二 1-③


(そ、そうだ。モーニングセット! え、ええっと、ど、どうしよう)


 急に客相手になってしまったが、心の準備はできていない。

 全身に緊張が走る。頭の中には今朝見た悪夢がよみがえった。ノートには、特にコツなどは書いていなかったと思うが、大丈夫だろうか。

 震えそうな手を𠮟しつしてトーストを始める。その間に、珈琲を淹れようとする。

 だが、どの道具をどう使うのかがいまいちよくわからない。家で飲むのはほとんどインスタントで、ドリップパックがせいぜいなのだった。


(うーん……っと、あ、豆をくんだよね。そしてフィルターに入れる、はず)


 記憶を頼りにドリッパーにフィルターをセットする。そしてミルで挽いた粉を入れて、ざっと湯を注いだ。だがドリッパーの珈琲は予想よりのんびり落ち、思ったより時間がかかってしまった。

 サーバーに珈琲が落ちきるのを待って、トーストを取り出す。目玉焼きと一緒にトレイに載せて差し出した。


「おまたせ、しましたっ」


 これで大丈夫だろうか? ハラハラしながら見つめていると、

「ぶっ」

 神田が珈琲コーヒーを噴く。


「だ、大丈夫ですか!?」


 亜紀が慌てておしぼりをだすと、神田は「大丈夫じゃないよ! なんだこれは! まずい!!!!」と叫んだ。

「トーストは冷めてるし、味はついてないし、珈琲は苦くてえぐみがあって……しかも雑味がすごいぞ!?」

 神田はすごい剣幕で怒鳴り、亜紀は地面に埋まりたくなってくる。


「す、すみません! もう一回作り直しますっ!」

「いや、いい……だが、こんなものは、店に出したらダメだと思うぞ。亜紀ちゃん」


 神田は遠慮なく言い、亜紀は言葉を失った。

(あぁ、おばあちゃん、私、やっぱりだめかも)

 一気に放り出したくなった。下を向く。するといつのまにか足元にやってきていた漱石がにゃあ、と鳴いた。

 そして上を見ろとばかりに天井の方向を見つめる。視線を追うと、そこには亜紀の描いた絵があった。

(だめだ。こんなことであきらめちゃ)

 亜紀はぐっとお腹に力を入れると、神田に向かって深々と頭を下げた。


「すみませんでした。今日はお代は要りません」

「いや……こっちこそすまなかった。毎朝の楽しみだったもんだから、つい」

 神田は五百円、モーニングセットの代金をカウンターに置くと立ち上がった。


「明日また、仕切り直しさせてください」

 じっと目を見て訴える。どうか、もう一回チャンスを下さい。

「また来るよ」


 そう言うと神田は出ていく。だが背中がさみしげに見えて、本当だろうかと思う。

 祖母の大事な客を一人失ったかもしれない。そう考えるとひざが崩れ落ちそうになる。だけど、そう簡単に諦めるわけにはいかない。


(今日は、もうこれ以上の失敗は、しないから)


 亜紀は大きく息を吐くと、ノートをびりびりと破り取った。

 そしてマジックで『店主急病のため休業中』と書き、引き戸にぴしゃりと貼り付ける。

 そして引き戸を締めるとかぎをかけた。これで、今日はもうお客さんは入ってこられない。


「お店……やめるんですか」


 寒月が、心配そうな、そしてどこかホッとしたような顔で問いかけた。きっと、失敗を重ねる亜紀を見ていられなかったのだろう。


「まさか」


 少し笑ってしまう。確かに自棄やけになっているように見えるかもと思った。

 不可解そうな寒月だったが、説明する時間が惜しい。

 近くの椅子に腰掛けて、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。そして検索窓に素早く文字を打ち込んだ。


「にゃんだ、それは」


 漱石が、ひょいっと亜紀の椅子の上に飛び乗る。そして前足をテーブルに乗せるとスマホの画面をのぞき込んだ。金色の目の中で縦長の瞳孔がぐぐっと膨らみ丸くなる。


「写真か? にゃんだ? しゃべっておる、動いておるぞ!?」

 突如現れた文明の機器に、出会って一番の大興奮だ。

「ちょっと、わぁ! 触らないでくださいー!」

 メモを取っている間に動画のポーズボタンを押されてしまう。だが言ってもきかないくらいの興奮状態だ。


「……何してるん、です?」


 後ろから覗き込んだ寒月が驚いたように問いかけた。

 亜紀は「珈琲のれ方を調べてたんです」と寒月を見上げて微笑む。

 そして自分にも言い聞かせるように宣言した。


「私、簡単に諦めるわけにいかないんです。おばあちゃんに、ここを守ってくれって言われたんで」


 寒月はわずかに目を見開く。そしてどこか懐かしそうに目を細めた。


「おばあちゃん、ですか」

 

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