二 2-⑥


「《吾輩は猫である》のしや先生が作中で月に八缶めてました」


「くしゃみ?」変な名前だ。

「彼は漱石自身がモデルなんです。そしてあの話は実話ベースですから、おそらくは漱石もそうだったのだと。だから、前に置いたらこうなるのはしょうがないと思います」


 寒月は甘いのがだめなのか、悪心をこらえるような顔をしていた。亜紀も同じくだ。甘いものは好きだが、さすがにこの量は一度に食べようと思わない──というより、これではパンが添え物ではないか。


「パンが足りぬぞ。ほら、砂糖をまぶすのも良いぞ。イギリスパンに砂糖をまぶして食うのも流行はやっておってにゃ」


 漱石はひようひようと訴える。反省の色は全くない。これは文句を言っても無駄な気がした。なんとなく世話になることに慣れている。猫だからなのか、それとも元々がそうなのかはわからないが。

 諦めの境地で亜紀は追加のパンを焼き始める。アドバイス通り砂糖も持ってくる。

 と、道を通っていた親子が「あ、猫ちゃん!」と足を止める。

 母親と四、五歳くらいの男児の二人連れで、母親の目は「うわあ、おひげが立派ねえ」と漱石に向けられている。だが、男児の興味はあっという間にパンに向けられていた。


「ママ、ぼくお腹すいた!」

「えっ──あ」


 母親の顔には失敗した! と書いてある。

「ママ、お腹すいた! パンが食べたい!」


 母親が「すみません!」と男児の手を引いて立ち去ろうとする。だが男児は「お腹すいたぁ!」と泣き始める。こうなっては収まるわけがない。


「あの、おひとついかがですか?」


 思わず亜紀は声をかけた。そもそもこんな場所で食べて人目を引くのが悪いのだ。

「あ……すみません、ほんとうにくいしんぼうで」

 消え入りそうな声で母親が謝る。だが、「よく食べるのはいいことだにゃ。大きくにゃるからにゃ!」漱石が言って亜紀はひっと息をんだ。


(ちょっとおおおお、猫先生! やめて!)


 だが親子は寒月を見ていた。母親の顔は明らかに引きつっている。

「このお兄ちゃん、にゃって言った! 猫ちゃんのまね?」

 空気を読まない子どもが楽しげに歓声をあげ、亜紀はうっかり噴き出しそうになる。


(そ、そうか。普通はそう考えるよね。こ、これはもしや確信犯!)


 隠れみのにできる寒月のいるときだけ、しゃべるようにしているのかもしれない。賢い。

 だが寒月は「そうだにゃ」とにっこりと笑って答える。破壊力のあるイケメンの笑顔を真正面から浴びた母親がぽかん、とする。何かが焼き切れたように見えて不安になったが、漱石を怒鳴らなかったのはすごいと素直に感心した。


(……寒月さん、大人だ)


 だが漱石を見た寒月の目は全く笑っておらずひやひやする。

 亜紀は、話をらそうと小皿に載せたパンを親子に渡した。


「や、焼けましたよ。どうぞ! 熱いからふうふうしてね」

 子どもが目を輝かせる。そしてパクリとかぶりついて丸い目をさらに丸くした。


「おいしいいいい!」


 大きな声が上がり、通行人が足を止める。

「あっ、あたしも欲しい~!」

 小さな女の子が駆け寄ってくるのを見て、亜紀は慌てた。さらに「なに?」と様子をうかがおうと人が集まってくる。


「うわあ、猫ちゃん! お髭がある!」

「かわいい~」

「なにをやってるの? パンの試食?」


 人垣ができ始めるのを感じ、ひるんだ時だった。


「チャンスだぞう、亜紀」


 漱石がささやいて、ハッとする。漱石が前足を上げる。その先には店の看板『カフェ すぷりんぐ』があった。

(あ!)

 亜紀は今、ものすごい宣伝の機会に恵まれていた。


「寒月さん、ちょっとお願いします! パン、全部切ってきます!」


 亜紀は店に飛び込むと、置いてあった無裁断のパン一斤を全て一口サイズに切る。そしてありったけのジャムを持って外に出た。

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