第十一話 いつかその時
和真はテレビ台の上にある時計を見た。八月十三日、夜の十二時前だ。ベランダから見える景色はやたら静かで、崖の側面を撫でる風の音だけが聞こえる。……あとは、廊下でドアを爪でガリガリと引っ掻く音と獣のようにドタドタと四つん這いで這いずり回る音だけ。
「なあ、これが五番目か?」
青い顔の明徳が言い、和真は喉仏をカリカリと掻いて言った。
「……それは人の姿をしている」
引っ掻かれているかわいそうなドアの外を指さして言った。続いて明徳の真っ赤に染まって、吸いきれなくなった血が滴っているタオルを指さして言った。
「それは人を食べる……」
和真は立ち上がり、バットを手に取った。
「殺ろう、兄ちゃん」
疲れた顔の明徳は弱々しい声で言った。
「あっ? 何言ってる」
「あいつを殺して、大家のジジイの二輪猫車に兄ちゃん乗せて坂を下る。そのまま病院まで運ぶ。もうそれしかないよ。殺したら死体があるから家に救急車は呼べないし。……それにさ、兄ちゃん、もう寒いんだろう?」
明徳は出血が多すぎて青ざめてきていた。小刻みに震えている。
「寒いよ」
明徳の呼吸が荒くなっている。
「それにさ、殺したってまた黒い霧になって死体は消えるかも。警察にも捕まらないさ。警察もあんな異常な歯と舌のイカれた女が不法侵入してきて兄ちゃん齧ったって言っても通ると思うね」
明徳は答える代わりにクローゼットの中を漁った。やがてお目当てのものを探し当てた。その手にはサバイバルナイフが握られている。
和真はバットを握りしめ、腰をタンスの横に当てがい、壁際に押しやった。いつの間にかドアの向こうはやたらと静かで、物音一つしない。
明徳はサバイバルナイフの鞘を抜き、柄を握ったまま、小指だけをドアノブに引っ掛けている。和真はその兄に頷いて見せた。
明徳は鍵を開けて、ドアノブを下に向かって少し力を加えるとドアは静かに隙間を広げていった。その隙間から和真は顔を覗かせて外を伺った。廊下の奥、トイレの方にもいない。玄関の前にもいない。居間の奥、台所の方か? と、和真はドアを押して足を台所の方に向けた。その後ろに明徳も蒼白な顔で続く。
今度はこっちが襲ってやるんだ。と和真はバットを視線の先に出している。ドクドクとこめかみが波打つ音すら聞こえてきそうなぐらい静かだ。
ギシギシと廊下が軋む音を響かせる。このオンボロ廊下め! 頼むからもっと静かに歩かせてくれ。
二人は居間に足を踏み入れた。正面にテーブル。右奥に冷蔵庫と台所。左奥にテレビ台とテレビ。和真は台所の奥の方を指さす。化け物女が隠れられるとしたらここしかない。と和真は当たりをつける。
和真は指を三本立てて、一本ずつ折り曲げていく。最後の一本を曲げながら和真はバットを振り上げて飛び出した。明徳もナイフを突き出すように構えて動く。
……いない。
どこに行ったんだ? 二人が、もしかしたら黒い霧になって消えてしまったのかもしれないと話していると。ふと、気配を感じた明徳は上を見上げた。大きく目を見開き口をあんぐりと開けた。その様子を見ていた和真は、恐る恐る天井を見た。
リカはヤモリのように天井に張り付き、耳まで裂けた口からは尖った歯、やたらと長く、真ん中で裂けた舌。目は爬虫類のように黄色く、黒目は縦長になっていた。髪は元の女のままだ。ロングのストレートのまま艶があって、それがまた化け物の異様さを引き立てていた。
あまりの光景に和真はたたらを踏んで尻もちをついた。
後ずさった明徳は柱に怪我した腕をぶつけ、痛みでナイフを落としてしまう。
リカは天井から手足を離して降りてきた。そのまま舌をロープのように伸ばして素早く和真のふくらはぎを巻きとった。続けて足首を手が掴む。
「うわぁあああ!」
和真は残る足でリカの顔面を蹴りつけた。三発目で女の手は離れたが、長い舌がまだふくらはぎに巻きついたまま離れない。和真はバットに手を伸ばすが、僅かに届かない。指先に触れたバットは裏切るようにあらぬ方向へ転がっていってしまう。
リカは和真がバタバタと暴れさせているもう一方の足を掴み引き寄せた。リカは裂けた口を大きく開けて和真の腹に食らいついた。和真は圧迫された悲鳴をあげた。
明徳は震える手でナイフを拾い上げてリカの背中に突き立てる。振り上げてまた突き刺した。
「この! この! この! 腐れ女が! よくも騙しやがって! 死にやがれ!」
バタバタと長い手足を動かし暴れていたリカは、やがて動かなくなってきた。今ではビクビクと痙攣しているだけになった。
二人は弱り果てていく姿を眺めていた。動きを止めたリカは、やがて黒い霧になって溶けていった。
和真はシャツをめくり腹の様子を確かめた。腹には等間隔に穴が空いてそれが円形になっていた。腹を食いちぎられるかと思っていた和真は安堵した。膝を押さえて立ち上がり、兄に手を差し伸べた。
「さあ、捕まれよ兄ちゃん」
明徳は弟の手を掴んだ。和真は兄の腕を肩に乗せて、腰のベルトを掴んで無理やり立たせた。
「痛いっ! 痛いって!」
「我慢しろよ」
「詐欺女に腕の肉を食われたんだぞ? 信じられるか?」
「知ってるよ。見てたんだからさ。なあ、兄ちゃん。これって病院でなんて説明する?」
「頭のおかしいヤリマン女に食われたでいいんじゃないか?」
「でも、消えちゃったぞ? その女、これじゃ警察にも言えない」
「ふん、それじゃお前が俺の肉食ったことにしろよ」
「うげげっ、やなこった」
「……とにかく病院に連れてってくれよ。冗談じゃなく本当に死にそうだ」
「分かったよ。僕も行かないと死にそうだ。財布取ってくるから」
和真はそう言って玄関の柱に兄を寄りかからせて座らせ、部屋の財布を取りに向かった。
明徳はちょっとした好奇心から押さえているタオルを少しだけズラし、傷口を見ようとした。まるでバカでかい瘡蓋のようにベリベリと音を立てた。激痛に身をよじらせて激しく後悔した。
和真がバックパックを背負い、財布を手に戻ってくると、玄関から間の抜けた音程のチャイムが鳴り響いた。
ぴぴっぽーんん。
「おいおい、うそだろ?」
明徳は心底うんざりと、引きつった顔でチャイムの主を想像する。
「次はなんだ?」
和真は掠れた声でどもりながら言った。
「な、番目。ううっんん。七番目だ」
和真は言い直しながら続けた。
「その姿を見てはいけない」
ぴぴぴぴんぽん。
和真が兄の方を見ると、明徳は顎をしゃくって見せた。和真はあからさまに嫌そうにサンダルを履き、玄関のドアの覗き穴を覗いた。
「 そ、そんな……」
和真は自分が見ているものが信じられなかった。
「なんだ? なんだったんだ?」
和真には兄の声が聞こえていない。和真の思考は忌むべき過去へと向いている。
「おいっ! なんだよ!」
明徳は不安に駆られイライラしていた。
和真は震える手をドアノブに手をかけて玄関ドアを開けた。
「やめろ! だめだ! 開けるな!」
そこにいたのは佐藤兄弟の母親だった。
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