第3話
鍬を抱え込んだ男は、一仕事終えて立ち上がった。
「……眠い」
「……」
全身土まみれでこちらに歩いて来る男を、黒い猫が見上げる。
その呆れ果てた目線を見下ろす男に、オキは訊くまでもないとは思うが尋ねてみた。
「どこで、こんな事を教わった?」
「訊くまでもないとは、思わないのか? と言うか、教えてもらっているの、聞いてただろ?」
無感情な返しに、オキは大きく唸ってしまった。
「聞いてはいたが、これは、やり過ぎではないのか?」
これと言って目を向けた先には、開けた大地が広がっていた。
だが、見た目がそうなだけだ。
今は、無数に穴が開いているはずの、開けた大地だった。
「何故よりによって、それを選ぶ?」
エンが教えていた罠は、簡単な落とし穴だったはずだ。
だが、穴を掘り始めたのはいいが、少々やりすぎな位の状態になっている。
「これで、あの人の言う狼藉者とやらが落ちたら、その上から石を入れてやれって」
何させる気だ、あいつはっ。
それを馬鹿正直にやる気になる、この男もこの男だが。
小屋の中に入って床に座る男に呆れ返りつつも、オキは待っている間に集めて来た木の実を、袋の端を咥えて床にぶちまけた。
この間、男が取りそびれた木の実だ。
「偶に、この手の色合いでも渋くて食えない物があるが、これは甘い種だ。一口大だから、食いやすいだろう。眠る前に、食え」
「有難う」
無感情ながら、男は素直だ。
礼を言った傍から躊躇いなく、木の実を拾い上げて口に放り込むほどに、素直過ぎる。
「……」
おかしな奴だと、オキは改めて思う。
こちらをすぐに信頼するほど無防備だが、獣の勘で妙に張り詰めた何かがある。
ランには決めつけるなと言われているが、その何かが自分が感じた正体を思うと、得心の理由となっていた。
「甘い」
無感情な声が、そう感想を言う。
嬉しいのならそれを声音に乗せて欲しいものだが、声も表情も殆んど変わらない。
数日一緒にいるうちに、その変わらない表情の、僅かな動きが分かるようにはなったが、初めて会う者やそれを分かろうとしない者なら、勘違いして反感を買いそうだ。
ぽつりぽつり、訊かれるままに事情を話す男のこれまでの事を聞くと、どうやら昔は、良く笑い泣く素直な男だったらしいのだが、過酷な経験をしてしまったがために、今は素直な顔の作り方を、忘れてしまったと見えた。
感情のまま生きても、この容姿では周囲を巻き込んだ災難が起きかねないから、無理に笑えとは言えないが、エンがこの場所を離れる目途が立つ前に、一度くらいは見たいとは思っていた。
器用に腕に木の実を乗せて、口に放り込む男の顔が、僅かに歪んでいるのに気づき、オキは首を傾げた。
「何だ? 傷んだ物が混じってたか?」
心配した猫の問いに、男は首を振って自然な返事をした。
「頭が、最近むずむずしてる。髪の毛が、生えて来てるんだって」
目を見開いてオキが見上げた先は、男の頭だ。
頭にいつも被っている帽子は、エンのお手製らしい。
故あって男の髪を剃るしかなかったエンは、その寒々しさを見かね、自分の長い黒髪を少し切り、帽子に縫い付けていつも被らせているのだそうだ。
それが、最近生えて来た髪と絡まるようになり、男がむず痒い思いをしているらしい。
「まだ寒そうだから、取るなと言われてるけど、一人の時はいいかな?」
掻きむしろうにも出来ない男の切実な悩みだが、オキは小さく唸った。
本来の髪色が、どんな色なのかも気になるが、取るのは楽でもつけ直すのは男一人では難しい。
「つけ直すのを手伝ってもいいのなら、汚れを落とす合間だけは、取ってもいいんじゃないか?」
と言うより、袖周り位は土を払ってから、物を食わせればよかったと、今更ながら思いつつオキが答えると、男は少しだけ目を輝かせた。
「本当か? じゃあ……」
早速、男の両腕が帽子に向かう。
外で、太い悲鳴が響いた。
わくわくと、珍しい気分で男を見上げていたオキが、我に返る。
帽子を取る前に止まり、男も目を瞬いて外へと目を向けた。
「まさか、誰か落ちた?」
意外そうに目を丸くしている所を見ると、穴掘りしていたものの本当に罠になるとは、思っていなかったようだ。
いくら用心深い奴でも、所狭しと掘られた穴を全て掻い潜るのは、難しいとオキは思うのだが、男はそっと小屋の中から外を伺い見、珍しく仰天したように目を剝いた。
「掛かってるっ。あんなものでも、使える物だったんだなっ」
無感情なのに、嬉しそうな様子がにじみ出る顔になり、男は外に飛び出した。
そんな顔も出来るのかと驚きながらも、オキはその後に続く。
森を一歩出た所の穴が、ぽっかりと顔を出していた。
恐る恐る中を覗く男の傍で、猫もそっと下を見下ろす。
一人の男が、そこに沈んでいた。
沈んでいる?
