第6話
狂人には、暴れ狂う者と、静かに狂う者がいる。
「あの位幼いのなら、世の世知辛さがまだ分かっていないはずだから、暴れ狂うか泣き叫ぶ方が多い筈なのだが、静かなものだったな」
真面目にカスミが呟いたのは、家路についた森の中だった。
結局物別れに終わり、日を改めようとカスミが切り出したのを機に、ジャックとエンを残してあの小屋を辞したのは、日が沈んだ頃だ。
途中、ここに串刺しになっていた怪木の存在を思い出し、流石にそのままにはしておけず、退治の方向で動いている最中である。
「あのまま大人しいのならば、うちに連れて来ても大丈夫なはずよ」
近くの小川で軽く体を洗い、ついでにジュリジュラと共に探し物をしていたロンが、乾ききっていない頭を振りながら、のんびりと地べたに座って話し込む親子に声をかけた。
「独り立ちの方も大丈夫とは思うけど、今の考え方では心配よ」
ここまでの道のりで、ロンは子供との衝突とやり取りを、早々に吐いていた。
自尊心よりも、子供への心配の方が勝ったためだ。
成長するにつれて身につくはずの色恋の諸々の事も、全く思い浮かばなかったように感じた子供は、叔父の子と言われれば納得できるのだが、叔父の子であっても度が過ぎていた。
「エンちゃんの心配は分かるけど、まずは安全に養える場所を整えるのが、先だわ」
「その安全な場所として、不安があるという事なのだろうが、何故だ?」
「……愚問だろ、それ」
人を手にかける事をいとわぬ、盗賊の自分たちの元が、どう安全だと言うのか。
それに加えて、今頂点にいるのがこの男だ。
不安しか感じまい。
「だから、エンが頭になればいいだけだろうに。そうすれば、あの子に目を付ける者の抑えにもなる」
「そうすると、あの子までその場を見続けるだろ? 堅気から完全に遠ざかってしまう」
「道理を教えながら、見学させるのは、どう?」
「混乱するだろ」
どうしても手元に置きたい二人が、真面目に言いつのるのを即叩き落しながら、ランは溜息を吐いた。
「手元に置くとしても、そう言う汚い所に係らせずに、それでいて独り立ちに役立つ勉強ができる立ち位置があることを納得させられれば、エンも折れてくれるかもしれない」
そんな、都合のいい立ち位置の場所があるものかと首を振るランを、カスミは暫く黙って見つめた。
その視線を受けて何かを感じ、ランがそれを口にする前に、ロンが考え考え声を出した。
「叔父上は、ハヅキちゃんみたいな人が、好みだったのかしら?」
ぎょっとして見直す父親は、真面目にロンを見返した。
幼馴染は、先程改めてじっくりと見て来た子供が、誰かに似ていると気づいたようだった。
ランも実際に会って、オキが言っていたことに納得していた。
オキがあの子供を、父の叔父であり自身の師匠だった男の子ではないかと思ったのは、子供の顔に似たある人物に、心当たりがあったからだ。
今は亡き、ハヅキと言う名のラン姉妹の母に似た、今は何処にいるのか知れない兄弟。
だが、その人の性格からして、子育ては故郷でしそうなものだから、どう言う事なのかと黒猫とランは困惑していたのに加え、その母がジャックの娘だという事実が分かり、これにはジュリとジュラも一緒に混乱している。
「叔父上が騙し討ちに合った時に、女の方は探したのだが……」
「騙し討ち?」
真面目に話し出したカスミの言葉に、二人がつい訊き返したが、男は構わず続けた。
「貧相なりに、見目のいい女だったが、似てはいなかったな。お前の母親は、瘤が幾つついていても、障りがないほどに美しい女だったから、雲泥の差だ」
困惑しながらも、ああ、親父はまだお袋の事を思い続けているんだなと感じ入るランの耳に、男の真面目な声が届いた。
「見つけた時に、子供を取り上げるつもりだったのだが……」
聞き捨てならない言葉だ。
「取り上げる? どうして?」
同じように引っかかったロンが、目を丸くしている。
そんな大男に真面目に頷き、カスミは言い切った。
「あの子は、叔父上の子ではあるが、その女の子供ではないからだ」
意味不明な力説に唖然とする二人に、男は真面目に続ける。
