音は続くよ、どこまでも

増田朋美

音は続くよ、どこまでも

今日は、雨が降って、それがいつまでも続いてしまうような、そんなことを予感させる、憂鬱な日でもあった。雨が降ると、最近はひどい災害になってしまうことが多い。何よりも嫌なのは、雨のせいで立て続けに報道が過密になることで、これのせいで被災されなかった地域まで嫌な気分になってしまうことだと思う。

そういう被害に合うのは本人ばかりではない。その家族たちにも被害が出る。そして、これを共有して紛らわせる方法はどこにもないのが現状であった。

ここにいる、田村美紀子もその一人だった。美紀子には、一人娘がいた。周りの人からは、一人だけの子供で良かったじゃないと言われるけれど、美紀子には、それだけでも、困ってしまうほどの手を焼く子供だった。

しかも、それが本人の先天的な気質とか、障害とか、そういうものだったら、もっと早く決着がついたかもしれない。つまり、昔は娘の田村翔子は、正常な娘だった。きっと、専門的な知識を持っている人であれば、なにか障害とか、そういうものが浮かんでくるんだろうが、素人の美紀子には全くわからず、翔子は正常だと思っていた。正確には正常に見えていると美紀子は思っていた。

それが、どういうわけなのか、自宅に引きこもるようになってしまった。高校を卒業するまでは良かった。でも、大学に入学するとき、学校の先生とちょっとトラブルがあったらしいのだ。それくらいしか美紀子にわかることはない。翔子は、それ以降、徐々に体調を崩して、学校にもどこにも行かなくなった。それは、今流行りの不登校というものになるのだろうか。よくわからなかったけれど、翔子は何もできなくなってしまって、一日中部屋にいて、時々なにかあるわけでもないのに、大声で泣いたり、ものにあたったりする様になった。それを止めるには、美紀子にはできなくて、夫が止めるしかなかった。美紀子は、これからどうしたらいいのかよくわからなかった。時々、感情が高ぶって、外へ飛び出して行ってしまう翔子の後ろ姿を眺めながら、ああ、もう自分の人生は終わってしまうのだろうか、と美紀子は思ってしまうのだった。

時々、美紀子が、救われたと思うことがある。何よりも、自分は音楽が好きなんだということだ。最近、趣味的な合唱団にも入り始めて、美紀子はこれをやっているときだけは、自分を忘れてやっていけるのではないかと思うのだ。そこで下手な歌を歌っているときは、自分は自分であることを忘れられるというか、あの娘を育てていることも忘れられるということは、美紀子にとって、すごい幸せなのであった。

今日も、美紀子は合唱団の練習に行った。歌ったのは、ふるさとと、埴生の宿だ。それを歌うだけでも、美紀子は、自分を忘れることができるのであった。にこやかに笑って彼女は大きな声で歌う。それには、娘が問題を抱えていることも関係ない。タクトの先生が、自分を引っ張ってくれるし、それに身を任せて一生懸命歌っていればいい。それは、美紀子には至福の時間だった。できれば、こんな日がずっと続いてくれればいいほど、美紀子は幸せだった。

ところがその日。

「えーと、田村美紀子さんという方はいらっしゃいますか?」

不意に、公民館の受付が入ってくるので、みんな何事だという顔で美紀子を見た。

「あの、田村美紀子さんにお電話です。何でも警察の方から。」

警察?と美紀子は変な顔をすると、タクトの先生が、とにかく電話に出てあげるように言った。美紀子は、急いで受付の人に連れ立って、公民館の事務室に入らせてもらって、渡された受話器をとった。

「はい。田村です。お電話かわりました。」

と、美紀子が言うと、

「あの、警察ですが、隣の家から、毎日叫び声が聞こえているって、通報がありましてね。娘さんに任意で話を聞きたいんですが、娘さんは、泣くばかりで、何も話してくれませんでね。」

と、電話の奥で男性の声がそう言っている。

「ちょ、ちょっとまってください。娘がなにかしたというのでしょうか?せめてそれをはっきりさせて頂きたいんですけど。」

美紀子は急いでそう言うと、

「すぐに帰ってきてもらえないでしょうかね。娘さんと話がしたいのに、全く話が通じないんです。お母さんなら、なにか知っているんじゃないかと思いましてね。」

と、警察の人はそういった。美紀子は、自分の大事な時間をぶち壊されたことで、すごい勢いで怒ってしまいたくなったが、それを我慢して、とりあえずわかりましたと電話を切る。そして、タクトの先生に、すみませんがちょっと帰らせてくれと言って、急いで車を走らせて、家に帰っていった。

