会ったな。いつもお疲れ様、君も勤勉だね。


 デザートのシャーベットを食べ終わり、紗希さんが化粧直しに行っている間に会計を済ませる。これぐらいはね。正直、自分がそういうデキる男を演出するに足る人物とも思わないが、やっている内に堂に入るということもあるでしょうよ。

 会計を通り過ぎて店を出ようとする俺に紗希さんは怪訝な表情を浮かべたが、すぐに「あっ……」という言葉と共に納得したようだった。そして店を出た瞬間、いくらでしたか?と聞いてくる。

 「今日は付き合って頂いたので」

 「いえ、でも」

 「初回はただということで」

 「……あ、あの」

 「はい?」

 紗希さんの様子が少しおかしい。何か、焦っているような感じで、全く想定していなかったことに面食らう。事前のシミュレーションではこの後スムーズに次回の約束を取り付けるはずでした。僕のデータには無いぞ、このシチュエーション! ただ、ここまでで雰囲気は結構良かったはず。次回も一緒にお出かけ出来ると思ってたんだけど……。

 「そ、その……さっき言ったインスタの子、その子が立ち直って、その、合コンをセッティングしてくれって言われてて」

 ……ん?

 「はい。……?」

 「あの、三対三で……その、伊織さん、いきなりで失礼かもしれないんですけど、セッティングして頂くことってできませんか?」

 あっ。あー。あああー……。

 「あー……いいですよ。いつぐらいにしましょう?」

 「そうですね……ちょっと先ですけど、一旦三週間後か四週間後の土日どちらか、空いてます?」

 「分かりました、その四日間で三人の都合が合いそうな日を連絡しますね。多分週明けの水曜までには連絡出来ると思います。店選びとかもこっちで決めていいですか? 市内の方で大丈夫ですか?」

 「ありがとうございます、助かります。市内で大丈夫です」

 ……。脈無いわ。おっ、謎かけ思いついた。紗希さんの俺への恋愛感情とかけまして、それを受けた俺の心拍数と解きます……。

 「とりあえず、西駅までお送りしますね」

 「はい、ありがとうございます」

 

 西駅までは十分ぐらいでつく。その間会話は無かった。その余裕も無かった。

 まあ、そうか。こんなもんだよな。

 ふと、前に合コンで一緒になった子と、しばらく協力関係みたいになったことがあったのを思い出す。その子と主催で合コンを開いたり、紹介したり紹介してもらったり。そんな関係になったのはその子が初めてだったが、良い経験にはなった。なるほど、強いおなごはこうやってすぐ彼氏を作るのかと。それでも、相手もこちらも二人の交友関係間では恋人が出来ず、自然と疎遠になった。

 なるほどねぇ。……なるほどねー。

 多分、紗希さんは俺をそこそこ信頼してくれたのだと思う。悪い人ではないし、ちょうど友達から頼まれてた合コンをセッティングしたら丁度良いな、周りの人も良さそうだし、みたいな感じだろうか。

 正直、かなり萎えた。ほぼほぼ……いや、正しく失恋だ。強がるとするならば、別に致命傷ではない。淡い恋心が一日で途絶えただけ。それに恋人になれないとしても、良い友人にはなれるかもしれない。メンタル面で失ったものはあるけど、得たものも多い。というか、これほどの美女とデートすることが出来ただけ、自分の低空飛行な人生的には勲章ものだろう。

 うん、思考を重ねるうちに、言いようのない失意が説明の出来る失意に変わってきた。これだけでも大分マシになる。自分がもっとイケメンだったらとか、もう少し気の利いたこと言えたらとか、気遣いが足りなかったのかなとか、彼女との相性は良いとか言ってた過去の自分を殴りたいとか、こんな美女がお前なんかをただ横に置いてるわけないだろとか勘違いして馬鹿がよとか、自傷できるポイントはいくらでもあるけど、一旦やめておこう。というかやめてくれ。俺のHPはもうゼロだ、MPもない。あーーーー。こういう時はもう本当強制的に切り替えるといいですよ。

 合コンに誘う面子はまあいつもの二人でいいだろう。三週か四週後なら予定が合わないということもあるまい。店もまあ、いつものところでいいだろう。あー切り替え切り替え。うん、とはいえ反省会はちゃんとしよう。

 

 ぐだぐだと考えているうちに西駅につく。考え事をして時間を過ごすの超得意だもんね。

 車から出る直前、紗希さんがお礼を言う。

 「あの、今日はありがとうございました。楽しかったです、お世辞ではなく」

 「そう言って頂けると光栄です」

 「…………その」

 はいなんでしょう。ゆっくりと言葉を待つ。紗希さんが言葉を探し終えるのを待つ。少し難しそうな顔をしていた。

 「……連絡、待ってます。また次にお会いするの、楽しみに待ってますね」

 「ああ、任されました。俺も楽しみにしてますね。早いうちに連絡します」

 「……はい。では、帰りお気をつけて。おやすみなさい」

 「紗希さんも、お気をつけて。おやすみなさい、また」

 「はい、それでは」

 外に降りた紗希さんを、車内から見送っていると、少し歩いたところで紗希さんがこちらを振り返る。何だろう。

 車から出て、紗希さんに手を振ると、彼女は手を振り返し、おやすみなさい、と再び口にすると、再び歩み始めた。

 その後ろ姿を、多少の失意と、その後の空虚さと共に、視界から消えるまで見ていた。


 ふぅーーーー。やっぱ人生ってむずいわ。

 叫びたい気持ちはあるけど、もう大人なので……いや違うな。大人とか関係なしに、気力が無い。心の中ですら叫ぶ気持ちになれなかった。現実なんてこんなもんよな。

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