「取り上げられなかったのはラン、お前と同じことを、あの子がやってのけたからだ」
カスミは、興味のない事には全く目も向けないが、目を付けたら必ず目的をやり遂げる男だ。
その男がやると言ってやれなかった理由が、当の子供だという。
しかも、ランと同じことをやったせいだという事は……。
「あの人が見つけきれなかった理由は、それか?」
ランは、カスミとハヅキの間に娘として生まれたが、本来は息子であったはずだった。
小さい頃、その体がしっくりこず悩んでいた時に、こっそりと父親にそれを告げられ、驚きつつも成長と共に折り合いをつけ、今の半端な体つきに落ち着いたが、そんな苦労をする羽目になったのは、母親の願いを素直に叶えてしまったせいだった。
嫁ぐことになったハヅキの代わりに、事情を知る甥っ子が幼い子供を引き受けてくれたので、嫁ぎ先で子供が肩身の狭い思いをする事はないと安心した矢先、カスミも実は後を継ぐ一族があると知った時に、その子が二人宿りうち一人が男の子のようだと聞いた時、ハヅキはついつい願ってしまった。
元の連れ合いが死んだとき、後継ぎ争いに巻き込まれた母は、一人残された男の子とともに命からがら国に舞い戻った。
自分一人が巻き込まれるだけならいいが、子供や親しい仲の者の命が脅かされるのは二度と御免だ、産み落とすなら女の子がいいと。
「後継ぎ争いに巻き込まれるよりは、縁組で悩む方がましだと、そう考えたようだ。お前は、生まれる前から素直過ぎた。その願いをかなえてしまった」
こっそりと父親に教えてもらい、覚えてもいない母親の腹の中の様子を、何とか思い出そうとしたのも、今ではいい思い出だ。
「……覚えてない事で、責められても困るんだよな、こういうのは」
ランの場合、責めていたのはラン自身だ。
しっくりと来ない女の体で、力の加減を持て余し、十代になる頃に会得した解決法も、未だ苦労の方が多く、本当に切羽詰まった時でない限りは、ここまで男の体に戻すことはなかった。
今回は、ロンとの衝突を想定したからこそ、ここまでしたのに無駄になってしまい、そのがっくり感も上乗せされて、元の半端な体に戻る時の反動が怖かったりする。
考えないようにしていたのに。
まさかここでこの話題になって思い出すとはと、内心盛大に嘆いているランの気持ちを察しているのかいないのか、カスミは真面目な顔のまま、続けた。
「ランは、一つの願いをかなえたに過ぎないが、あの子は幾重もの願いをかなえていたようだな」
カスミやシノギが存在に気付かぬよう、正体すら欺けるように。
「近づこうとした時には、何処にいるのか分からなくなっていた。叔父上も、それこそ懸命に探したのだろうが、あの子が離れた時にようやく、女の方を捕まえたようだ」
肝心の子供には、会えなかった。
ジャックの連れ合いの元に行ったと知り、すぐに向かったらしいが、やはり見つけきれず、気配すら辿れなくなった。
「間が悪かったのか。誰かに助けを求めるという事を、あの子は考えた事がないのかな? そこまで、存在を有耶無耶にできるのなら、逆も難しくないだろうに」
「まともな考え方が出来ない程、病んでいるという事なのだろう。むしろ、ああいう病み方をしていて、生きていた事の方が不思議だ」
助け出してすぐは、息をしているかも不安になるほどだったのに、例の村男が死体となるまで配膳していた食べ物を、口に入れていた形跡があったという。
大人でも耐えられそうもない過酷な場所で、無意識に生きようとはしていたが、助けを呼ぶことは考えもしなかった、という事だろう。
「諦めてたのかな、やっぱり」
「矛盾しているが、生き物とはそう言うものだろう。生きるか死ぬかの境をさ迷って見ない事には、そう言う気持ちは分かるまい」
生憎、そこまで切羽詰まった経験はないランは、カスミの真面目な言い分に唸るくらいしか出来なかった。
呑気に話し込む三人の元に、森を散策していた兄妹が戻って来た。
「目ぼしい奴はいなかった」
ジュラが眉を寄せて伝えると、ロンも眉を寄せた。
「罠が一杯あったと思ったけど、引っかかってなかった?」
「ええ。この辺り、人もあまり来ないみたいね」
