第4話

 森に近づいた二人は、違和感に気付いた。

 夕方に近い刻限なのに、妙に森の鳥たちが騒がしい。

 時々不穏な小さな音も響いている所を見ると、誰かがご丁寧に仕掛けられた罠を動かしているらしい。

 そんな事を出来る奴は、そう多くない。

「……見つかったのか」

 出来るなら、隠し通したかった。

 エンは、小さく嘆いた。

 ジャックも、複雑な思いで溜息を吐く。

 出来れば、あんな堅気でない場所で、あの子を養いたくはなかった。

 だから、すでに頭までその行いにどっぷりとはまっている自分が足を洗うのではなく、エンにあの子を託したのだ。

 だが、普通の子ならまだしも、元気になったあの子は見目が良すぎた。

 しかも、聞くところによると動きも活発らしい。

 カスミやその友人が目を付けてしまったら、平穏な生き方をさせてやることができなくなるのではと、エンはそれだけを恐れていた。

 だからこそ、やりすぎな位に注意して群れの追っ手をまき、その後も細心注意を払いながら、ジャックが作っている義手ができるのを待っていたのに、遅かったのだ。

「待っている間も、一所にいさせるべきではなかった……」

 嘆いても、今更だ。

 近づくにつれて、誰が罠を動かし続けているのか分かった。

「……旦那か。という事は、ロンが中に入ってあの子と会っとるのか」

 説得は、まだ楽な方かと、ジャックは呟いた。

 見目で物事を考えないロンなら、こちらの話を聞いてくれるかもしれない。

 エンも頷き、切り出した。

「向こうの方から、先にあの子の所に向かってくれますか? あの人とは、オレが話を付けます」

 指さしたのは、この間もジャックと共に歩いた、森の獣道だ。

 罠の位置も変えていないから、ジャック一人でも歩けるはずだ。

 頷いた老翁が獣道の方へと歩いていくのを見送ってから、若作りの男は父親がいるとみられる森の中へと足を向けた。

 どちらかと言うとエンの方が、最近告白された親子と言う間柄のせいで、カスミと二人で話すのは躊躇われているのだが、そんな場合ではない。

 カスミは、森の真ん中あたりで、棒を片手に罠の一つをつついていた。

 いくつかその罠の攻撃をまともに受けたらしく、頭と背中に弓矢がつき立っている。

 実はこの人のこの状況は、それほど珍しい光景でもないが、改めて見ると何故血が出ていないのか、不思議だ。

 そして、本当にこの男と自分に、血の繋がりがあるという事も。

 だが、その不思議な光景を見守るより、疑問に思考を沈めるより、エンにはやることがあった。

 いつものように穏やかに、気楽な声をかける。

「親父さん、そんな所で、何を遊んでいるんですか?」

 真面目そうな顔が、振り返った。

 驚いた様子はないから、予想はしていたのだろうと、内心苦い思いになりながらも、穏やかな表情を崩さずに首を傾げる。

 振り返ったカスミがそのまま目を合わせたが、合った目の中に浮かぶ感情に、一瞬だけ狼狽えた。

「?」

「お前、女を囲っているそうだな」

 頭が、真っ白になった。

 我に返らぬまま出た声は、間抜けなものだった。

「……は?」

「随分、見目のいい女らしいが、親としては了承できんぞ。罪人相手では」

「あの」

 混乱してはいるが、その言い分は聞き捨てならなかった。

「罪人なのは、あなたもオレも同じです。それを棚に上げて、よく文句が言えますね」

「罪人だと言ったのは、そうとしか呼べんからだ。名を知らんからな。両手のない女では、呼ぶのには長すぎる」

