第5話

 オキとロンは、随分永い付き合いだ。

 だが、その永い付き合いではありえない光景が、オキの認識を疑わせていた。

「……ロンは、弱かったのか」

 いや、衰えたという事だろうかと、あり得ない疑いを持たれても仕方ない場面が、足を揃えて座る黒猫の前で繰り広げられていた。

 未だに立っている男が、目と声だけ無感情にしたまま笑顔を浮かべるという器用な真似をしながら、首を傾げる。

「手ごたえが、全くないな」

 確かロンは、カスミに並ぶ実力者で、言葉遣いと共に得体が知れないという触れ込みのはずなのだが、小さな男にはそんな感想しか抱かれなかったようだ。

 対するロンは、今迄の接触の間に満身創痍となっており、言い返すことも出来なくなっていた。

 ここまでボロボロにされても立ち上がるのは、自尊心を保つためだろう。

 そんな大男を見やり、男は小さく唸る。

「程々に動けなくしたいのに、加減が難しいな。どうしよう」

 どうも、立ち上がること自体には驚きはない様だ。

 オキには計り知れない悩みで、真面目に考え込んでいる。

「……早く来い。じゃないと、ロンが使い物にならなくなるかもしれん」

 使える男の自信喪失は、かなりの痛手だ。

 ジュリの子鬼を通じて、主であるランに切実に呼び掛けるが、移動中なのか返事がない。

 代わりに、厄介な男がやって来た。

 森の方からやって来た、老人にしてははつらつとしたその男は、立ち尽くす小さな男を見つけ、辺りをはばからぬ大声を張り上げた。

「セイっっ、その男から離れるんじゃあっっ」

 振り返った男が、老翁が走ってこちらに来るのに気づき、思わず声を上げる。

「あ、お爺さん……」

 呼びかけて何かを言いかけたが、その前に大男の老人の姿が、突如消えた。

「落ちた。確か、あの辺り……」

 目を見開いた男が、そちらに気を取られた隙に、ロンが動いた。

 ジャックの元に向かいかける背に大男が掴みかかるが、男はその勢いを殺さぬままその手を上手く脇に抱え込み、向きを変えて放り投げる。

「ああ、成程、相手の力をうまく使ってるから、疲れていないのか」

 気づいて感心するオキの目の前で、放り投げられた男が、落ちた先で地面の中に消えた。

 と思ったら、その地面が爆発した。

「そうそう、あっちだった。良かった、お爺さんが爆発しなくて」

 無感情に頷く男に、向こうの穴から這い上がったジャックが呼びかける。

「セイ、無事なんじゃなっ?」

 土まみれになった老翁は、そのままふらふらと駆け寄り、その勢いのまま男に抱き着く。

「良かったっ。お前まで死んでしまったら、儂はもうっ」

 老人の泣き叫ぶ感動の場面だが、オキは穴の中で爆発した男の安否が気になった。

 流石にこれは、不味いのではなかろうか。

 そう思っている間に、当の大男の手が煙の立ち上る穴から現れた。

 流石に衝撃が大きかったのか、焦げたその手は震えている。

 這い上がって来る速度も、初めよりもかなり遅くなっている。

 まだ諦めないのかと、半ば呆れているオキの傍で、ひとしきり泣いたジャックが、何かに気付いたように身を離した。

 しげしげと男を見下ろし、戸惑った声を出す。

「お前、一月しか経っておらんのに、随分と背が伸びたの」

 男が、目を丸くした。

 そうして、ようやく思い出した。

「そうか、だから感覚がおかしかったんだ」

 頷いた男が、足元を見た。

 それだけで、何をしようとしているのか分かり、オキは慌てた。

「待て、それは……」

 言いかけたが、思いとどまって口を噤む。

 声を掛けられた男は、黒猫を見下ろして首を傾げる。

「何だ?」

「……いや、今やめさせても、衝撃が後回しになるだけだから、もういい」

「?」

 意味不明な言葉を吐くオキに首を傾げたまま、男は後ろに下がった。