「あらあら。あれと同種もいないみたいだし……仕方ないわね」
大男が立ち上がり、串刺しになった怪木に近づいて行った。
「どうするんだ? 火薬もあんたが爆発させた奴以外、しけってて使い物にならないし……」
ランも立ち上がって後に続くと、ロンは笑顔で答えた。
「この種は、一世代しか存続できないのよ。だから繁殖する気になった子は、異性の生き物を贄にすれば、自滅してくれるんだけど……」
「え。それって、エンを贄にするって事か?」
「何も、あの子だけが贄になる訳じゃないわよ」
ぎょっとしたランに、男は気楽に手を振った。
「どう言う生き物でもいいの。それこそ、樹木でもいいし、同じ種の怪木でも。繁殖する気になったこの種は、目を付けた贄を襲うのが常でそう思い込んで動く節があるけど、実際はそう思い込むだけなのよ」
実際、贄を襲おうとして間違って別な者を取り込んでしまい、自滅したものもいた。
「だから、罠にかかった獣かならず者でも充分なんだけど、いないなら別な手を考えるしかないわね。火薬もないし」
首を傾げて突き刺さっている剣を見つめ、目を瞬く。
「あら、これを使ったの?」
「あんたを相手にするんだから、少しは加護が欲しかったんだよ」
言い訳じみたランの言い分に、ロンは小さく笑いながら剣の刃に軽く触れた。
「危ないわね。あたしでもこれに刺されたら、動けないわよ。急所は外してるのに、暴れないのは、このせいね」
「急所を外してなければ、他の退治法なんか考える事なかったんだ。やっぱり、投げるんじゃなかった」
口をとがらせるランに頷き、男は手を振って傍に見物人たちを遠ざけた。
「でも、これならそこまで強い物じゃなくても、よさそうね」
目を細めて剣を褒めるように言い、刃を撫でながら小さく何かを呟く。
串刺しになって怪木が一瞬身じろぎし、急に消えた。
後ろの木に刺さったままの剣だけが、何事もなかったかのように残っている。
「……え。今迄の、苦労は?」
ジュラが、思わず本音を吐いた。
「こんなに簡単に、消えるものだったんですか? あの怪木は?」
ジュリも呆然と呟くと、カスミが真面目に頷いた。
「叔父上やミヅキには、暴れるという目的もあるからな」
「……それだけの理由で、いつも遊ばせてたのか、あれを?」
とんでもない事実に行き当たったジュラの抗議にも、カスミは真面目に返した。
「遊ばせていたわけでもない。ロンのやり方は、先程のように動けない時にしか、意味がないからな。暴れていてはやりにくい。囮で動きを鈍らせていれば、今のやり方でも充分だが、あの時のあれはまた、違う狂い方だっただろう?」
どう違うのかと考える兄妹に、男は続けた。
「今回は私が、無理に狂わせたからな。あれで済んだわけだ」
「……旦那」
「仕方なかろう。先程は、機嫌が悪かったのだ」
普段はそこまで頓着しない癖に、時々妙な所で機嫌が変わる。
一同が呆れてしまっている傍で、カスミは真面目に話を変えた。
「ラン、あの子の事だがな」
急に話が先程の話題に戻った。
「何だ?」
改まったその声に姿勢を正した娘に、男は真面目に命令した。
「今夜の内に、かどわかして来い」
「はあ?」
何をどう考えてそうなるのか。
唖然とした一同を前に、男は真面目に説明を始めた。
少し、眠り過ぎたらしい。
目が覚めたら、老人と男がいるのみで、客は全員立ち去っていた。
夕飯を取りながら、二人は真剣に今後の事を話している。
「何とか追い返せましたが、明日も来るかもしれません。早急にここを引き払おうと思うんですが」
「それがいい。早朝発てるように、準備をしておくか」
真面目に言うエンにジャックも頷くが、僅かに顔を曇らせた。
「暫くは、この子の様子を見ていたかったのだがな。致し方ないか」
しんみりと呟いてから、老人は気を取り直して振り返り、身を起こしたセイに気付いた。
「起きたか。ご飯を食べるか?」
優しい笑顔を浮かべたジャックの声で、エンも子供が起きたのに気づき、穏やかな笑顔を浮かべる。
「待ってくれよ、すぐに持って来るから」
男が器にスープを装う間に、老人は持って来ていた包みを開き、中身を見せた。