そう見えたオキは、目を凝らして見直した。
見慣れた大男が焦って足掻く中、その体は腰まで地面に沈んでいた。
「……何か、中にも仕掛けたのか?」
そんな暇があったのかと問う黒猫に、男は無感情に答えた。
「ここ、初めに掘り始めた所なんだけど、深く掘り過ぎたみたいで、水が噴き出たんだ」
その穴の中にいた男は、危うく溺れ死ぬところだった。
丁度、夕食準備の最中だったエンが気づき、助けられたから濡れ鼠になっただけで済んだが、その時埋め直すのは勿体ないと言われ、じゃあ底なし沼のような仕様にしようと、うまく土をかぶせて噴き出す水は抑え、たまった水は残し、今の様に収めたのだった。
「……」
「初めての落とし穴づくりなんだから、この位の失敗もありだって、慰めて貰った」
「そうか」
オキが良かったなと返して頷いた時、穴の中の大男が上を見上げた。
見下ろしている男に気付き、目を見張る。
「……こんにちは」
「こんにちは」
いつものように笑顔を浮かべたが、人を食ったような普段の笑顔ではなく、若干引き攣っている。
挨拶を返した男に、泥まみれの大男はやんわりと話しかけた。
「縄か何かないかしら? 貸してくれたら、嬉しいんだけど」
「生憎、家の中に何があるのか、あまり分からない」
無感情な返しに、顔だけではなく空気も引き攣る。
「じゃあ、誰か、人を呼んできてくれる?」
「ここ以外に、人が住める場所があるのかすらも分からないから、人を呼ぶのにどの位時がかかるか、分からない。あんたが沈み切る方が、早いと思う」
「……あなた、穴に嵌まった人を、このまま見殺しにする気?」
くぐもった声を出す大男ロンに、聞いていたオキは苦笑した。
自分は人一人手にかける気でここに来たくせに、よく言うものだ。
情に訴えるその言い分に流石に助けに動くかと思ったが、傍でロンを見下ろす男は、首を傾げた。
「ここに落ちたら、このままでいいと言われてる。黒い水なら、火を投げ込むことを勧めるけど、そうじゃないからこのままでいいって。どう言う事だろう?」
そんなこと教える奴は、一人しか思い浮かばない。
「エンちゃんっ。それで、足を洗ったつもりなのっ?」
ロンが、思わず吐き捨てた。
完全に、頭の中身が盗賊の考え方になっている。
ずぶずぶと沈んでいきながら、空を仰いで嘆くロンを見下ろしていた男は、足掻く様子が無くなったのを見て、立ち上がった。
「苦しみたくないなら、刃物を落とすけど? そのまま沈むか?」
無感情に無情の問いを投げられ、大男は顔を引き攣らせながらやんわりと答えた。
「あなたにお話があるのよ。ここでは遠すぎるから、出来ればここから出る手を貸してくれない?」
「貸せる程、強い手じゃない」
「その袖を垂らしてくれるだけでも、有難いんだけど?」
「垂らすのはいいけど、引っ張り上げられないから、どうしようもない」
やんわりとした言葉に無感情に返す男に、ロンはしびれを切らした。
「そう……」
静かに受け、笑みを深くした。
「なら、自力で出るわ」
言いながら、穴の側面に手刀を叩きつけて両手の腕力だけで体を引きずり出すと、手刀で出来た穴を足場に、一気に穴を飛び出した。
飛び降りた勢いのまま、目を丸くする男を引き倒し、覆いかぶさる。
「意外に、面白い子ね、あなた」
「……あんたほどじゃない。怒ってるのに、どうして笑ってるんだ?」
抗うことなく仰向けになった男が、無感情に無邪気な問いを投げる。
「あなたが、怒らせたんじゃない。変な手間を取らせないで欲しかったわ」
笑みを深くしながら言い、その首に手をかけた大男が、気づいた。
「あら、あなた、男の子なの?」
「……喧嘩売ってるのか、あんた」
初めて、男の声に剣が混じった。
そんな相手に楽しげに笑い、ロンが答える。
