二 1-②


 身支度をして店に戻ると、カウンターには無裁断の食パンが三本置いてあった。袋を見ると祖母がひいにしている、地元で有名なパン屋さんだった。

「これは?」と寒月に問う。


「今、パン屋さんが届けに来ました」


 亜紀ははっとして営業日誌をめくった。そこには書いてある。パンは毎朝配達と。

「あぁ……祖母のこと、取引先にはまだ伝えてなかったので」

 そのまま日誌の文字を追う。


「パンは毎日届けてもらってて、野菜や肉は二日に一度、なかぎんに買いに行ってたのかぁ……」


 ホッとする。次々に材料が届いたらどうしようかと思った。

 冷蔵庫を覗いた亜紀は、中身を確認してはノートにメモを取っていく。すると漱石が声を上げた。


「亜紀くん! 腹が減った!」


 そうだった、と亜紀はひとまず日誌を置いた。焦りのせいで空腹感がなくなっていた。

 少し考えて、亜紀は漱石の前にかがみ込む。


「モーニングセットを作ってみたいんですけど……それでいいですか?」


 漱石が「にゃんでもよいよ」と言うと、亜紀は次に寒月を見た。

「おれは要りませんよ。朝は食べないので」


 遠慮だろうか、寒月は断った。朝は食べたほうがいいのではと思うものの、無理強いするほど親しいわけでもない。

 悩んだ末、ひとまずカウンターの向こうに回り準備を始める。

 パンを裁断してトースターに入れ、フライパンを熱してベーコンと卵を焼き始めたとき、


「ハルさん、閉店中の札、出っぱなしだよ!」


 ガラリと引き戸が開き、一人の老人が顔を見せた。祖母と同じくらいの歳だろうか。額に深いしわが刻まれている、気難しそうな男性に亜紀は青くなる。


(え、お客さん!?)


 まさか閉店中の札を無視して入ってくるとは思わなかった。なんのための札だ。


「あれ……ハルさんは?」

 男が目を丸くする。

「あ、あの、お客さんですか? え、えっと祖母は昨日入院してしまって……」

「ええええ!? えっ、入院ってなんで」


 亜紀が事情を説明し、命に別状がないことを話すと、男は心底ホッとした様子だった。


「え、で、あんたは? 祖母ってことは……」

「孫の亜紀です」

 言い訳をするように亜紀が言うと、男は目を丸くした。


「あぁ……あああ、亜紀ちゃんかい! かんのおじさんだよ!」

「えっ」

 全く覚えていない。


「昔よく来てただろう。おじさんにおひやを出してくれてたよ」

「すみません、覚えてないです……」

「ま、小学生くらいだったからなあ」


 しどろもどろになる亜紀だったが、神田は気にしていない様子で豪快に笑い、カウンターの中を覗き込んできた。


「おっ、なんだかうまそうなもの作ってるじゃないか。モーニングセットだな。わしにもいつものを一つくれないか。ばあさんが先に逝っちまったもんだから、食事がおつくうでねえ。だがここのトーストを食べると不思議と元気が出るんだよ」


 ペラペラと喋りながら神田がソファ席の寒月をちらりと見やる。

 そして目を丸くすると叫んだ。


「おい、なんだい! 猫じゃないか!」


 神田が手を伸ばすと漱石はソファの下へと逃げ込んだ。金色の目の中で、どうこうが大きく膨らむ。様子をうかがっているように見える。


「昨日店に来たときから居たんです」

「こりゃあ、二代目の看板猫かい? その髭、味があっていいじゃないか」


 笑って濁しながら、漱石の前にそっとトーストセットを置く。だが、漱石は神田をじっと見つめたまま、「にゃんだか……臭うにゃあ」と呟いた。

 肝を冷やした亜紀は、人差し指を口の前に立てて訴える。


(に、臭う!? 失礼なこと言わないでください! お願いですから、黙ってください!)


 漱石は意図をんだのか、黙々と食事に徹し始める。

 神田をちらりと見ると、どうやら聞こえていなかったのか、それか猫が発したとは思わなかったのか、寒月を不思議そうに見つめていて、亜紀はホッとする。


「あんた、どこかで会ったことがないかね?」


 神田はわずかに首を傾げたあと、寒月に問いかけた。

「いえ?」と寒月が首を傾げると、神田は小さく首を横に振って「気のせいか」と呟き、カウンター席に腰かけた。


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