「ほれ、約束してた物じゃ。つけてみてくれるか? うまくできたとは思うが、微調整がいるからな」
頷いたセイに嬉しそうに頷き、ジャックは中身の一本を手にしたが、何故かすぐに取り落とした。
目を見開く子供の前で、きょとんとした顔の老人が己の手を見る。
何事かと思う間もなく、老人の後ろで男が突然倒れた。
「っ、エンっ?」
振り返ったジャックは、中身をぶちまけた器が転がるその傍に、エンが声もなく倒れているのを見た。
その頭の先の床に、ちょこんと座る黒猫の姿がある。
「な、オキっ、何故お前が……」
驚いた老人が身を乗り出したが、それ以上動けなかった。
顔を歪めて倒れるジャックを見守り、動かなくなるのを見届けると、オキが呟く。
「体が大きい分、薬の効きが悪いな。害がない量を入れるのも、難儀だ」
「死なれては困るからな、仕方ないだろ」
全く別な声が、猫の呟きに答えた。
セイの背後で。
振り返った子供の後ろで、男が思わず声を立てて笑った。
「何だ、意外に素直な顔できるんだな。心の臓が、飛び出そうだったか? 心配するな、二人とも死んじゃいないから」
飛び上がって身を引いたセイに、満面の笑みで呼びかけた男は、先程の客の一人だ。
「さっきは名乗れなかったな。オレは、ランと言う。エンとは、母親違いの姉弟に当たるんだ、よろしくな」
目を見張ったまま、エンと目の前の男を見比べ、セイは小さく頷いた。
それを返事と取り、ランは静かに床に腰を落とし、胡坐をかく。
「さっきは何も話せなかったから、腰を据えて話したかったんだ。少し、時をくれないか?」
やんわりとした伺いの言葉に、子供は無感情ながらも戸惑いの色を浮かべた。
オキが後ろから静かに言う。
「心配しなくても、そいつは無害だ。遊び慣れて見える奴だが、意外に奥手で初心……」
「ちと黙れ、オキ。全く関係ない話の上に、何言ってるかこの子が分かってない」
妙な太鼓判を力説する猫を、ランは子供の顔を見つつ遮った。
セイは無感情のまま固まっている。
「ああ、すまん。そうだったな……」
子供の背中を見て察したオキも窘めに頷き、黙る。
男は咳払いして気を取り直し、改めて子供を見直した。
今は帽子を脱ぎ、寒々しい頭をさらしているが、よく見ると薄い色の髪が、うっすらと生え始めていた。
薄暗い中、月明りでは分からないが、外で見た限りでは見返すその瞳は黒目がちだった。
顔立ちは母親の方に似たのだと思うのだが、それを確かめる術はない。
肌の色は、父親の方なんだがなとランは思いつつも、訊きたいことを頭で並べていく。
カスミが予想した子供の経緯は、誰が聞いても信じられない物だった。
「まず、本物のあの子の母親は、自分が子を宿すという事に本能的な恐怖を覚え、その想いを敏感に感じたあの子が、父親の体に移動したことから事は厄介になった」
「はあ?」
唖然とする一同の前で、男の話は続く。
「叔父上を騙し討ちにした女が、切に子供を望んでいるのを感じてその体に移ると、更に女の願い通りに存在を消してしまったわけだ」
「……」
真面目な声での男の話を、最後まで聞いていたのはランだけだったのではなかろうか。
それ程に突拍子のない話で、まともな三人は理解するのを放棄していた。
ランも明後日の方向に考えを向かわせたい気分だったが、父親はそれを許さない。
「まだ生まれてもいない時期に、そこまでやれる子供だ。あそこまで成長したのなら、さらに精密に事を成せるだろう。明日の朝には、あの二人の目すら掻いくぐり、姿を消していても不思議ではない。連れて来るのなら早い方がいい。あの子を再び見失う事は、あってはならない」
気遣うような、珍しいカスミの主張は恐ろしく疑わしいのだが、その不安は最もだった。
父親の思惑がどう言うものなのかは分からないが、この子に悪い話にはならないと信じ、ランは今ここに来た。
すると、まだ子供は起きていなかったが、二人の大人が不穏な会話をしていた。
それ自体はあり得ると予想していたから、あらかじめオキを残し、隙を見て眠らせる様に言って置いたのだが、どうせなら子供が眠っている間に連れ去っておきたかったのに、その直前に起きてしまった。