「ここまでされて、喧嘩止まりに思えるの? 死んでもらいに来たのよ」
「へえ」
目を細めて相槌を打ちながらも、抗わない男の細い首は、大男の力で楽にへし折れるだろう。
念のため心の臓も潰して、後はこの落とし穴に放り込み、埋めてしまえば見つかる事もあるまいと、ロンは冷静に考えながら手に力を込めたのだが、気づかぬうちに調子がくるっていたようだ。
顔に体当たりして来た黒い塊が、男のすぐ傍にいた事に、全く気付かなかった。
体を反らしながら身を離し、間合いを取り直して立った大男は、身を起こした男を庇うように四本脚で踏ん張る黒猫を見て、つい舌打ちした。
「……ランちゃんも、知ってるの?」
「さっき、こちらに向かうと知らせがあった」
「そう」
やんわりと微笑むロンに、毛を逆立てながら威嚇しつつ、オキは後ろの男に言う。
「小屋の中に、逃げろ」
「逃げて、どうなるんだ?」
「そうよ。どうせ、追いつかれて殺されるのに」
無感情な声に、笑顔の大男の声が続く。
舌打ちして見上げた黒猫に、ロンはやんわりと告げた。
「どきなさい。あたしがあなたの命を大切にする謂れは、ないのよ? あなたが死んでも、本気で悲しむのは一人だけ。その一人だって、いつまでも死んだ惰弱な猫を思い続ける事はないでしょ? そうしたら、ランちゃんにも機会が来るわ。あの子と別れてまでも、ランちゃんの来たるべき時を待ってるのに、こんな子のために、それを不意にする気?」
「……そのランが、守れと言う命を出したんだ。従うしかないだろう」
上品に声を出さずに笑いながら、大男は言った。
「そのランちゃんが、間に合うかしら? 森の外には、カスミちゃんがいるのに?」
立ちはだかった黒猫が、目を剝いた。
歯軋りしながらも、オキは男の前から引く気がないようで、ロンを真っすぐに見返した。
覚悟したその態度に、ロンは大袈裟に首を振った。
「残念だわ。ジュリちゃんと組んだあなたの力、重宝してたのよ。邪魔するのなら、仕方ないわよね。安心なさい、うまい具合にあなたの死は伝えてあげるから」
黒猫の後ろで、男が息を呑んだ。
「あんた、どけっ。この人の狙いは、私なんだろうっ?」
「だから、どかないんだっ」
珍しく声を張り上げた男に、オキも負けずに声を張り上げた。
「お前、言ったな。何とか、エン達を安心させてから、姿を消したいと。これが、安心させる消え方になると、思ってるのかっ?」
声を詰まらせた男を振り返り、ゆっくりと続ける。
表情が緩みにくい猫の顔が、今は心底歯がゆい。
「カスミと言う男が、近くにいるのなら話は早い。あちらをランが説得出来れば、この男も止められる。だから、それが終わるまでは、小屋の籠ってろ」
「それを、あたしが黙って見送ると思う?」
呆れ果てた大男の声が、すぐ傍で聞こえた。
振り返ったオキを、逃げる間もなく捕らえたロンは、その首を攫んで高々と上に持ち上げた。
「ただの獣なら、死に様を考えてあげる事は、ないわよね? あなたの血縁と同じように、八つ裂きにしてあげる」
息の詰まった黒猫に微笑みかけたが、次の瞬間目を剝いた。
突然、捕まえている物の重みが消えたと思ったら、重い一撃が鳩尾に入る。
不意打ちのその一撃に、流石によろめいたロンの懐に入った男が、更にその胸を押す。
後ろに足を踏ん張る前にもう一押しされた大きな体が、支えを失くして地面に倒れた途端、その地面が消えた。
「っ!」
悲鳴を上げる間もなく、突如現れた二つ目の落とし穴にはまったロンは、すぐに起き上がり上を見上げる。
咳込むオキを抱きかかえたまま、男が見下ろしていた。
「……お願いがあるんだけど、聞いてくれないか?」
「こんな所で?」
立場がまた逆転した感覚に、ロンは嫌な予感を打ち消しながら、いつもの笑顔を浮かべた。
