第十話 五つ目

 佐藤兄弟は水不足のために行われる飲料水の配給に赴き、たっぷり入ったポリタンクを代わる代わる持ち、地獄の坂道を登っていった。


 明徳は早速運んだばかりの水を二杯コップに入れて飲み干した。三杯目を注ぎ、和真の一杯目と合わせて持ってテーブルに置いた。


「ああ、サンキュー」


 和真は二人でする恒例のゲームのためにポテトチップスを二つ用意して、一つを明徳に手渡した。


 ゲームの起動ボタンを押そうとしたその時、玄関で壊れかけたチャイムが鳴った。


 ぴぴっぶぶぶっぴんぽーん。


 二人は顔を見合わせ、構わず起動ボタンを押した。


 ぴぴんぽーん。


 二人は居留守をすることに決め込んでいた。


 ぴぴ、ぴんぽーん。


 二人は画面の中でハンターとなり、恐竜を倒していた。


「よし! 勝ったぞ!」


 二人はハイタッチをして子供のように喜んだ。


 ぴんぽーん、ぽーん。


 明徳は観念して玄関の鍵を開けてドアを開けた。ついでに相手が弱そうなら文句の一つでもと思っていた。


「はいはい。ったくもう、しつこいな。誰ですか?」


 明徳はその姿を見て心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。ついで同じぐらいの痛みも。


 玄関の外にいたのは、自分を騙し、筋肉ダルマに襲わせ、貯金をすべて奪った張本人だった。


「リカ……さん?」


 明徳は間の抜けた声を出した。リカは無言で明徳を押し倒した。廊下に背中を打ち付けた明徳はうっと声を洩らす。リカは明徳に馬乗りになったまま、白いワンピースから伸びる白い腕を振り上げ、そのまま拳を明徳の顔面目掛けて振り下ろした。ガツンと大きな音が響く。


 和真は慌てふためき、部屋から木のバットを持ち出してリカの後頭部を殴りつけた。鈍い感触がバットから腕に伝わる。リカは地面に転がった。


「い、いい加減にしろっ! この売女! 家から出ていけよ!」


 明徳はよろけながら外の様子を見に行った。前回の失敗も踏まえ、また筋肉ダルマがいないかどうかを。確認を終えた明徳はドアを勢いよく閉めて鍵を掛けた。


 リカは破れた白いワンピースもお構い無しに明徳に飛びついた。玄関のドアとリカに挟まれ、うっと呻く。


 リカは明徳の腕に狼のように噛みつき、頭を振り乱して肉を食いちぎった。


 和真はリカの腹を蹴り飛ばした。女特有の柔らかい感触がスネに残り、言い表せない不快感を覚える。リカは台所の方に盛大に転がっていった。


 明徳の腕はピンク色に欠けていて、肉の間から血がドクドクと流れ始めた。


「うぁっ! うわぁぁぁぁ!」


 明徳が絶叫して腕を押さえてうずくまる。


 和真は床に散らばった血で滑りながらも風呂場からタオルを引っ掴んで戻ってきた。明徳の腕に押し当てた。明徳はそれを受け取り、歯型の残る腕を押さえた。


 リカは獣のように唸り声を上げた。台所の暗がりから現れたそいつは、コモドドラゴンのように四つん這いのまま、ヤスリで削ったかのように尖った歯を合わせてカチカチと鳴らしている。明徳の食いちぎられた血肉が艶めかしく滴り落ちる。


 和真はその異様な光景に圧倒されて立ち上がった。


「うわっ! うわわぁ! ななっなんなんだよコイツ」


 明徳はバットを拾い上げ、柱に寄りかかりながら立ち上がった。痛みに脂汗が吹き出す。バットで威嚇するように突き出したまま、刺激しないように小声で和真に呼びかけた。


「ゆっくり……ゆっくりこっちに来い。目はそいつから逸らすなよ」


 和真は頷いて、明徳のいる方、明徳の部屋の方へと忍び足で寄っていった。


 リカの目は、蛇の縦に裂けたような目玉になり、ギョロギョロとこちらをうかがっている。口は大きく裂けて、蛇のような長い舌をチロチロと出し、猛犬のように喉を鳴らしている。


 和真が部屋に入ると、明徳は勢いよくドアを閉めて鍵をかけた。その瞬間ドアが内側に膨らんだような気がする。


 リカがドスンドスンとドアに体当たりをしているのか、ミシミシとドアの悲鳴が鳴り響く。明徳はドアを背中で押さえ、和真がタンスをドアの前に押しやった。そのタンスをさらに二人がかりで背中で押しやりながら座り込む。


「兄ちゃん! なんなんだよアレ! あんなのと付き合ってたのかよ! 信じらんねぇ! どうにかしろよ!」


「知らねえよあんなの! 少なくとも俺が見た時は普通の女だったんだよ!」


「化け物! 完全に化け物だ! どうすんだよ!」


 和真は青ざめた顔で鼻息も荒く言った。続いて明徳の腕に巻いた真っ赤に染まったタオルを見て言った。


「その腕もどうすんだよ!」


 明徳はタンスからガムテープを取り出して赤に染まったタオルに巻き付けた。


 しつこくドアに体当たりを繰り返しているのか、ミシミシと響く音は次第にメキメキと違った悲鳴をあげる。


「お前スマホは? 救急車と警察を呼んでくれよ」


「えぇっ? あっ!」


 ポケットをまさぐっていた和真は絶望を顔に浮かべて言った。


「落とした」


「なにっ!? 何やってんだよ! バカヤロウ! 俺が死んじまってもいいのかよ!」


「兄ちゃんこそスマホはどうしたんだよ」


 明徳はポケットをまさぐって、一時停止して和真の顔を見た。


「落としたのか?」


 明徳は頷く。


 和真は足元に落ちている兄の服を蹴飛ばした。もちろんコンビニの制服。


 いったい何着あるんだ。と和真は頭を抱えた。


「こんだけ騒いだんだ。隣人が通報してくれるさ」


 和真はあからさまに胡散臭そうな顔をした。


「それ……本気で言ってるのか? 隣人って、あのボケて耳の遠い大家のジジイだけじゃないか」


 明徳はそれもそうだと言いたげに肩を竦めて見せる。


 和真はベランダから外を見る。真下は崖の切れっ端が見え、その更に下では雑木林が風に揺られているのが見える。本当にいい景色だ。他に住人もいない。大家はボケていて、家賃は払ったと言えばそうだったか? と首を傾げて煙に撒けるほどいい場所なのにだ。表の長い坂道とこの裏の崖さえなければ。

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