 カスミの真面目な言い分に舌打ちし、エンは言い切った。

「あの子は、罪人じゃありません」

「ならなぜ、こそこそと匿っているのだ?」

 カスミのじんわりとした空気が、足元から這い上がって来る。

その珍しい空気に、用意していた説明を躊躇った。

「こそこそと匿ったのは、申し訳ないと思っていますが、訳があります。少しは察して下さっていると思ったんですが……なぜ、そんなに怒ってるんですか?」

 声が震えそうになるのを抑えながら、静かに聞いた息子に、男はやんわりと微笑んだ。

「私はな、やっと見つけた息子が、伴侶を作ることなく成長したと、嬉しく思っていたのだ」

 言い出した父親の話は、意味不明だった。

「伴侶を持つのは、まだ先になりそうですが」

 だから、戸惑いながら言い返すと、カスミは小さく笑いながら頷いた。

「つまり、あれは罪人の男、という事か。ではますます、生かして置くわけにはいかんな」

「な、何故、生き死にを考える話にまで、なるんですか?」

 一歩も動いていない父親から後ずさりながら、エンは困惑を言葉に乗せる。

「あの子は、確かに五体満足ではなく、今は生きるだけでも困難かもしれませんが、それは……」

「ロンから話は聞いている。お前は、どちらかと言うと親のように、その男に接していると。だが、ジャックはどうだ?」

 答えようとする息子を、カスミは一瞥で黙らせて続けた。

「十代の男に、色のある想いを持ってしまうとは。老い先短いというのに、あの才をそんな理由で埋もれさせてもいいのか?」

「十代? 誰の話ですかっ?」

 息子が思わず吐き捨てるように返すのに、父親は呆れたように首を振った。

「もしや、若作りなだけの男なのか? 随分と小さいから、ロンは女だと思っているようだが、お前の話では男だという。どちらにしても、庇護欲をそそる容姿なのは、確かなようだな」

 何度も頷いて、一人で得心しているカスミを、エンは呆然と見たまま困惑していた。

 混乱し過ぎて、言葉が出てこない。

 なぜこんな、あり得ない話になっているのか。

 それは分からなかったが、妙な話の進み具合の先が、最悪なものであると思い当たり、青褪めて父親を見た。

「お、親父さん、まさかロンは……」

「ジャックは、先に小屋に向かってしまったのか? それは困ったな」

 カスミはわざとらしく首を傾げ、真面目に答えた。

「二人の足止めを頼まれたのだが、ジャックは見てしまうかもしれんな。その男の死体を」

 膝から崩れ落ちそうな衝撃があった。

 実際に崩れ落ちることができなくなったのは、これまで衝撃が多すぎる生活をしていたせいだ。

 それは、異常すぎる人生だったのだと自分で認めているようなものだったが、今は有り難かった。

 恐怖も衝撃も、怒りには勝てないくらいには、強靭な心を持てるようになったのだから。

「あなたは、あの子の何を知っていて、そういう事を決めたんですかっっ」

 怒りに任せて怒鳴る息子に、父親も怒気の混じった声で答える。

「お前こそ、何が気に入って、その男を囲っていたのだ?」

「気に入るとか、気に入らないの話じゃないんですっ。あの子は……」

「ああ、お前を説得する気は、全くないのだ。どうせ、聞く気もないのだろうしな」

 首を振ったカスミは、言葉を紡ごうとする男を遮り、言い切った。

「これから先、息子が生まれるかどうか、その息子が成長するかどうか運次第なのでな、お前を簡単に切り捨てるわけにはいかない。だが、このまま反抗するお前を、無理に戻すのも面倒だ」