無理やり連れ去るのは、心苦しい。
だから、他愛ない話で相手の心を解き、説得しようと考えたのだった。
「お前さんは、エンと二人で暮らしたいのか?」
まず当たり障りのない事を尋ねると、意外に深刻な話だったらしく、子供は顔を曇らせた。
ゆっくりと首を振り、口を開いた。
「出来れば、お爺さんとカエンさんは、別れて欲しくない」
初めて聞いた声は、無感情ながらもはっきりと耳に残る声だ。
思わず聞きほれたランに、子供は真顔で続けた。
「夫婦なのに、これ以上一緒にいれないなんて、そんなのはあんまりだ」
「……?」
「それに私がいたら、子供を作れないだろ? お爺さんは、ただでさえ年を取ってるのに……あの二人には、幸せになって欲しいんだ」
「いや、ちょっと、待て?」
真顔な言い分が可笑しい事に遅ればせながらに気付き、制止の声をかけたが子供は止まらなかった。
「人間は他の獣と違って、夫婦に一人しか子供が出来ないんだろ? 子供が独り立ちしないと、家族になった夫婦からは子供が出来ないって、この間までいた村の友達が言ってた」
何処のガキだっ。
思わず、明後日の方に毒づいてから、ランは子供の背後にいる黒猫に助けの目を向けた。
先程から足を揃えて座るオキは、微動だにしない。
その目は、諦観したように虚ろだった。
「……っ、ミズ兄、オレに下りて来てくれっっ」
「恐ろしい事を言うな。大体、あの人が来るなら、上からなはずがない。そこで死人に頼るようだから、あんたを器にしたくないんだ」
真顔で訴えた子供の前で頭を抱えている主に、猫は宥めながら煽る。
気持ちは分かるし、確かにランが出した名の男なら面白がって、それでも赤裸々な話でもちゃんと教え込んでくれそうだが、彼はもうこの世にいない。
いたらいたで、混乱が増えそうだ。
ロンの話で聞いてはいたから、ある程度の受け答えは考えていたのだが、その考えをはるかに上回る誤解が判明し、ランは混乱していた。
何処から正せばいいのかと悩み、取りあえず子供の肩を攫み、我に返らせた。
「ちょっと落ち着け、ほら深呼吸、な?」
しっかりと相手の目を見据えてゆっくりと言ったのは、自分も落ち着くためだ。
素直に深呼吸するセイに頷き、ランは一つの間違いから指摘した。
「セイ、今のこの世では、男同士で夫婦になる事は、ないんだ」
今迄見た中で一番、子供の顔が変わった。
そんな様子に不安になり、ランは恐る恐る尋ねた。
「どんな生き物にも、男と女がいるのは、知ってるよな?」
「母さんが、女だった」
「そうか、それだけ知っていれば、今は充分だ」
驚愕した顔で今にも倒れそうになりながら答えた子供に、ランはその体を支えてやりながらも頷く。
「うんうん、驚くよな。今知ったのなら、仕方ない。だが、これで分かるだろ? エンとジャックは、夫婦じゃない」
「じゃあ、どうすればいいんだ? ただ一緒にいるだけで幸せなのなら、一緒にいさせればいいだろっ?」
「うんうん、その通りだ」
もろもろの悩みの指摘は後回しにしてランが相槌を打つと、セイもまともな悩みを再び蒸し返す。
「私とカエンさんがここを去ると、お爺さんが一人になる」
「うん」
「お爺さんは、別な所で仕事をしているから、一緒には行けない」
「うん」
「なら、カエンさんも残ればいいだろ?」
「……まあ、そうだが?」
また考えが、向こう見ずな方向に行き掛かっているのに気づき言葉を濁すランに構わず、子供は真顔で言い切った。
「カエンさんとお爺さんは、同じところで働いてたって言ってた。さっきの人もあんたも、同じなんだろ?」
「あ、ああ」
「今のうちに、連れて行ってくれ」
言ってから、セイはハッとして倒れたままの男二人を振り返った。
「そうか、そのつもりで眠らせたのか。無駄に驚いてしまって、御免なさい」
「いや、謝られても困る。全く違うから」
大体、自分よりもでかい男もいるのに、一人で二人の男を抱えて行けると思うのかと、ランは呆れつつも首を振った。
すぐに否定されてきょとんとする子供に、男は取りあえず自分の望みを伝えた。
「オレがここに来たのは、お前を連れて行くためだ」
「? 何処に?」