虚勢でも笑っていないと、無感情のその男の思う壺だ。
「聞いてくれるかどうかで、そこから出すかどうかを決めるよ」
「あら、強気ね? 自力で出れるのは、さっき見せたわよね?」
男の言葉に笑って見せた大男に、無感情な声が言った。
「出れる位の力が戻るのは、まだ先だろう? その位の加減で蹴ったつもりだ」
「……」
目を見開くロンの目の先で、男はオキを地面に下ろし、静かに切り出す。
「あんたも、カエンさんやあのお爺さんと、知り合いなんだろう?」
「……それが、どうしたの?」
「私の世話をしているせいで、あんた達との間に何か諍いが起こっているというのなら、本当に申し訳ないと思ってる」
「申し訳ないと思っているのなら、態度で示して欲しいわね。さっきみたいに」
「……あんたが手を汚すことはない、と言ったら?」
今度は眉を寄せた大男に、男は静かに言った。
「私は、見ての通り、永くは生きれそうにない体だ」
「……」
「あの人たちに、永く世話してもらう気は、ない」
「……あなたにその気がなくても、あの二人は本気よ。あなたを長生きさせるために、頭を絞ってる」
返すロンに頷き、男は顔を伏せた。
「あの二人を安心させたら、ここを出て行くつもりだ」
その言葉に、ようやく立ち直ってきたオキが、目を見開いて顔を上げた。
「どこに、その安心を求めているのか分からないけど、それを見つける時が欲しいんだ。そんなに長くかけるつもりはない。長く生きれる自信もないから」
「そんな曖昧な話で、頼みを聞けると思う?」
ロンは大袈裟に首を振った。
「それにあの二人、あなたに夢中なのよ? 安心云々の話だけじゃあ、ないわ」
「そんな事はない。そこまで夢中でもないはずだ、今は」
真剣な言葉に、男も真顔で返した。
だが、ロンは全然信じずに首を振る。
「あなたにそれが図れるとは、思えないわ。あたしが見た限り、少なくともエンちゃんは、あなたを気にしてる」
ロンが考えた方向とは少し違うようだったが、情はあると見て言い切ると、男は首を振った。
「それは、少し前までのはずだ。今は、そこまででもない」
「だから、どうしてそこまで言い切れるわけ?」
まさか、自分の容姿を卑下する性格かと、うんざりとして問うと、男は妙な事を言った。
「ちゃんと、食べられるようになってきたから」
「……?」
きょとんとしたとは、ロンだけではなかった。
男の足下で、オキの顔も珍しく唖然としているように見えた。
そんな二人の前で、男は無感情に真面目に続ける。
「この分なら、匙やスプーンを使って食べる物も、ちゃんと食べられるだろうって言ってくれたから、もうそこまで夢中じゃないはずだ」
「え?」
「お爺さんも、私がちゃんと道具を使って食べられるように、両手に変わる道具を作ってくれると言って夢中だったみたいだけど、昨日カエンさんが完成したと言ってた。だからきっと、少しは安心してくれてると思う」
話が、何やらおかしい。
「ねえ、何の話をしてるの?」
「カエンさんと、お爺さんの話だけど」
「そう、よね。食べ物を食べる食べないのお話じゃ、ないわよね」
額を抑えての呟きに、今度は男がきょとんとした。
その珍しい表情に目を剝くオキの隣で、男は戸惑っている。
「二人が夢中って、その話だろう?」
「え? 夢中って……あなた、あの二人の事、好きじゃないのっ?」
ロンの驚いた返しに、男は更に困惑したようだ。
「あんたが言っていることが、分からないんだけど。私は、別に嫌いで物が口に入らなかったんじゃない。好きすぎて勿体ないと思って食べられなかったわけでもないけど」
「いえ、だから……っ」
大男は、混乱した。
今迄、幼馴染の言動や行動で、慣れているつもりだった奇異な出来事が、まだまだまともに感じてしまうのは、こちらが麻痺しているせいだろうか?