家に帰ってみると、翔子は家の中にいる。居間の椅子には、翔子と、一人の男性刑事、そして、若い婦人警官が彼女のそばにいた。

「一体、彼女は何を言っているのかなあ。」

と、警官が一つつぶやくと、

「私の母が、合唱団に入っているんです。それだけは、ぶち壊しにしないでやってくれますか。確かに、私は、死にたいと叫びました。でも、それは、私がそう思っているから叫んだことでもあるし、私は、とても苦しくてたまらなかったんです。」

と、翔子はしっかり答えるのであった。

「何だ、理由をちゃんと言えるじゃないか。そういうことなら、なぜ近所の人に迷惑がかかるほど大声で叫んだのか、教えてもらえませんか。」

警官は呆れた顔でいった。

「叫んだのは、私じゃありません。私は、そのような覚えはありませんので。」

と、翔子はちゃんとそういうのである。確かに、そのようなことは美紀子も疑ったことがある。ここにいるのは翔子ではなくて、別の人間なのではないかと思ったことは何回もあった。それでも、たとえ翔子以外の人であったとしても、翔子が大声で叫んでいたのは事実だと言うのをわからせなければならない。

「翔子さん。あなたは、いま、田村翔子さんですよね?」

と、婦人警官がそう言うと、

「わかりません。私も私が誰なのかはっきりしないんです。」

翔子は答えた。ということは、責任能力を鑑定しなければならないかなと、警官たちはそう言っている。

「それではわかりました。次回、精神科医を同行させて、あなたのことを詳しく診察してもらいます。翔子さん、それまでに、自分以外の人物が現れている時間などを記録しておいてください。」

と、警察官は、今日は帰ろうと、婦警さんに促した。じゃあ、私達はこれで帰りますからと警察は言って、そそくさと帰っていった。

「翔子。」

と、美紀子は彼女に言った。

「あなた、自分の名前と住所を言ってご覧なさい。」

そう言うと、翔子はちゃんと田村翔子という名前と、自分の住所を暗証してくれた。

「それでは、あなたはいま田村翔子なのね。じゃあ、あのとき何をしたのか、お話してみてくれるかしら?警察の人が、近所の人から叫び声が聞こえると言っていた時刻よ。」

「ええ、私以外の誰かが、私のことを借りて、なにか叫んでいたのだと思う。」

そういう翔子に、美紀子は困ってしまうというか、言うことがなくなってしまうのであった。本当にそうなのだろうか?翔子が、ただ大声で叫びたいだけで、それに理由をこじつけているだけではないか。そう思ってしまうのだった。それは、お医者さんの目から見れば、病気の症状と言えるのかもしれないが、そういう見方は素人の目ではできないから、ただ嫌悪を向けるしかできない。

いわば、罪の内容がわかっていない、犯罪者と同じだ。

「そんなこと、これからどうしていけばいいのかしら。いつまでも、翔子ではなく別の人が、この家に居座るようでは困るわ。はやく翔子一人に戻ってもらいたい。」

と、田村美紀子はそういう。ここにいるのは田村翔子だけで良かった。他の人物はいらなかった。

「お母さんごめんなさい。」

不意に、翔子がそういうことを言う。謝って済む問題じゃないのよ、と言いかけた美紀子は、翔子に、それを言うのをやめておいた。翔子だって、彼女なりに苦しんでいるんだろうから。それは、精神関係の人は、口を揃えて言う。それは私のような家族は苦しんでいることに入らないのかという言葉にもなる。

「今日は、ちょっと、お母さんに付きまとわないでもらえないかな。」

美紀子は、小さな声でそういった。翔子は、ごめんなさいお母さんといったが、美紀子はもうそんな言葉を聞きたくなかった。それよりも、混乱している自分の頭を、整理したくて、どこかへ出たかった。翔子が、どこに行くのと言っているのを無視して、美紀子は、ふらりと家の外へ出ていってしまった。