「そこに二人がいた仕事場の、住処」
きょとんとしたまま、セイは再び尋ねる。
「どうして?」
「お前が来てくれるなら、エンがあそこに戻る気になる。そうしたら二人は一緒にいれる」
「……」
目を見張る子供に、ランは笑顔を向けた。
「これで、お前の不安は消えるだろ?」
エンを説得できないのなら、戻らずにはいられないようにする。
カスミが何をどこまで考えているかは知らないが、エンにどんな不安があるにしろ、子供の望みならば弟も叶えたいと思うだろう。
確たる思いで問いかけたのだが、セイが目を泳がせた。
無言で首を振り、小さく言う。
「私は、残る」
「何でだ?」
意外にも難色を示され不満を声に乗せると、子供は真面目に言った。
「誰かと一緒にいたくない」
「だから、何故だ?」
何かおかしな考えがあるのかと身構えるランの前で、セイは口を噤んだ。
「セイ、黙ったら分からない。何故、一人になりたがるんだ?」
つい、急き立てるように言ってしまった言葉で、ふと思い当たった。
先程から、何かと言い訳をしているが、この子供の望みは、その一つだけだ。
容姿と幼さから、その願いを叶えさせることは出来ないが、理由は気になった。
真っすぐ目線を合わせて、辛抱強く待つ。
睨むでもないその目線から目を逸らし、セイはぽつりと言った。
「もう、誰も不幸にしたくない」
「……」
切実な言葉だった。
胸を突かれたランが、まじまじと見つめる先で、子供は俯いた。
言葉を探す内に顔を上げた時には、いつもの無感情に戻っていた。
「カエンさんは、連れて行ってくれ。お爺さんを連れて行くときには、もう私はいないと思うから、心配ない」
「いや、心配過ぎる」
無感情な声で言われたことは、了承できない事だった。
すぐに首を振ったランに、子供は眉を寄せた。
「何故?」
「いや、それでまとまると思ってたのか、逆に?」
と言うか、声音を変える事でどんな言葉も聞き流して、頷かせようとしている感があった。
危ない危ない。
内心冷や冷やしながらも、ランは厳しい顔を作った。
もしかして、ロンが相手の年齢すら見抜けぬまま満身創痍になったのは、この子の言葉の煽りが原因か?
身構える男を前に首を傾げている所を見ると、子供の方はそう言う意図を持ってやっているわけでもない。
つまり、無意識に人となりを見据え、相対しているという事だ。
末恐ろしいが、これがうちの切り札になるのなら、何かと使える。
カスミの思惑が、少しだけ見えて来た。
なら、こちらも本気で掛かろう。
厳しい顔つきに目を見張ったセイの後ろで、やっと本気になったかとオキが目を細める。
カスミの腕となる者たちは、時代によって強弱の差があるが、時代に合ったものだとも言えた。
二人の側近を失くした後、その座についたのは三人、幼馴染の男と二人の娘だった。
気ままに動く頭とその側近たちをうまく抑え、増えて来た部下たちとの橋渡しを、ランはたった一人でやり続けていた。
頭領とも側近たちとも身内だったからこそやれる事と、ランは思っているようだが、彼らの異常な力で埋もれて目立たないのに、あそこまで一手に部下たちから信頼される理由は、それだけではない。
少なくともオキの中では、自分に何かあった時、大事な者を任せるならこいつだと、そう思えるほど信頼していた。
本人には、口が裂けても言わないが。
只見守る黒猫の前で、ランは顔つきを厳しくして仕事面を心掛け、セイに呼び掛けた。
「お前は、自分が幾つなのか、分かっているな?」
唐突にそう問われ、首を傾げながらも子供は答える。
「覚えてなかったけど、お爺さんの話では、八つ」
「その内、三年ほどは、全く外とは無縁だった、そうだな?」
それがどうしたのかと不思議そうにしながらも、セイは素直に頷いた。
それを見て頷き、ランは言った。
「お前はまだ、心配されるのが当たり前の、洟垂れ小僧だ」
ズバリ言われた子供は、慌てて鼻を袖で抑え、それを見たランがすかさず言う。
「今、鼻水が垂れてると言ってるわけじゃない。鼻水が垂れてても、下品なと眉を寄せられない程には、子供だって意味だ」
その意味は、合ってるか?
