第一章 《魔皇》の試練

第2話 《魔皇》の試練①

(――くそッ! 何なんだッ! あいつはッ!)


 時刻は午後五時頃。夕日が差し込むビルの廊下を、その少年は走っていた。

 とある進学校の制服を着た、銀縁眼鏡をかけた痩身の少年だ。しかし、ただの少年とは呼べない。何故なら彼の右腕は二倍近くに膨れ上がり、鋭利な爪を伸ばしていたからだ。

 袖が破けるほど巨大な、まるで鬼のような右腕。

 そんな腕を持つ者を『ただの』とは、とても呼べなかった。


(ちくしょう! 折角逃げ込んだのにどうして人がいない! まさか、人払いの術でも使っていると言うのか! あれは《追跡者》が使う術だぞ!)


 明らかに異常な状況に、鬼の腕を持つ少年は舌打ちした。

 だが、見方を変えれば好都合でもある。どうせ擬態も一部解いている。

 この場に目撃者がいないのなら、さらに無茶をしても問題はないだろう。

 そう考えた彼は窓の淵に足をかけ、躊躇いなく飛び降りた。ここはビルの四階。人間ならば死んでもおかしくない高さだ。しかし彼にとっては何の問題もない高さである。


(とにかく一旦姿をくらまさなければ。あんな化け物に付き合っていられるか)


 鬼の腕の少年はビル群の隙間である路地裏に着地した。

 そして、すぐさま逃走を図る――が、

 ――ズダンッ、と。

 それよりも早く、後方から何かが着地する音が聞こえて来た。


「――くッ」


 嫌な予感を抱き、鬼の腕の少年は後ろを振り向いた。

 そこには予想通りの相手がいた。

 先程まで自分を追いかけ回していた――怖ろしい『敵』だ。


「……悪いが逃がす気はないよ」


 ぼそりと告げられる台詞。


(くそがッ!)


 鬼の腕の少年は、血走った眼差しで自分の『敵』を睨みつけた。

 そいつ・・・の身長は百七十センチほど。見た目はごく普通の人間だった。あえて特徴を挙げるのならば、厚手の濃い紫色のコートぐらいか。声と体格からして恐らくは男だろうが、コートに付いたフードを深々と被っているため、顔までは分からない。


 しかし、これまでの逃走劇で、自分の『同類』であることは容易に想像できた。

 それも確実に自分よりも格上の『同類』だ。


「貴様ッ! 一体どういうつもりだ! 何故俺をつけ狙う!」


「……いや、そんなのお前を駆除するために決まってるじゃないか」


 と、コートの男は淡々とした様子で告げてくる。


「ふざけるなよ……」鬼の腕の少年は苛立ちに歯を軋ませた。

 《追跡者》ならばいざ知らず、どうして『同類』に駆除されなければならないのか。


「格下だと思って愚弄するのも大概にしろ!」


 そう告げる少年の身体は一気に変貌していった。メキメキと牙や爪が伸びると同時に筋肉が膨れ上がり、上着は右腕以外の部分も完全に引き千切れる。露出した皮膚はどんどん浅黒くなり、そして最後に額から宝石で作られたような一本角が生えてきた。

 その姿はもはや人間ではなく、二メートルほどの体躯を持つ一本角の鬼だった。


 この化け物こそが――《妖蛇バジリスク》である。


 その正体は日本の固有種である、ある意味とても有名な異形の蛇。

 極めて高い知能を持つこの蛇は、まるで粘土細工の如く自在に変化する擬態能力を有しており、獲物と決めた群れ――要するに人間社会の中へと紛れ込む習性を持っていた。


 戦闘時は角を生やした人型の怪物になることから古くはシンプルに『鬼』、もしくは『妖怪』とも呼ばれていた化け蛇達。明治以降はどこで知識を仕入れたのか、自ら《妖蛇バジリスク》と名称を改め、今や国によって殲滅指定された最も危険な害獣・・だった。


『俺の名はアサン。第四階位フローライトの《妖蛇》――アサンだ』


 と、完全に鬼の姿へと変貌を遂げた少年――アサンがそう名乗る。


『さあ、貴様も早く擬態を解け。そして名乗りを上げろ』


 続けてアサンは、紫色のコートの男を睨みつけてそう催促するが、


「いや、擬態を解けって……お前、もしかして僕を《妖蛇》だと思っているのか?」


 コートの男は怪訝な様子でそう答えた。


『……なに?』想定外の言葉に、アサンは眉根を寄せる。

 が、コートの男は大して気にも留めず、さらに言葉を続けた。


「けど、お前って第四階位だったのか。意外と小物だったんだな」


『……小物だと? 貴様はどこまでも……』


 アサンの凶眼が、怒気で紅く光った。


『とことん馬鹿にしてくれる! ならばそのまま死ねッ!』


 そう叫ぶなり、アサンはその巨大な右手をコートの男に向けた!