とはいっても、美紀子には、いるところなどないから、行くところもなかった。美紀子は、とりあえず、ばら公園に行った。ちょうど、ひまわりの花が見頃の季節だ。バラ公園は、必ずなにか花が咲いている。そういう作りになっている。それは、きっと見る人を癒やしてくれるためのものだろう。近隣に遊園地ができて、それに客を奪われていて、随分訪れる人も少なくなってしまった公園であるが、遊園地より、こういう公園のほうがずっと心を癒やしてくれる存在でもあった。美紀子は、何も罪もなく、精一杯太陽の方を向いて咲いているひまわりが、なんだか愛おしく見えるのであった。

もう、なんでこんな生活を続けているのだろう、と、美紀子は思った。こんな生活、いつまで続くのだろう。まあ、たしかに原因は、翔子が大学の先生と起こしたトラブルである。でも、美紀子だって、あのとき、そうなっていたとは知らなかったし、翔子は、学校のことを全く親に話さなかったので、そういうことがあったなんて知らなかったのだ。美紀子は美紀子で、学校の費用を何とかするために、いつも頭をひねっていなければならなかったし、それは、どうして続いていただろうかと思っていたことだ。翔子も何も言わなかったし、美紀子も何も言わなかったのだ。それは行けなかっただろうか。美紀子は、自分が行けなかったのかという衝動にかられてしまった。やっぱり、自分が親として、もう少し翔子の方へ向いてやればよかったのだろうか。翔子は、子供だから、黙っていることしかできなかったのだから、親である自分がもう少し、翔子の方へ向いてやれれば、それで良かったのだろうか。そうすれば、翔子もああいうふうにならないで、幸せな人生が送れたのだろうか?美紀子は、自分も音楽が好きだった。それで翔子が音楽を学びたいといったときに、喜んで応援してやりたいと思った。でも、その結果が何ということだろう。音楽を親子で楽しくやるどころか、翔子は、精神疾患で音楽どころではなくなってしまったのである。

「よう、こんなところで、ひまわりを眺めて何を考えているんだ?」

不意に、後ろからそういうことを言われて、美紀子はハッとした。後ろにいたのは、杉ちゃんと、水穂さんだった。

「そんな深刻な顔してるってことは、きっとろくなことじゃないな。それでは、お前さんは、なにか真剣なことで悩んでいるんだろ。それは、顔に出てるからわかるよ。お前さんは、生半可な気持ちで生きているわけじゃない。ただ、真剣になにか考えているんだ。」

と、杉ちゃんに言われて、美紀子はそんなことに値するのかと思った。

「それでは、何をそんなに悩んでいるんだ。ちょっと、話してみな。僕たちはなにも言わないから。評価もしないし、甲乙つけることもしないよ。なにがあったか、ちょっと話して見るだけでも、だいぶ変わると思うけど?」

杉ちゃんという人は、何でも聞きたがるくせがあった。そう言われて、素直に話せたらいいんだけど、そういうことはできる人は、本当に少ないのだった。隣には、水穂さんという、とてもきれいで美しい顔をした男性がいた。美紀子は、この人を、宝塚とか、TVアニメの顔をそのまま現実化しただけでないかとしか見れなかったが、でも、どこかでみたことのある顔だとは思った。

「杉ちゃん、あんまり、人の話を聞き出すのはやめたほうがいいのでは?誰にだって、人には言えない悩みなんて、持っているんだろうし。それは、人に言ったら生活できなくなるから、黙っていることだってあるんだと思うし。」

その男性、つまり水穂さんがそういうことを言ってくれたおかげで、美紀子は、自分が持っているなにかが取れたような気がした。そういうことを言ってくれるひとなんてどこにいただろうか。自分の悩んでいることなんて、他人に話したら、育児に失敗したと言われて、バカにされて笑われるのが落ちだと思っていたから、誰にも言わなかったのだ。

「すみません。杉ちゃんなんでも聞き出すくせがあるけれど、気にしないでください。大変重大なことで悩んでいらっしゃるんだと思います。それはきっと、僕たちのような身分の人間には追いつかないことだと思うから、すみません、ご迷惑をおかけしました。」

水穂さんはそういう事を言って、静かに頭を下げた。

「僕たちのような身分って、あなた、かなり名の知られているはずなのに。」

美紀子は思わず言ってしまう。だって、この人は、翔子も憧れだった人物のはずだった。この美しい顔がそれを証明している。こういうきれいな顔をしている人物はそうはいないから、すぐわかる。この人は、右城水穂さんという有名なピアニストであるはずだ。