少し首を傾げたオキに構わず、主は堂々と言い切った勢いでまくしたてた。
「だから、心配されるのがお前の仕事と言っても、過言じゃない」
実際の八歳は、もう少し放任されてもいいのだが、これも堂々と言い切る事でしのぐ。
「それから、お前の爺さんとエンのいた場所は元々、死と隣り合わせの所だから、今更不幸を人のせいにする奴はいない」
「え」
「寧ろ、お前を迎える事で、老い先短い爺さんを、若返らせることができるかもしれない」
何をしているかはこの際、言わないで置く。
まずは、この子供の度の過ぎた不安を、少しでも和らげることが先決だと、ランはそう判断した。
だが、賢い子供は当然ながら、この説明でも不安を覚えたらしい。
小さく息を呑んでから、控えめに問いかけた。
「そんな仕事が、あるのか? 死と隣り合わせの仕事が、あの城の配膳係以外にも?」
「……それは、本来は死と隣り合わせの仕事じゃないだろう」
やはり、その場も見ていたのかと、内心舌打ちしながらも返し、目線を合わせた。
そんな場面を思い出した割に、取り乱した様子がない。
ランが見た限り、素直な子供と言う印象があるのだが、何か違和感があるのも事実だ。
その違和感が、狂気を現しているのならば、先程からの一連の言動も、そのせいなのかとも思う。
その辺りは、近くに置いて観察することにし、真顔で願いを告げた。
「お前がうちに来ることは、一種の人助けだ」
「人助け……」
「爺さんとエンの、いずれはそれ以外の奴の、心の癒しになってくれ」
「ココロのイヤシ……」
ランを見返しながら、言われたことを呟くセイは、戸惑っている。
それを見ながら、あと一押しと言葉を紡いだ。
「だから、お前が独り立ちできる年齢になるまで、うちに身を寄せていてくれ。何もしないのは心苦しいだろうから、生きていく上で大切な事も教えよう。それが、裏方には役に立つ事でもあるから」
何なら、そう言う手伝いをしたら駄賃をやるようにしようかと、ランは完全に仕事の取引の気持ちになっている。
自分の言いたいことを並べ切り、男は子供の返事を待つべく口を閉じた。
セイは、困惑したまま黙り込んでいた。
永く待たされることを覚悟し、ランはその様子を見守っている。
色白すぎる所や髪の色が違うが、見れば見る程ある人物に似ていた。
数奇な出来事のせいで、世に出て来るのが遅れてしまったこの子供が、自分の前でこうして元気に座っている。
完全に元気かと言われれば違うが、こうして生きていてくれたのが嬉しくてつい、自然に笑ってしまっていたらしい。
目を上げたセイが、うっすらと笑うランに再び戸惑った。
そんな子供にしっかり笑いかけ、男はその頬に触れた。
「お前、よく生きててくれたな。本当に、嬉しいよ。有難うな」
目を見張ったまま、セイは固まってしまった。
その様子を見つめていたランが、ぎょっとして慌てる。
「ど、どうして泣くんだよっ」
子供の後ろで成り行きを見守っていたオキも、その言葉に驚き駆け寄る。
だが、一番その言葉に驚いたのは、セイだった。
「え、あれ? 何で……」
子供の目から、滝のように涙が流れていた。
「え? あれ、止まらない、可笑しいな……」
呟くセイの前で、おろおろと手をこまねくランは、黒猫の悲鳴に似た声で我に返った。
「こ、こらっっ、人の爪で何しようとしてるっっ」
見ると、涙を流し続ける子供が、腕でオキの右前足を上手に掴み、力づくで顔に持って行っている所だった。
「ちょっと待って、すぐに止めるから」
「何で、猫の爪の出し方を知ってるんだ、お前っっ」