 その前に何故か、足が残っている。

 裾が長すぎてそう見えるだけなのだが、傍で見ていたジャックが目を剝いた。

 慌てて目を凝らし、間抜けな顔になる。

「何じゃ、背を誤魔化しとったのか」

 気の抜けた声に頷きながら、男は下駄から抜き取った裾を、腕の関節を使って器用に折ってゆき、邪魔にならないように膝上にまくり上げた。

「よし、これでうまく加減が出来る」

 改めてロンの方を見た男は、這い上がって来た大男に気付いた。

 戦闘中の割に、間抜けな顔をさらしている。

「……? もう諦めてくれるのか?」

 そんな問いかけに答えず、ロンは唖然としたまま呟いた。

「年頃の子じゃ、なかったのっ?」

「……ロンともあろう方が、何と言う思い違いをしとるんですか」

 衝撃を受けたままの大男に、同じような大男のジャックは呆れたように、更なる衝撃的な事実を告げた。

「この子は、八歳になったばかりですぞ」

 これは、止めの一撃になった。

 這い出たその場で、大男は地面に突っ伏して、動かなくなってしまったのだった。

「……ご愁傷様、だな」

 色々と勘違いしていた大男に、オキはしんみりと呟いた。

 自分が気づいたのは近づいた時で、ジャック側の事情からではない。

 年齢を誤魔化すための偽装も、その時に気付いた。

 誤魔化せていたのは意外にも、この子供が下駄を使い慣らしてしまったせいで、ロンの見立てが甘かったせいではない、と思う。

 ボロボロになったロンを見下ろし、ジャックが不思議そうに尋ねた。

「あの人は何で、あんなにくたびれてしまったんだ? 何かあったのか?」

「……」

 当然の疑問に男は少し考え、無感情に答えた。

「勝手に、転んだんだ」

「……」

 無理があり過ぎる言い訳だが、ジャックは不思議そうにしながらも成程と頷いた。

「兎に角、お前が無事でよかった。ちゃんと、お前をこの人たちに紹介して、話を決めてしまおうな。何、大丈夫じゃ。儂の孫と分かれば、納得してくれるはずじゃ」

 言いながら、後ろに背負っていた荷物を解き、小屋に戻るように促す。

 その時、ようやくオキの主が姿を見せた。

 何故か、その父親と一緒だ。

「……何で、その人と一緒なんだ?」

 疑問に思いながらもランを迎えた黒猫に、今は男になっている主は短く答えた。

「エンが、危なかった」

 ジャックと男が振り返った。

 目を見開いている男と、青褪める老人を見比べ、頷いて見せる。

「無事だったから、安心しろ。オキ、事情の説明は後だ。エンが何処に火薬を置いているのか、教えろ」

「あー、火薬な」

 何がどうなって、そんなものがいるのかは知らないが、オキはランの問いかけに答えた。

 その顔は若干、呆れ顔だ。

「全部、穴の中だ」

「? いや、半分は使ったと……って、引っかかったの、ロンかっ?」

 黒焦げで倒れている大男に、ようやく気付いたらしい。

 驚いて目を剝く主に頷き、黒猫は続ける。

「エンが使ったのは、確かに半分であの穴だけだったが……」

 手際よく見つけたあの男が、危なそうだからと全部を小さな甕に別けて、いくつかの穴に仕込んでいたのを、オキはしっかりと見ていた。

 危なそうなら仕込むなと、一度だけ窘めたのだが、今では諦めている。

 言葉を濁す黒猫より、完全にボロボロの大男に驚いてしまい、ランもジュリもそちらへと向かって行く。

 既にそこには、珍しく驚いて目を剝くカスミが立ち尽くし、ロンを見下ろしていた。

「一体、何があったんだ、ロン?」

 呼びかけるが、返事がない。

 心配する娘たちの横で、男は溜息を吐いた。

「そろそろ起きて、今のこの状態を説明して欲しいのだが。仕方ない、裸に剥いて犯してしまおう」

 真面目に言い切った男の前で、ロンがものすごい勢いで起き上がった。