 途端、コートの男は後方に吹き飛んでビルの壁に勢いよく叩きつけられた。


「……? これは異能か?」


 訝しげに呟くコートの男。いきなり吹き飛ばされたことには驚いたが、何かがぶつかるような衝撃はなかった。それに今も力を受けているようだが、何の圧力も感じない。両手両足も自由に動く。ただ背中だけは壁に張り付いていた。


「これは念動力の一種なのか? けど押さえつけられるような感じはしない……」


『……ふん。自分の異能の正体を敵に明かして何の得がある?』


 言って、アサンは右手をかざしたまま、間合いを詰めてくる。

 コートの男は、両足をわずかに地面から浮かせた状態で肩をすくめた。


「それには同感だよ。それにしても第四階位なのに異能持ちなのか。少し見直したよ」


『……本当に人を馬鹿にするのが好きな奴だな。今すぐ黙らせてやるぞ!』


 ――ズシンッ!

 アサンの左拳がコートの男の頭部に炸裂した。ビシビシビシッ――と、ビルの壁に放射状の亀裂が入る。まるで大型車両が衝突したような一撃だ。


『ふん。擬態すら解かんとはな。格下だと侮るからそうなるのだ』


 と、アサンは愉悦の笑みを浮かべる――が、不意に表情を強張らせた。

 アサンの腹部にコートの男の爪先がめり込んだからだ。凄まじいまでの衝撃。直後、百キロを超す巨体が軽々と宙に舞い、今度はアサンがビルの壁に叩きつけられた。

 ガラガラ、と壁の破片と共に崩れ落ちる怪物。


『な、何だと……』


 激痛が走る腹部を押さえつつ、アサンは唖然とした。

 まさか、擬態を解いてもいない蹴りで、自分の巨体が吹き飛ばされるとは――。


(いや待て!? そもそも俺の渾身の拳さえ全くきいていないのか!?)


 信じがたい状況に目を剥いていると、コートの男が悠然と近付いてきていた。アサンの攻撃によるダメージをまるで感じさせない軽やかな足取りだ。


「ふ~ん。手のひらを外すと十数秒後に解けるのか。ああ、何となく分かった。お前の異能って重力に干渉するタイプだろ?」


『――クッ!』


 アサンは立ち上がり、再び敵の頭部を殴りつけるが、ビクともしない。

 まるで分厚い鉄の壁でも打ちつけたような感触だ。


『――な、何なんだ、貴様は!』


「ん? ああ、そっか。まだ言ってなかったっけ」


 コートの男は告げる。


「僕は《追跡者チェイサー》だよ」


『……は? な、なん、だと?』


 拳を突き出したまま、アサンは唖然とした。

 この男が《追跡者》……? 獣衣を纏ってもいないというのにか?


「それよりもかなり変わった異能だな。重力系って言っても十倍化とか無重力化とかじゃなくて、多分重力がかかる向きを縦から横に変えたんじゃないかな」


 そう指摘されてアサンは顔色を変えた。まさに的中だ。

 アサンの異能の名は《奈落ノ開門グラビティ・スタン》。

 通常ならば縦にかかる重力を横に変える異能だった。


「広い場所で使われたらかなり怖ろしい異能だな。いきなり落下する訳か……」


 コートの男は感嘆するように呟く。が、すぐに肩をすくめて。


「けど、使う場所を間違えたな。折角の初見殺しなのに」


『く、くそッ!』


 思わず舌打ちするアサン。と、その直後、

 ――ズドンッ!

 コートの男の後ろ回し蹴りがアサンに炸裂する! 