「右城さんで、いらっしゃいますよね。あ、もしかしたら、右城先生と呼んだほうがいいのかな?だって先生は、演奏の分野でご活躍なんでしょう?もしかしたら、大学とか、そういうところでお教えしているかもしれない。だって、あれだけ、すごい体曲やってらっしゃるんだったら、そういうこともできるのでは?」

美紀子は、この人が、演奏していた楽曲を思い出しながら言った。翔子の担当の教師も、弾くことができないと言っていた、レオポルド・ゴドフスキーの大曲を何回も弾きこなしていた人物ではないか?そんな人がなぜ、僕みたいな身分という言い方をするのだろうか。

「まあ、水穂さんは自分のことを卑下し過ぎなんです。おまえさんもそうじゃないの?それならお愛顧じゃないか。それにこじつけて、お前さんの困っていることを何でも話しちまえ。」

と、杉ちゃんに言われて、美紀子は今まで溜まっていたものを話してしまいたくなった。でも、要点だけ言うことにした。あまり長話をするのも悪いと思った。というのは、水穂さんの顔が、本当に青白くて、なにか事情があることを、示している顔だったし、ちょっと、苦しそうに咳き込むさまを見せたからだ。

「じゃあ、要するに一言で言えば、娘が音楽をやろうとしたせいで、解離性同一性障害という、ものにかかってしまったのよ。私は、それでどうしたらいいか、全くわからないわけ。まあきっと、右城さんには、縁はないと思うけど。」

美紀子は、彼の顔を見ることもなく、一気にそういうことを話してしまった。

「そうなんですね。僕も似たようなものですよ。音楽、やりたかったから、こうして体もだめにしてしまいました。だから、似たようなものだと思います。」

そういう水穂さんに、どうしてこんな高名な演奏家がこういうセリフを言うのか、美紀子はよくわからなかった。私達のような世界とは、縁なんて何もない人だと思っていたのが、こんなことを言うなんて。美紀子は、意味不明と思われた。

「まあ、こいつも似たようなことはやっているんだよな、音楽ってやっぱり高名な身分の人がやる学問だね。違うやつがやろうとしちまうと、結果として体を壊したり、精神を壊したりする。まあ、音楽で現実から逃げようとしたやつが一番良くない。それは誰でもそうだ。」

と、杉ちゃんが言った。そう言われて美紀子はなるほどと思った。でも、それは同時に自分の好きなものを否定してしまうようで、ちょっとつらいセリフでもあった。

「そうか、音楽は高尚な人でなければできない学問なのね。それを、娘に教えてあげればよかったのかな?」

と、美紀子は小さな声でつぶやく。

「まあそういうこったな。楽しんでやれるんならいいけどさ。それができなくなるまで極めちゃうというのは、やっぱり、身分が高くなければできない技だわな。それは、誰でも同じだと思う。この水穂さんだって、そういうところがあったから体を壊したんだし。それはねえ、なんか一般的な原理というか、そういうふうになっている気がする。」

杉ちゃんに言われて美紀子は、次にしてやれること、翔子にしてやることがわかったような気がしてきた。翔子は自分では自分におきたことを処理できない。だから、彼女には、美紀子の援助を受けながら、それを乗り越えることにもう一回トライして見るほかない。そしてそれは、他の人ではなく、美紀子と翔子が一緒にやることが重要なのだ。

「まあねえ。人間、変なところに落ち込んじゃってもね。必ずなにか教訓というものは得られると思うんだ。それは、誰でも同じだよ。僕も、お前さんも、水穂さんも。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「あの、先生も、私達に話せないような事情を抱えていたのですか?私はとてもそんなふうには見えませんでしたけど。」

思わず、美紀子はそういうことを言ってしまったが、水穂さんが、口に紙を当てて咳をしたので、それは、言わないほうがいいのかなと思った。口に当てたその紙が少し赤く染まったので、美紀子は水穂さんの持っているものについて、ちょっとなにかわかったような気がする。それは確かにとても恥ずかしいことかもしれない。でも、それも事実だと思うから、口にすることはできなかった。この人は、もしかしたらテレビで話題になっている、ロヒンギャとかそういう人たちと同じようなことがあったのではないか。それを、美紀子は直感的に感じ取ったのである。

「まあみんな、なんかおっきな問題抱えて、それでも音楽やるんだよな。それは、なんでだろうね。」

杉ちゃんが、大きな声でそう言う。美紀子は、それはよくわからなかったけれど、とりあえずさあ何でしょうねと言っておいた。






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音は続くよ、どこまでも 増田朋美 @masubuchi4996

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