必死で気を取り戻し、声を抑えて返した。
「一度、食べ物云々のお話から、離れてくれないかしら?」
「?」
今度は、男が混乱してしまったように、一歩足を後ずらせた。
「食べ物以外で、好き嫌いで分けられるものが、あるのか?」
「はっ?」
「?」
無感情で訊いて来る男を、ロンは呆然と見上げてしまった。
答えを待つ男と、穴の中から見上げる大男の目が、戸惑いの中交わされるのを、オキは静かに座って見守った。
口を挟まないというより、挟めない。
どちらの疑問にも答えられないというのもあったが、何よりもこのまま固まっていてくれれば、時が稼げるから楽だと思い立ったのだ。
が、だてに修羅場の数々をくぐっていない大男は、男の隣の黒猫の様子に気付き、我に返った。
我には返ったが、戸惑いながら切り出した問いかけには、力がない。
「安心させるって、具体的にどうする気?」
厳しさが抜けた声に目を丸くし、男は答えた。
「お爺さんが持って来る物を、早く使えるようになって、一人でも生きていける事を見せる。そして、二人が気を抜いた時を見計らって、逃げる」
「……」
オキが、疑いの目を向けた。
思い出しているのは、初めて接触した日だ。
あれは、森を探索しているだけではなかったのか。
偶々、罠の仕掛けに引っかかったのではないのか?
木の実が気になるのなら、自分が採ってやるから、エンを心配させるなと言う説得を聞き入れて、それを止めたのだと思っていた。
それに、今作っている無数の落とし穴は、エンに言われての事だと思い込んでいたが、もしや……。
その視線を見下ろした男は、無言で視線を逸らした。
「……あれだけ作れば、どれかにかかってくれると思うんだ。その、作ってもらった物は餞別で貰って行こうかなと」
意外に、非道な事を考えている。
「ちょっと、まさか、あの二人を見捨てて逃げる気っ?」
「あんたも言ったじゃないか。この位の落とし穴なら、抜け出せるんだろう?」
逃げる暇が欲しいので、早く抜け出されるのは困るから、改良の余地はあると思っているのが、無感情の顔なのに、何故かありありと分かる。
立ち上がろうとしているロンが、あまりの非道さに顔を険しくした。
「あの二人の好意を、全て無にする気なの?」
「無にはしない。言っただろう? 安心させたと思ったら、逃げると。だから、あんたが私を手にかけるなんてことしないでも、いいだろう?」
「……ふざけないで。あの二人は、あなたを大事に思っている筈よ。なのに、何の恩も返さずに逃げる気?」
男は首を傾げた。
「私が、ただ世話をされるだけの者だから、あの二人に苦労させないように、あんたが来たんじゃないのか? どんなに世話をされても、こんな体じゃあ恩なんか返せないから、そう思ったんだろう?」
真っすぐに自分の本音をさらされ、ロンが声を詰まらせる。
「だから、恩を仇で返すように逃げるのが、一番いいんだよ。これなら……」
目を伏せた大男を見下ろしながらの言葉が、途中で止まった。
見上げ続けるオキを一瞥し、咳払いする。
「兎に角、そう時をかけるつもりはないから、出来ればこのまま帰ってくれないか? あの二人が、どう言う所に身を置いていたのかは知らないけど、いずれは戻ることになるはずだから、待っててあげて欲しいんだ」
真面目な頼みに、大男も真顔で返した。
「無理よ」
「何故?」
無感情なまま首を傾げる男に、ロンは小さく笑って答えたが、先程よりもさらに剣を帯びた気配を漂わせていた。
「あなたは、このまま野に放していい人間じゃないわ。エンちゃんやジャックちゃんだけじゃない、下手したら、高貴な人間まで誑し込んで、国を荒らしかねないわ」
「……タラシコム?」