「カスミちゃん、今の、本気だったでしょうっっ?」

「当たり前だ。狸寝入りに付き合えるほど、私は不真面目ではない」

 その脅しは、不真面目であって欲しかった。

 本気で鳥肌を立てている大男の肩を、その幼馴染は気楽に叩きつつ、真面目に問う。

「一体、何があった?」

「そ、それが……」

「勝手に転んで、穴に落ちてしまったそうです」

 ジャックが、言葉を濁しながら言いかける男を遮り、呆れた声で答えた。

「火薬入りの落とし穴に落ちてしまうとは、運がありませんな」

 詰まってしまったロンも、ランとジュリには珍しい。

 そのまま口を噤んでしまった大男に眉を寄せたランは、子供の足下でオキが上を見上げたのを見た。

 恐ろしく白い目で、その目を避けるように子供はそろりと視線を逸らした。

「……」

 まさか、と思う。

 だが、気まずそうに口を噤むロンの様子も、不自然だった。

 その不自然さも、子供と黒猫の様子も察し、カスミが真面目に呼びかけた。

「その子供は、ジャックの孫という事で、間違いないのだな?」

 老人が弾かれるように背筋を伸ばし、目を剝きながら頷いた。

「はっ。セイと申しますっ」

「本名か?」

 含む問いには、躊躇いながら答えが返る。

「それが、幼かったために、愛称しか覚えていなかったようで……」

「成程」

 頷き、カスミは子供を真っすぐに見下ろした。

 無感情な目が、それを真っすぐ見返す。

「……」

 両者は無言で見つめ合い、しばらく動かなかった。

 先に動いたのは、カスミの方だ。

 目を逸らし、真面目に呼びかける。

「堅気として、育てる気でいたのか?」

「は、はい……」

 返事には力がない。

 あそこまで入念な罠を仕掛けて置いて、どう言う寝言だと咎められても仕方がないと、ジャックも思っているようだ。

 やはり、程々にさせておけば良かったと悔やむ老人に、カスミは真面目に言った。

「この子をそう育てるのは、難しいぞ」

「はい、勿論わかっとります。ですが、意外に器用ですし、手がないのを誤魔化して、出来るだけ人前に出ぬように暮らさせることができれば……」

「そういう事ではない」

 予想した否定の言葉に、ジャックは必死で食い下がったが、真面目な声はそれを遮った。

「これの養い親も、苦労しただろうな。父上から聞いた話では、叔父上もそうであったらしいからな」

 ロンが顔を上げた。

 余り家族の話をしたがらないカスミが、自然な口調で父親の話を出すなど、珍しすぎる。

 この辺りの、地形が変わってしまうかもしれない。

 縁起でもない事を考え、ランもジュリも身構えてしまっている。

 先程から、親世代の珍しい動きが目立ちすぎる。

 真剣に心配する子供世代に構わず、カスミは真面目に続けた。

「物心ついた頃から活発に動き始め、狩りを始めたのは十代になる前だったと聞く」

 しかも、初めて狩って来たのは、巨大熊だった。

 その故郷には生息していないはずの獣を、まだ幼かったその男は海を渡って狩って来たらしい。

「父上は、嬉々としてその熊を抱えて帰って来た叔父上を見て、堅気の暮らしは無理だと察したそうだ」

「……」

 子供が、無言で首を傾げた。

 何か言いたげになったが、口は噤んだままだ。

 そんな子供を、ロンが驚愕の顔で見つめた。

「ま、まさか……。でも叔父上は、確かに……」

 驚愕しながらも、その疑問を口にする幼馴染に頷き、男はジャックに切り出した。

「これからどうするかは兎も角、今はまだ幼い。その子を拾った経緯も知りたい。一旦、連れ帰るぞ」

 言い切ったカスミに、老人は目を剝いた。

「な、お待ちくださいっ。確かに、堅気は難しいやもしれません。ですが、連れ帰るというのは……」

