第八話 美女とポンコツ 二

 和真は運動不足解消のために、子犬を連れてウォーキングに出かけた。黒い毛並みに覆われた毛むくじゃら。電柱を見つける度に小便を引っ掛けていた。そんな中、見覚えのある女を見かけた。


 短パンと、丈が短くて背中が開いているシャツを着た女は、町中を男と腕を組んで歩いていた。男は体格がよくて、Tシャツの上からでも分かるぐらい筋肉質だ。どう見ても深い関係に見える。


 あれは、兄に言いよっていた女じゃなかったか? なんなんだ? あの女、男がいるのか? 疑いを持った和真は淡い期待を持ち、遠巻きに後をつけた。


 子犬がいると、不思議と周囲に溶け込めた。筋肉男と疑惑の女はラブホテルのある方向へと歩いていった。


 和真はこれ以上の追跡は無理だと判断して家に帰って行った。




 今日の夕飯は生姜焼きだった。香ばしいなんとも言えない生姜の匂いを嗅いで和真は肉をかきこんだ。終盤になると、肉を掴む箸を休めて言った。


「なあ、兄ちゃん」


「ん? なんだ?」


 和真は少し戸惑い気味に言った。兄弟で恋愛の話しなんてしたことがなかった。今までどちらもそんな話題は避けていたのかもしれない。


「あの女、コンビニに来た女の人なんだけどさ、兄ちゃん……狙ってるのか?」


「狙ってる? 馬鹿言え、もう付き合ってるんだよ。結婚を前提に」


 和真は衝撃を受けた。結婚? 嘘だろ? このポンコツが? 和真は一瞬口に出して言いそうになったが喉を鳴らして飲み込んだ。平静を装いながら言った。


「ふーん、婚約かぁ。俺もいい人見つけなきゃな」


「お前にもいい人が見つかるさ」


 そう言って食器を持って立った兄は台所に向かっていった。


 兄が結婚したら、マンションでも借りて引っ越しの準備もしなきゃな。待てよ? この期にもっと町中に引っ越してもいいかもな。貯金は足りるだろうか? もっと実入りのいい仕事も探さないと。……これからの人生設計に想いを馳せていた和真はふと我に返る。


 その前にだ。あの女、男がいなかったか? ゴリラ男が。和真は疑問を宙に浮かせ、頭を傾けて消した。


 次の日、兄はデートがあるからと、日曜の恐竜狩りゲームをやめ、おめかしをして出かけて行った。和真はその日は、一人でハンターになりきり、狩りに出かけて行った。惨敗だった。


 夜中、和真は布団の上に座ってテレビドラマを見ていると、玄関のドアに何か重いものが当たる音がした気がした。和真はテレビを消して耳をすませた。何も聞こえない。気のせいかと思った矢先に、もう一度ドスンと聞こえた。


 子犬が吠え、玄関と土間の隙間を懸命に爪で引っ掻いていた。和真は足で子犬を押しのけて玄関のドアを開けた。


 そこにいたのは明徳だった。顔の左側が腫れ上がり、一張羅のスーツもボロボロになっていた。最初、誰か分からないほどだった。


「おいっ! どうしたんだよ?」


 和真はぐったりとしている兄を揺すってみたが反応がない。フーフーと荒い息はしているから死んではいないが、答えられる様子ではないようだった。気を失っている様子の兄の腕を背負うように持ち上げ、自分の首に回してなんとか兄の布団まで連れていった。冷やしたタオルをおでこに垂らしてやり、しばらく兄の顔を眺めていた。




 物音に気づき、和真は自分の部屋で目を覚ました。部屋から出ると、明徳は台所で朝食にパンを焼いていた。こんがり焼けたパンを皿に乗せて、心配そうに見つめる和真に気づきながらも無言で部屋に戻って行った。今日は休むとテーブルに書き置きを残して。


 和真は兄の分も働かなくてはならなくなり、ほとんどのシフトに自分の名前を入れた。ヘトヘトになって帰ると、玄関を開けたそばからいい匂いが漂ってきていた。下駄箱の上には子犬の首輪が置いてあり、子犬自体の姿はどこにも見当たらなかった。


 和真は顔を顰めながらも居間のテーブルに座った。明徳は和真とは目も合わさず、煮えている鍋をテーブルに置いて座った。そして淡々と語った。


 あの日――あの女に貯金を全て取られたと冒頭で語った。二人でホテルに入ると、事を始めようとしている部屋に筋肉の塊みたいな男が乗り込んできて、暴力を振るわれ、クレジットカードを取られ、暗証番号を吐かされたと言った。あの女は、筋肉男とグルだったんだと言った。


 和真は黙って聞いていた。薄々勘づいていた通りの結果になってしまったんだと思っていた。


 その話しはまだ続いていた。明徳が店長を務めるコンビニの運営資金まで取られたと言ったのだ。


 和真はここでようやく驚いた。


「えぇっ? じゃあ……じゃあ、どうするんだ? 警察に行くのか?」


「……もし、警察に行ったら無理矢理ホテルに連れ込まれてレイプされたって言うつもりなんだってよ」


 明徳は頭を抱えて髪の毛をグシャグシャと掻きむしった。


「最悪だ。もうどうしようも無い」


 和真は肩を落とし、完全に言葉を失っていた。


 二人に囲まれるようにすき焼きの鍋はグツグツと音を立て続けていた。湯気に紛れ、鍋から黒い霧がフワフワと漂い、換気扇に吸い込まれるように霧散していった。

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