男は言われた言葉を片言で呟き眉を寄せたが、尋ね返すことはせず、答えた。
「そんな面倒そうなことはしない。ただ、静かに短い生涯を過ごしたいだけだ」
「信じられないわね。それに、あの二人が持って来る物を待つってこと自体が、もうできない」
膝に力を入れ、ようやく立ち上がったロンは、余裕を取り戻して笑った。
「言ったでしょう? 足止めが、森の外にいるって。あの子相手では、あの二人は振り切れないわよ」
「なら、尚更あんたは帰ってもいいんじゃないのか? 私は、このまま餓死する方向になるんだろう? 心配しなくても、この間までその寸前だったんだ。少し遅れても恨まないよ」
「そんな不確かな終わらせ方、私の流儀じゃないわ」
人を食った笑顔を浮かべた大男に、オキが気を張りつめる。
身構える黒猫の傍で、男が溜息を吐いて、初めて露骨に表情を変えた。
「そうか。なら、仕方ないか」
やんわりと綺麗な笑みが、男の顔に浮かんだ。
無感情な目と声とは裏腹の、殺意を持った大男と緊張した猫をも一瞬見惚れさせる、美しい笑顔だ。
「そこで、埋まってくれ」
男は、長く袖を垂らした右腕を軽く上げ、石を掲げた。
オキが目を剝くと同時に、それが穴に投げ込まれる。
中にいたロンが、飛び上がる間はなかった。
軽く地面が揺れ、石が一度で穴を塞ぐ。
いや、これは、石でいいのだろうか?
「……これは、何処にあった?」
「近くの河原。一番目立ってた物を、使ってみた」
「そうか。まあ、水の流れが速いから、角が取れていたんだな」
無感情に答えられ、オキは一応頷いてから、今更ながらと苦言した。
「これは石じゃないとは言わないが、穴に投げ込むものなのなら、もう少し小さい手ごろなものの方が、良かったのではないか?」
「手ごろ? 掌大がいいとでも? 生憎、掌がないから分からない」
「それが、言い訳のつもりか?」
誰か、代わりに説明してくれと、頭を抱えてしまう黒猫だが、今は何処にも人影がない。
だから、一番言いたいことを口にした。
「いくら何でも、自分の体より大きい物を、投げ込む石に選ぶことはないだろうっ。これじゃあ、潰れ死ぬより息ができずに死ぬぞっ。無茶苦茶苦しいぞ」
「……」
はっと、男も自分の失敗に気付いたようだった。
たった一つで、落とし穴が埋まるほどの大きさの石を見下ろし、大きく頷く。
「そうか。それは、酷いな。よし、踏み潰して小さくしよう」
無感情にあっさりと言い、穴があったところに近づいた時、ごとりと石が動いた。
オキが警戒の声を上げる前に男が後ろに飛び、同時に大石が穴から飛び出して来た。
頭に降りかかったその石を上手に受け止め、男は穴から這い上がってきた大男を見た。
泥まみれの砂まみれになったロンは、完全に怒っていた。
「舐めた真似を、してくれるわねえ」
いつもの笑いを浮かべる大男に、オキは足がすくむ思いだったが、男の方は珍しい笑みを浮かべたまま見返している。
「へえ、まだ、足掻くんだ」
「そっちこそ、余り怒らせないでくれないかしら? 苦しめないように死なせてあげるって、言ってるのに。これじゃあ、気が済まなくなっちゃうじゃない」
再び地面が小さく揺れた。
男が無造作に、石を放り投げたのだ。
「中々、簡単にはいかないみたいだな。仕方ないから、足腰立たないようにして、川に流そう」
無感情な声で言う男に、ロンが更に顔を険しくする。
「あなたが死ぬのが、先よ」
「そう願うよ」
大小の男が、足を竦ませてしまった黒猫の見守る中言い合い、次の瞬間から前触れなく始めてしまった。
完全なる、殺し合いを。
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