「……あの、少しは話を聞いてくれませんか?」

 何とかまともに話し合おうと試みるが、珍しく真面目に怒っている男は、息子の言い分を聞く気がない様だ。

「ジャックの方は、記憶を消すなりなんなりして、使える状態に戻せばいいが、お前はそうはいかん。命を取らず、灸を据えるやり方は、やはりあれしかないな」

 真面目に唸っていたカスミは、不意に頷いてエンを見た。

 嫌な予感が、全身で危険を訴えるが、体が竦んで動かない。

 先程まで、何とか絞り出していた言葉も、出す気力がない。

 そんな息子に、父親は真面目に問いかけた。

「お前は、この生き物を知っていて、ここを選んだのか? お前自身の身が危ういと知っていれば、ここを選ばんだろうから、知らなかったのだな」

 何の事だと問うことも出来ない男は、背後に何かが立ったのに気づいた。

「お前の母親の一族は、雌株のそれを祀り上げて成り上がった家系だ。男児は後継ぎとして残し、女児をその種に捧げ続けたのには、訳がある」

 目だけでそれを指して、カスミは真面目に妙な話を始め、その間に何とか動けるようになったエンは恐る恐る振り返り、目を剝いた。

 そこには、先程までなかった巨木が立ちはだかっていた。

 小さな赤い実を実らせたその樹木は、立ち竦む男の間近で太い枝をきしませている。

 青褪めた顔色が戻らない息子を見ながら、カスミは続けた。

「下手に異性の捧げものでは、繁殖してしまうのだ。相手を完全に養分として溶かし、雄株でも雌株でも実を実らせ、それを地に落とす。それが芽吹くか否かは自然の理の内で、今のところはその成功例はないが」