「エンも回収していかねばならんのだ。わざわざ迎えに行ってこちらに戻るより、回収がてら住処に戻る方が、手間がない」

 真面目な言い分は、理にかなって聞こえるがよく考えると、違う。

「親父、オレらの住処の方が、エンのいる所からははるかに遠い」

「ん?」

 ランが溜息を吐きながら指摘すると、ジュリも頷いた。

「兄さんに繋ぎを取って、エンと一緒にここに来てもらえば、手間はないはずです」

 話を聞いてから今後を決めるのなら、まだ住処に招くことはない。

 ジュリは言った傍から小鬼を一匹向かわせ、話を聞いたジュラはすぐにエンと共に合流した。


 小さな小屋の中に、大人が七人と子供一人が入り、ぎゅうぎゅうになりながら地べたに座る。

 招いていない客だが、何も出さないのはとエンがその場を離れ、つまむ物を探していたが、目ぼしい物はなかったらしい。

 結局、桶に入れた汲み水だけ持って戻って来て、子供の隣に腰を落とした。

 水に浸した手拭いで子供の顔を丁寧に拭い、見上げる目に微笑んだ。

「疲れただろう? 後は大人だけの話し合いで済むから、眠っていてもいいぞ」

 無感情な目で見上げる子供は、まだ笑顔を浮かべたままだったが、無言で頷きその場で床に寝転がった。

 突然寝転がり、そのまま寝息を立て始めた子供に目を剝く客たちに構わず、エンが穏やかな笑顔で姿勢を正し、カスミが真面目に切り出した。

「経緯を、話してもらおうか」

「……ちょっと、待って」

 何事もなかったかのように切り出す幼馴染に割り込んだのは、先程まで焦燥していたロンだった。

 急に倒れ込んだ子供に焦り、指をさす。

「大丈夫なのっ? 急に倒れちゃったけど」

「大丈夫ですよ。動き過ぎたので、疲れたんです。穴掘りは重労働ですから」

「で、でも、急すぎないっ?」

 慌てる大男は、自分との乱闘が原因かと焦るが、エンは穏やかに答えた。

「小さいから、体力が続かないだけです。もう少し大きくなれば、ここまですぐに熟睡しなくなりますよ。いいじゃないですか、寝る子は育つ、と言うでしょう?」

「そんな、童子みたいな扱いするほど、小さくないでしょ?」

「小さいですよ」

 ロンの当然の指摘に、エンははっきりと返した。

「ジャックの奥さんからの連絡が途絶えたのは、三年ほど前です。その三年、成長が出来なかったのなら、いくら年齢が重ねられても、年数に入れてはいけないでしょう」

 室内が静まり返った。

 その空気に乗せ、真面目なカスミの声が言う。

「その子を見つけたのは、あの城だったという事で、間違いはないのだな?」

「はい」

 ジャックが頷くのに頷き返し、男は真面目に説明した。

 数か月前、ロンに丸投げした事案が、訳ありのものだったという事を。

 ジュラが調べ上げた話で推測したことが、カスミの話で裏付けされていく。

 兄妹とランが小さく唸る中、ロンが呆然と呟いた。

「……叔父上の子を産んだ女が、ジャックちゃんの娘?」

 その事実に驚いたのは、幼馴染側だけではない。

 ジャックも、意外な繋がりに戸惑っている。

「……うちの娘の連れ合いが、あなたの叔父上という事ですか?」

 当然そうなると口にする老人に、ロンは眉を寄せた。

 カスミも真面目な顔を僅かに顰め、小さく息を吐く。

「色々と事情があって、叔父上はお前の娘と子供の行方を、探していた」

 エンも戸惑いの顔になった。

「確か、ジャックの娘さんは、例の領主に目を付けられたために、男とあの地を離れたと聞いたんですが……」

 実際は一人だったのかと、首を傾げる倅にも、カスミは曖昧な返事を返した。

「そう言う話だったが、叔父上は関わっていない。何故か、その後の女と子供の行方が、分からなくなってしまってな。私も、あの地に叔父上がやって来ていたと知ったのは、例の報告を聞いた時だった」

