二 3



 ちょうど昼時だったのもあり、試食は大盛況だった。

 中には店で昼食を食べたいという人もいて──準備ができていなくて断ったが──宣伝効果は抜群だった。

 特に「髭の猫」の漱石は瞬く間にアイドル化したし、何人かには写真を撮っていいか尋ねられた。確かにものすごくSNS映えするだろうし宣伝になるだろうけれど……。


(猫先生、大丈夫ですか?)


 確認の視線を送ると、漱石はまんざらでもないという様子でうなずく。そして大人しく写真に撮られていた。

 さらには、急に大量の親子連れが現れた。母親たちの寒月にむける熱視線から推測するに、おそらくその存在が母親ネットワークで光の速さで広がったのだろう。一目見てみたいという気持ちは、亜紀も女子なのですごくわかる。

 三袋あったパンが勢いよく減り、残り一袋になった頃。

 現れた見覚えのある人影に亜紀は驚く。先ほど来店した神田だった。

 神田はパンに目もくれずに訴えた。


「ちょっとだけ店の中に入れてくれないか?」

「え、もう今日は閉店しているので……」

「食事はいいんだ。とにかく落ち着ける場所が欲しいだけなんで。……頼む」


 そしてそわそわと後ろを振り返る。切羽詰まった様子に押し切られ、亜紀は店内に神田を案内した。

 ソファ席で一息ついた神田に水を出して表に戻る。まだパンは残っている。全部配ってしまおうと思ったのだ。

 時刻は午後三時を過ぎていた。人もまばらになり、あと一斤ほどで終わりだというころ、小学生くらいの女の子が一人でやってきた。


「あの」

「パン、もうちょっとしたら焼けるから、ちょっと待ってね」


 亜紀が言うと、女の子は首を横に振った。


「おじいちゃん、来てませんか?」

「え?」

「おじいちゃん、お母さんとけんして家出しちゃったらしくて、今手分けして捜してるんですけど」


 亜紀は目を丸くし、そして店の方を見た。もしや、そのおじいちゃんというのは。


「神田さんのことですか?」

「いるんですか?」


 女の子は顔を輝かせ、店に飛び込む。そして神田を見つけるなり怒鳴った。


「こらああ! おじいちゃん!」

「な、ななみ!?」

「好き嫌い怒られて家出するって、びっくりだよ!」


 亜紀は目を丸くした。なんなのだその理由は。

 ため息が聞こえ、見ると入り口のすぐそばにいた寒月が呆れたような顔をしている。


「わ、わしは帰らんぞ! 野菜ばかりじゃ食べた気がせんからな!」

「なにそれ! お母さん一生懸命作ってるのに! 食べなかったら私が怒るよ! おじいちゃんちゃんと謝って!」


 亜紀は頭を抱える。それはだめだ。作る側からすると、いい大人が好き嫌いをして食べないなど、腹を立ててもしょうがない。というか孫、強い。感心してしまう。

 がらり、と引き戸が開いて中年の女性が現れた。


「お父さん、やっぱりここだったかー。あーもう、勝手に色々食べたらだめでしょ! 糖尿でちゃう。もっと体を大事にして!」


 心底安心した様子。どうやらななみちゃんの母親で、神田の娘のよう。神田に目元がよく似ていた。

 一転、神田は強気の態度になった。


「わしは帰らんぞ! 体なんてどうなったっていい。どうせ老い先短いんだ、好きなものが食べたいって言っとるだろうが!」

「ほんともう、いい歳してわがまま言わないで。お医者さんのいう通りに管理しないと」


 娘さんの肩を持ちたくなってしまうが、人の家のことに外野が口出しするべきではない気もした。

 神田は不機嫌そうに黙りこくっていた。こうちやく状態に、娘さんのいらちが増していくのがわかる。


「とにかく帰ってきて。お店に迷惑かけちゃうでしょ!」


 とその時、店に入ってきた寒月が、すっと皿を差し出した。皿の上には砂糖をまぶした焼き立てのトースト。それを見た神田は「これは」と目を見開いた。


    *


 青空の下、七輪でこんがりとあぶり、砂糖をまぶしたパン。それは、たまにしか食べられなかった最高のごちそうだった。

 そのころの神田はまだ貧しい生活をしていて、砂糖もパンもぜいたく品。だが、神田の好物だと知った妻が、生活費を工面して用意してくれたのだ。目の前にあるのが、まさにそれに見えた。


「これは……どうして」


 神田は一口かじって息を呑んだ。


『あなた。今日だけですよ?』


 口の中に広がる甘さとともに、目の前で妻が笑った気がした。

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