 顔を引き攣らせてそれを見上げ続けるしかないエンに、父親は真面目に言い切った。

「完全に、養分にされる前には出してやるから、心配するな。しばらく、それの中で反省する事だな。見目だけの男にほだされる様では、先が不安だ」

 もはや、否定も説明も出来ない。

 今は只、この危機の回避を全身が訴えていた。

 初めて見る動く巨木は、顔もない筈なのにこちらを見据えているように感じた。

 じりじりと近づくそれを見上げ、エンもじりじりと後ずさる。

 どう切り抜ければいいのか、それすらも考えられず、只その餌食になりかかっていた男に、鋭い声がかかった。

「エン、下がれっ」

 聞き慣れた、しかしそれにしては太い声だ。

 が、それを気にするより早く、何かが風を切る音がエンを咄嗟に動かしていた。

 一気に体を動かし身を引くのと、巨木が一瞬身を反らせるのは同時だった。

 何かが樹木の幹を突き刺し、根っこごと吹っ飛んでいく。

 大きな地響きと共に、近くの木に縫い付けられたそれに、見慣れた剣が突き刺さっているのが見えた。

 エンの膝が折れ、地面に座り込んだ。

 久し振りの恐怖で立ち上がれない男の傍で、カスミが大袈裟に首を振った。

「気づくのも早いが、その姿に戻るのも早いぞ、ラン?」

「早いものか。間に合わないと思って、本気で焦った」

 先程の声が、溜息交じりに答えるのを聞き、エンは座ったままそちらへと目を向ける。

 そこに、見慣れない男がいた。

 自分と同じくらいの背丈だが、猛々しさがにじみ出た人好きのする男だ。

 癖のある白髪と、エンと同じ色合いの瞳は見覚えがあるのだが、その人物とこの男を結び付けるには、性別に無理があった。

 珍しくあほ面をさらすエンに、男の後ろにいたジュラが近づく。

「大丈夫か。おーい。戻って来い」

 ぱちぱちと軽く男の頬を叩く兄の横に近づいたジュリは、おっとりと笑う。

「そんな顔、まだできたのね。初めの頃しか見た事ないから、もうできなくなったのかと思ったわ」

 揶揄い交じりの双子の態度に気付かぬ様子で、エンは初めて見る筈の男を凝視していた。

 男は自分で串刺しにした巨木を見つめ、小さく唸る。

「うーん。ずれたな」

「ずれても、暫くは動くまい。何しに来たのだ? そんな格好に戻ってまで、私のやることにケチを付けに来たのか?」

「オレも、ここでケチ付ける気は、なかったぞ」

 カスミの眉を寄せながらの文句に、男は首を竦めて答えた。

「まさか、偶々とは言え、これが森にいるとは、思わなかったんだ。こんな事になっていないなら、あんたにはもう少し穏便に、間に入るつもりだった」

「どちらにしても、ケチをつける気だったのだな?」

 そうでなければ、ここまで体を戻しては来ないだろうと、父親に指摘されたランはあっさりと頷いて、まだぽかんとしているエンを見下ろした。

「……お前って、意外に無邪気な顔できるんだな」

 素直な感想を吐いたランの呼びかけで、その腹違いの弟は急に我に返った。

「あ、あなた、ランですかっ?」

「それ以外の、何に見える?」

 悪戯小僧のような笑みを浮かべて、そんな言葉を返す姉であるはずの男に、エンはついつい真面目に返した。

「どこの都にもいる、女好きの遊び人に見えます」

「何だとっっ」

「白い髪が何故か、更に軽い男に見せてます」

 まじまじと見つめながらの感想は、全く褒めていない。

「だからかっ。オキの奴が、オレの体を渋るのはっ。オレだってな、ミズ兄みたいな超絶美形に産まれたかったよっっ」

「それは、私の子である以上は、無理だな」

 心の底からの嘆きは、父親が速攻で撃ち落とす。

「どうやら、どんな美貌を持つ女でも、私の間では程々の美貌の子しか、作れなくなるらしい」

 話が見えないが、エンは目をつむって話を反芻した。

「……ランは、あの猫を……」

「ちょっと待てっ。誰が獣に懸想してるってっ? いや、してない訳じゃないが、オキにじゃないっ」

 してるのか。

 口には出さずにそう視線で返したエンの目は、空虚の色をしている。

 そんな弟に、姉は意地の悪い顔を向けた。

「お前だって、相当おかしいだろうっ。あんな樹木に懸想されるんだからなっ」

 男が我に返った。

 緊張した目で見る先は、気に縫い留められた大木だ。

「これは、何ですか?」

 改めて見た巨木は、確かに森の奥にあったものだが、それが動くとは思っていなかった。

 エンの問いに、カスミが真面目に答える。

「名は、はっきりとしたものは付けられていないが、場所によっては土地神と崇められる、妖しの類だ。気の合う人間の住む土地を、その人間が生存中豊かにする妖怪なのだが、その好きの種によっては、厄介になる物でもある」