 そんなことがあり得るのかと、ロンも戸惑っている。

「ジャックの女が死んだと分かり、身を引いたらしい叔父上の様子で、子供も駄目だったのだと、私も諦めた」

 そして、幼馴染に事情を話さずに丸投げしたのだった。

「……あなたね、その位の事情は、話して欲しかったんだけど」

「済まないな。どちらかと言うと、ジャックの仇討をさせたかったものでな」

 軽く謝りながらも、カスミは真面目に老翁を見た。

「お前は、いつからその子供があそこにいると思っていたのだ?」

「初めからです。奴は、娘に執着していたと、妻より聞き及んでおりました。執着故に、他の男との間にできた子供に、鬱憤を向けるのではないかと言う危惧と共に」

 妻の死には間に合わず、子供を助け出すことも叶わず、あの地の周りをうろうろしていた時に、カスミから当のあの城への押し込みの話を聞いた。

妻の最期の便りから、随分と年月が経っていたから、生きた孫を見ることは出来ないと、そう覚悟していた。

だが、既に埋葬されていた妻とは違い、未だ生死の定かではない孫を、見つけてやりたかったのだ。

「……どこにいたの?」

 余りいい現場ではなかった、そこを思い起こしながらロンが問うと、エンが答えた。

「城の地下の、所謂罪人を放置していた場所です」

 牢と言う程、立派な場所ではなかったそれを思い出し、大男が露骨に顔を顰めた。

 地下の開けた空間に、上階との境を重い扉で遮り、臭い物に蓋をしたかのような、そんな場所だった。

 重い扉を開いた瞬間の、あの何とも言えない匂いが今でも思い出せる。

 その匂いの元が、開かれた扉目掛けて集団で飛んできた時は、流石に驚いた。

「……あの中に、いたのっ?」

 殆んど原形のなかった人間が、外に逃げ出そうとするのを乱暴に閉じ込め、ジャックの提言でそのまま油を投げ込んで、火をつけた。

 冷静に提言された所を見ると、その時には既に子供はエンによって、助け出されていたのだろう。

 ロンが驚いたのは、あの腐敗した遺体の中で数年もの間、年端も行かない子供が生き延びていたその事実だった。

 死人を操る者に関しては、そう珍しい存在ではない。

 操る死体がくたびれすぎているのが妙に気になったものの、それは操る側の好みによるから、それで悩む謂れはロンにはない。

 だが、あの死体たちの狂暴さを改めて思い出すと、本当によく生きていたと安堵するよりも驚く方が先だった。

 その驚きを受け、エンが頷く。

「あんな中にいたので、悪い病気があるかもと心配しましたが、今のところは着々と回復しています、生身の方は」

 どの位回復しているのかは、まあ、畑仕事の一つも出来るのではと言う位には、元気になっていた。

「……落とし穴を作ることが、畑仕事と同じなの? あなたの感覚では?」

「この辺りに、永くいる気はなかったもので、畑を作るわけには、いかなかったんです」

 僅かに恨みがましい顔になった男の、泥にまみれた顔と黒焦げた服を見ながらも、エンは穏やかに答えた。

「ジャックが、義手を作り上げたら、ここからは去る心算だったので」

 人目につかぬよう、それでいて堅気として養うには、どうしても手がないと言う怪しい見目が、心配だった。

「物がいりようになったら、どうしても人里に下りなければならないですから、それだけは、何とかしてからここを離れたかったんです」

 エンが言う言葉に、ジャックもうんうんと頷く。

「旦那の代わりのおさんどんが、儂だけになるのは痛いですが、まあ、これからは裏方に回れば、もう一人くらい料理できるもんを仕込めるのではと思いまして」

 この群れの頭領の仕事は主に雑用と、初代から決まっていた。

 血縁だけの時の風習が、今もなお残っているだけなのだが、カスミが二代目として立った時、下にいた者たちはその危険性に気付いた。

 カスミが作る食事を口にするたびに、生死の境をさまようという危険に。

 時々気まぐれに、側近たちやロンも料理をするのだが、ロン以外の者が作る食事は、食い物と呼んでもいいか悩む代物ばかりだった。

 側近たちの弟子たちがいた頃は、彼らが師匠たちの代わりを買って出てくれたからまだ良かったが、彼らが去った後残された子供世代は、料理を教わっていなかったことを激しく悔いていた。