 アサンは五メートルほど吹き飛び、アスファルトに転がった。


『ぐ、あ……き、貴様、何が《追跡者》だ! 獣衣を使わん《追跡者》がどこにいる!』


「いや、獣衣は使っているよ。街中だったから変化はさせてたけど。と言うよりお前、本当に僕を《妖蛇》だと思っていたのか」


 と、少し憤慨したような声を上げるコートの男。しかし、何かを思い直したのか、不意にあごに手をやり、


「でも確かにこの姿じゃ説得力もないか。待ってろ。すぐ戦闘用に・・・・・・編み直すから・・・・・・


『な、なに? 編み直す?』


 満身創痍ながらも立ち上がったアサンは眉をしかめた。

 が、すぐにその光景を見て――表情が凍りつく。

 いきなり眼前の男が纏う紫色のコートが銀色の帯となってほどけたのだ。

 銀霊布シルバライン。紛れもない《追跡者》の証である。そして、その銀霊布は消えることもなく、男の全身に再度巻きつき、徐々にその身体を巨大化させていく。

 そうして数秒後――アサンは呆然と呟いた。


『……お、お前……何なんだ、その姿は……』


「あれ? もしかしてこっちの方が、むしろ説得力がないのか?」


 劇的な変貌を遂げた敵は、鬼であるアサンを見下ろして、そんなことを尋ねてくる。

 アサンはハッとした表情で後ろへと大きく跳躍した。

 次いで眼前の敵の姿を険しい顔つきで凝視する。


『……一体何者なんだ、お前は……』


 思わずそう問わずにはいられなかった。


 ――そいつ・・・の姿は、まるで人型の『ドラゴン』のようだった。


 腰辺りから生える長く太い尾に、宝石のように輝く紫色の竜鱗。側頭部からは雄羊のように捩じれた二本の太い角が生えており、双眸は翡翠色だ。剥き出しの銀色の牙と、鋭く大きな下顎を持っていた。


 ただ、その手には武具らしきモノは持っていない。そこは人間時と変わらなかった。

 この強靭かつ巨大な肉体さえあれば、武具など不要と言うことなのだろうか。


(………ぐ)


 凄まじい威圧感を放つその怪物を前にして、アサンは完全に凍りついていた。

 そして、二メートル半にも至る巨体を持つ紫に輝く竜人は、わずかにひしゃげた恐竜のような足でズシンッと地面を踏みしめた。


『う、うお……』


 ただ動いただけで威圧され、アサンは、ごくりと喉を鳴らした。


(ほ、本当に何なんだこいつは……)


 《追跡者》にとって獣衣の甲冑で覆われる部位はそのまま霊獣の格を示す。

 下位の霊獣だと籠手のみ。中位~上位ならば籠手から二の腕まで。そして最高位になると肩まで完全に覆うといったところだ。

 しかし、アサンの目の前に立ち塞がる《追跡者》を自称する化け物は、片腕どころか全身を余すことなく覆っている……と言う以前に、そもそも甲冑ですらない。


 胸板及び八つに割れた腹筋エイトパックを覆う黄褐色の竜皮に、牙の間から吐き出す熱い呼気。広い肩幅に頭が小さく見えるほど発達した首回りや大腿部の強靭な筋肉など、完全に生物の姿だ。唯一防具らしきものと言えば、分厚い胸板の前で交差する銀色の二本の鎖ぐらいか。


 改めてアサンは息を呑む。

 神話や物語ファンタジーの中にしか存在しないような怪物モンスターが、今目の前にいる。

 これを異常と呼ばずして、何を異常と呼ぶのか。


(――いや、待てよ。そう言えば、最近噂で聞いたことがあるぞ。全身に獣衣を纏う《追跡者》がいると……。確かあざなは――)


 アサンは眼前の敵を睨みつけて問い質した。


『……貴様、《追跡者》だと言ったな。もしや、噂に聞く《魔皇デモノ・ドラゴン》なのか』


 その問いかけに、紫に輝く竜人はズシンと足取りを止めて。


「……いや、そんな大層な名前、自分で名乗ったことは一度もないんだけどさ」


 と、やや諦観じみた声で呟く。だが、それは暗に質問の内容を認めた返答でもあった。

 アサンの表情が激しく強張る。


(やはり本物なのか。くそ、最悪だ。噂では、奴は第五階位アバタイトさえも単独で倒したと聞くぞ。どうすれば……どうすればいい……)