思いのほか強い力で抗うオキだが、肉球を抑えられているために、腕から引き抜けないようだ。
肉球を押され爪が鋭く出された前足を、セイは涙を流し続ける己の目元に持って行っているのに気づき、ランは目を剝いた。
「ま、待てっ、目をえぐって止めるつもりかっっ」
「そうでもしないと、きっと止まらないっっ」
「待て待てっ。そんなことしたら、涙より厄介な物が、止まらなくなるぞっっ」
ここまで騒ぎ立てているのに、倒れたままの男達は微動だにしない。
有難い話だが、ここは手助けのために起きて欲しかった。
都合のいい事を考えながらも、ランはようやくオキの前足を子供の腕から解放し、顔を拭こうとする仕草も、さりげなく止める。
「いいから、そのままでいろ。下手にこすると、目が腫れる」
戸惑って見返すセイに笑いかけた。
「今迄、気が張ってたから泣けなかったんだろ? なら、無理に止めなくてもいい」
無感情だった顔が、不意に崩れた。
それを見て胸を突かれ、ランは思いっ切り小さな体を抱きしめる。
「よしよし、思いっ切り泣いてしまえ。この際、オレの服なんか汚しても構わないから。涙と鼻水でぐしょぐしょにしてやれ」
気楽に背中を叩きながら、明るい声で言い続けると、子供は素直に嗚咽を漏らし始めた。
今迄の経緯を、泣き声でかすれながら、支離滅裂になりながらも語り始める。
全てを語り終えたセイが、只泣きじゃくるのを、オキは呆然と見つめているだけだったが、ランは明るく相槌を打ち続けた。
「そんな事があったのか。そんな災厄に見舞われたお前と、こうして顔を合わせられたんだな。オレは、本当に幸せ者だな」
呟く男の言葉に、黒猫は呆れた目線を向けた。
安っぽい、遊び人の言葉にしか聞こえない。
それなのに、セイは素直に驚いて顔を上げた。
「幸せ?」
「ああ。こいつら、言わなかったか? なら、言葉が足りなすぎだな。エンはな、お前がこうして元気になっていくのを見ながら、幸せを嚙み締めてたはずだ。噛み締めてただけで、お前に言わなかったのが、お前を追い詰めていたんだな」
「……心配しか、されてないと思ってた」
しんみりと呟く声に、ランは再び胸を突かれる。
不味い。
本能的にそう感じ、男は子供から身を離した。
立ち上がり、座り込んだままきょとんとするセイと、突然の主の動きに目を丸くするオキを残して、外へと向かう。
汲み水を桶に汲み、頭からかぶる。
本当は、どこかに頭をぶつけて目を覚ましたいが、勢いよく打ち付けて頭を潰してしまいかねないから、冷たい水で我慢した。
それ位、心が動いていた。
初めて顔合わせした奴に、ここまで感じる事になるとは、ランは思っていなかった。
「落ち着け。あの子はあの、叔父貴の子だぞっ。血が近すぎる」
必死でそう言い聞かせて何度も水を被り、ようやく気を静めた。
急に動いたことの言い訳として、桶に水を張って戻って来ると、迎えたのはオキだけだった。
その傍で、セイは横になって眠っている。
「寝る子は育つ、か。泣き疲れもあるんだろうな」
濡れ鼠の主が笑って呟くのを、黒猫は目を細めて見ている。
探る目つきから逃れるようにランは桶に手拭いを浸し、セイの顔をそっと拭ってやる。
「……今のうちに、連れて帰るか」
そう言った主に頷き、オキは己が眠らせた男二人を一瞥した。
この調子ならば、朝まで目覚めまい。
怒り狂ってやってくる、この二人を宥める人員の配置は、朝まであれば充分だった。
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