「偶にいるだろ? 妙に生き物に好かれる人間が。あれの、樹木に好かれる奴が、お前って事だ」

「……知りませんでしたけど」

 ランに肩を叩かれながら訳知り顔で言われたが、初耳の話でしっくりと来ない。

 エンの戸惑い顔にも頷き、姉はどちらかと言うと頼りがいのある兄貴の笑顔で言った。

「今知ったんだから、これから気を付けろ。森の中では特にな。こいつは、オレが何とかするから」

「ほう、お前にミヅキや叔父上の真似事ができるか? 大事な部分を刺し止めるのを、失敗しているというのに」

「大丈夫だよ。火薬を刺し口から注いで、火をつける気でいたから」

 真面目な父親の言葉に返し、ランは弟を見た。

「お前、武器と一緒に、持ち出してるだろう? 大量の火薬を?」

 どうやら、父親より詳しく、エンの動きを把握しているようだ。

 観念して頷いたエンは、答えた。

「半分ほどは、罠に使いましたが……」

 言いかけたその声に、爆発音が重なった。

 振り返った一同の目に、もうもうとした煙が立ち上がっているのが見える。

 森を抜けた、あの小屋の辺りだ。

「……落とし穴の一か所に試しに、甕ごと入れてみたんですが、落ちるその振動での衝撃でも、火がつくんですね」

「つくかっ。ジャックが、火種持ってたんじゃないのかっ?」

 ジュラが血相を変えてエンにつめよるが、答えたのは真面目顔のカスミだ。

「ロンが持ち歩いている。例の男を穴に落として、火でもつけたのだろう」

 エンが青ざめた。

「ジャックが、その前に辿り着いていなければいいな」

「親父……」

 顔を引き攣らせながらも、ランが静かに話しかけた。

 こんな場合ではないが、もしもカスミの言う通りであれば、既に手遅れだ。

 それならまず、父親の誤解を解いてから、今後を話し合うしかない。

「あんた、一度でもその男って奴を、自分の目で見たのか?」

「いや」

 今は息子となっているランに、カスミはきっぱりと真面目に答えた。

「見目のいい奴だと聞いたのでな、敢て見ていない。エンやジャックまで惚れるくらいだ、私まで篭絡されるかもしれんだろう?」

「は?」

 エンが、棘のある声を漏らした。

 弟の思う所が、痛いように分かる。

「あなたは兎も角、なぜ、オレやジャックが、あの子に篭絡されるんですかっ」

 珍しい怒鳴り声に、ジュラが目を見開いた。

 先程からの怒涛の出来事に、何の返しも出来なかった分、怒りはすさまじかった。

「確かに、あなたが、あの子を見て気に入る事は予想していましたよっ。だからこそ、老い先短いジャックの代わりに、オレがあなた方から離れて世話することで、話がまとまったんですからっ」

 カスミがここに来たという事は、あの子の事がばれてしまったのだと、それならば、事情を話そうと思っていたのだ。

「……下手に、あなた方の元に置いたら、ちゃんと自力で生きる力が出来た時、堅気になるのが難しいから、このまま世話させてほしいと、頼むつもりでいたのに、あなた方は、何てことを……」