 と、内心で焦りを抱きつつ、打開策をめぐらせていると、不意に竜人がクイクイと手を動かして挑発し始めた。明らかに格下相手に対する態度だ。


『くそッ! 《妖蛇》をなめるなよ! この化け物もどきがッ!』


 アサンは地を強く蹴り、再び竜人に殴りかかった。とにかく今は攻撃を続けて隙を窺うしかない。そう判断した――のだが、それは彼我の戦力差を見誤った行為だった。

 アサンの拳が届くよりも先に、竜人の右腕がゆらりと動いたのだ。

 直後、アサンの顔が大きく歪む。強烈な張り手を横っ面に喰らったのである。首さえもげそうな威力に、アサンの体は勢いよく吹き飛び、壁にまで叩きつけられた。鬼の巨体がコンクリート壁に半分近くもめり込んでいる。


『――ッ!? ぎいィ!?』


 あまりの激痛にアサンは膝を崩した。対し、竜人は一切容赦しない。おもむろに鬼の首を片腕で掴むと、もう片方の手も添え、アサンの巨体を軽々と持ち上げたのである。


『ぎィ? き、き、貴様、何を……ッ!』


 いきなり逆さに担がれて蒼白になるアサン。必死にもがくがビクともしない。とんでもない怪力だ。丸太よりも太い腕はさらに膨れあがり、血管まで浮かび上がっている。

 続けて竜人は、そのままの状態で軽やかに宙を舞った。


『うおおおおおおおおおおおッ!?』


 グングンと上昇し、アサンは絶叫する。

 ――ズズゥンッッ!

 そうしてアサンは、五メートル以上の高さから脳天を地面に叩きつけられた!

 アスファルトが放射状に砕け散り、アサンの意識は一瞬真っ白になる。

 あり得ないことに、鬼である自分が人間相手に『脳天落としブレーンバスター』を決められたのだ。

 アサンの体重は軽く百八十キロを超す。たとえ《追跡者》といえども易々と担ぎ上げられるような重量ではない。こんな馬鹿げた大技を食らったのは初めてだった。


『……が、はっ』


 アサンは仰向けになって血の混じった息を吐いた。今の一撃で完全に首の骨がやられてしまった。時間があれば再生もするが、しばらくは動くこともままならない。

 アサンの顔色が、どんどん青ざめていく。


(こ、こいつは人間なんかじゃない……。こ、殺される……)


 一本角の鬼は地面を這いずりながら、必死の思いで震える掌を竜人に向けた。

 《奈落ノ開門グラビティ・スタン》。もうこの異能に縋るしか生き残る術がない。

 しかし、グニャグニャと歪む視界で竜人を見据えた時、アサンは絶句した。


「その異能はもう使わせないよ」


 ズシン、とアサンに近付きながら、竜人は言う。


「悪いけど時間がかなり押しているんだ。ここらで駆除させてもらうぞ害獣。なにせ《妖蛇》なんかよりもずっと怖い『お姫様』を待たせているからな」


 そう言い捨て、竜人は炎が溢れ出るアギト・・・・・・・・・をアサンに向けた。

 アサンは愕然として両目を見開いた。

 信じられなかった。まさかこの化け物は――。


『火まで吐くのか!? くそッ! くそくそッ! この化け物があああァ――』


 アサンの絶叫が虚しく空に消えた。そして次の瞬間。

 ――ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!

 路地裏に響く轟音。

 それが、《妖蛇》アサンが最後に聞いた音であった。





「――よし。これにて今日のお仕事も無事終了!」


 焼け焦げた場所から第四階位フローライトの角を拾い上げ、その少年は満足げにそう呟いた。

 《妖蛇》は死ぬと一気に劣化して土塊となる。まあ、今回は火の息吹ブレスに焼かれて土塊さえも残らなかったが、通常は自分のランクを示す『宝石角ジュエルホーン』だけを残して死ぬのだ。

 代々の《追跡者》達は討伐の証として、その角を持ち帰るのを慣例としていた。しかるべき組織に受け渡して換金するために。でなければ、この職業は成り立たない。


 ともあれこれで目的は果たした。少年は疲れを取るように大きく伸びをすると、


「けど、随分と時間を掛けちゃったな。由良、怒ってるかな? 帰りにコンビニで何かお土産でも買っていった方が無難かなぁ……」


 そう呟きながら、路地裏を後にするのであった――……。

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