 だから、ジャックがエン以外に弟子を取る意向があるのなら、自分達も教えを乞おうと、白髪の三人が同時に決意したのだが、真面目な声がそれを断ち切った。

「そう言う手間は、老い先短いお前には勿体ない。いつぽっくり逝くかも分からん者に、いつまでも頼るものでもなかろう」

「これは、死活問題であったように見えましたが」

 ジャックが眉を寄せて、ラン達の心の叫びを代弁してくれる。

「私のゲテモノ料理でも、瀕死になる程度なのだから、死活問題でもないだろう」

「それを、死活問題って言うんだけどな、親父?」

 と言うより、ゲテモノ料理と分かってて出していたのかと、ランが顔を引き攣らせているのを、ロンが困ったように笑って見ている。

「別にそこまで徹底して、あたしたちから離れようとしなくても、大丈夫なんじゃないかしら」

 ラン達を宥めるようにそう言っているように聞こえるが、先程の乱闘を見ていたオキは、この大男が確かな手ごたえを持って言っているのに気づいた。

 驚異的な回復を見せている子供は、それこそ大きくなって見た目の心配さえなくなれば、どうにか堅気として生きていけるだろう。

 だが、先程のやり取りで、ロンは不安を抱いている。

 程々に元気になった子供が、エンを捨てていくかもしれないという不安ではない。

「多分、それこそ一人で生きていけるくらいにまで大きくなれば、エンちゃんと離れても大丈夫だと思うわ」

「ええ。その後に、そちらに戻ることも考えています」

 エンが答えて頷き、ジャックも無言で頷いた。

「だけど、育てるのはあたしたちの傍でも、出来るでしょう?」

「出来ません」

 やんわりとした問いかけは、バッサリと切り捨てられた。

「どうして? 心配しなくても無理やりこっち側に引きづるつもりはないわよ? きっとこの子、あたしたちの所業を見ても、自分の意志を曲げないくらいには、頑固よ」

「それでも、駄目です。このままでは、どう狂うか分からないので」

 きっぱりとした返答は、剣を帯びた物になっている。

 そこまで頑なに言われる申し出ではないはずと、戸惑う一同の代わりに、ジャックが控えめに声をかける。

「今迄、何か心配になるようなことが、あったのか? 見目以外で?」

 拾った場所が場所だ。

 どこかを無性に怖がるとか、悪夢を見て暴れるとか、そんな事があったのかと、言下に問う老人に、エンは無言で首を振った。

「そ、そうか。なら、心身共に、回復しとると……」

「夢すら見ずに、熟睡するんです」

 ほっとした声に重なった声は、固い。

「意識を取り戻した後も、その前も全く、あの頃の事を思い出して取り乱すことが、ないんです。おかしいでしょう、逆に?」

 言われて子供を見ると、確かに完全に眠りについていた。

 すやすやと寝息すら穏やかだ。

「……起きた時から、可笑しいとは思っていたんです。見も知らない男が、目の前にいたのに驚かず、聞いたことにすぐ答えたんです」

 故郷の言葉で声かけてしまったのに、すぐに頷かれたのにも驚いたため、可笑しいと気づいたのも少し後だったが、その後も手がかかる事がなく、逆に不安が募っていた。

「多分、随分前から、心は壊れてるんだと思います」

 恐らくは、祖母の元から連れ攫われた時から。

 そんな子供を、完全に後ろ黒い所で養うのは、不安しかない。

 言い切ったエンの言葉に、反論できる者はいなくなった。

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