 そんな怒りと嘆きが混じった息子の言葉で、カスミは初めて疑問を持った。

「……ロンの知らせでは、随分見目のいい、年頃の娘だという事だったが……。本当にお前もジャックも、色めいた想いはないのか?」

「だから、何故、オレやジャックが、あの子にそんな想いを抱くと、考えたんですかっ」

 エンは、怒りに任せて言い切った。

「あの子は、ジャックの孫なんですよっ」

 ジュラとジュリは、幼い頃からカスミと共にいる。

 ランに至ってはこの男と親子で、母親と死別してから男一つで育ててくれ、一番身近なはずの存在だ。

 だが、初めて見た。

 何事にも飄々として驚かないカスミの、驚愕する顔を。

 エンの告白よりもその事実の方に、三人は心底驚いてしまった。

 今度こそ、何かの触りがあるのではと、内心身構えている三人の前で、呆然としたままのカスミが呟いた。

「……年頃の娘と、ロンが言っていたという事は、随分と成長していたと?」

 遠目でそう考えても仕方がない見目であったのかと、まずその疑問を口にしたのは、訳があった。

「確か、ジャックの孫なのなら、十代にも満たない筈だろう?」

「ええ。それに、ロンは随分、目が悪くなったんじゃないですか? あの子は、あの年にしては小さいんです。何故、年頃と言う言葉が出て来たのか、分からないんですが」

 エンの苦々しい返事に、三人も頷く。

 そう、ジャックの孫かはこの際置いて置くとして、もし、自分たちの知る男の子供だというのなら、まだ十歳にもなっていないはずなのだ。

 この辺りの住民は小さい方で女は更に小さいが、それでも子供と見間違う事はないはずだ。

 顔を見れば一目瞭然だったから、後から来た三人はカスミの激高にも戸惑っていた。

「……オキの話では、遠目で見ただけではそう見えたかも知れない、って事だったんだが……」

 知らせてきた黒猫の若干呆れ返った顔に、ランは見間違えた何かがあると思っていたのだが、聞いている限りでは分からない。

「見目と、立ち姿でそう見えたって事でしょうけど、確かにロンが、そんな見間違いするのは、おかしいわ」

 まだカスミの様子に驚いて固まっているジュラの傍で、一足早く我に返った妹が首を傾げながら呟くと、座り込んだまま怒りに震えていたエンが不意に顔を上げた。

 宙を仰ぎながら、呟く。

「……帽子と、下駄」

「下駄?」

 珍しい物の名前を聞き、ランが思わず訊き返す。

 目を合わせた弟の目が、泳いだ。

「いえ。あの……目が覚めた時、髪が生えるか不安な時期がありまして、今も帽子をかぶらせていたんです」

 それは知っている。

 オキが、帽子にエンの髪の毛がついているだけで、髪は生えていないらしく、まだ色は分からないと言っていた。

 無言で先を促す姉に、エンは狼狽えながらもはっきりと話した。

「……動き始めるようになってから、今度はこの辺りの危なさが心配になって。あの見目の上に、小さかったもので」

 初めは、木の枝が獣の毛と絡まって落ちているのかと思ったくらいにやせ細っていて、息をしているかも分からないくらいだった。

 それを根気よく治療し、何とかあそこまで生き返らせた。

「これから太らせて、年相応の成長を促そうと思っていたんですが……」

「家畜みたいな言い方は、止めとけ。お前が言うと、いずれ食卓の上りそうで、怖いから」

 真顔の言葉に、ランが余計な事と思いつつ窘めの言葉を挟む。

 食卓に上れば、何だか美味しく召し上がれそうな、そんな予感がする。

 真顔になった姉のそんな言葉にも構わず、男は言葉を続けた。

「……狼藉者に目を付けられないようにと、万が一目を付けられても、簡単に連れ去れないと思わせようと思って……下駄を、外に出る時だけでも履いておくようにと」

 背丈を誤魔化すために。

 下駄は、靴底に詰め物をしたものよりも、脱ぎ履きしやすい履物だ。

 それの歯を少し高めに削り、男はそれを子供に履かせていたのだ。

「それを履くと、オレの胸辺りにあの子の頭が来ます」

「……それじゃないか」

 ジュラが呆然と呟くと、エンは頭を抱え込んだ。

 そのまま動かなくなった弟を見つめ、ランが溜息を吐いて父親に呼び掛けた。

「親父。もう遅いだろうけど、ロンを止めよう」

 ここで、エンが絶体絶命になっていなければ、ランが先回りして子供を助けるつもりだったが、ここまで事が進んでしまっていては、何もかも遅い。

 子供を助けるのは手遅れで、それでも放って置くことができない話になっている。

「……シノギ叔父の子なのなら、弔う位はしないと。ロンを止めるのも本当の所を話すかどうかも、任せるから」

 後味の悪い終わり方だが、どうしようもない。

 幸い、顔を殆ど見せなくなった大男は、とうの昔に子供は死んだと思っているから、これまでの経緯を進んで話すことはない。

 だが、係わってしまったエンとジャック、手にかけてしまったロンの心境を、どう治めるかを考えるのが厄介だった。

「……ロンは、ジャックの孫が叔父上の子という事は、知らんはずだ。この際、年齢も隠してしまおう」

 カスミは、幼馴染で従兄である男に対する治め方を、あっさりと決めた。

 シノギと呼ばれる叔父の一番弟子であるロンがその実の子を、しかも年端も行かぬ子供を手にかけたという事実に耐えられるとは思えないから、妥当な決断だ。

 一時的に記憶を消しても、永く生きている男は、どこかで思い出してしまう。

 それなら、事実を知らない方がいい。

 ランも、その考えに頷いた。

 その場に居合わせたジュラとジュリも、苦い顔ながらも頷く。

 何よりも、その事実を抱え込まなければならない身になったのが苦痛だが、これは仕方ない。

 頭を抱えて蹲ってしまったエンの傍にジュラを残し、カスミはランとジュリを従えて森へと入っていった。

 悲劇の舞台になっているであろう現場を思い、気を重くしながら。

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