二 2-①




「な、何クリックしました今!?」


 直後、亜紀は悲鳴を上げた。ちょっと寒月に気を取られていた間に、漱石が「これは、すごいにゃ! どういう仕組みだ!?」と言いながらスマホの画面を肉球でタップしていた。

 サプリメントの広告が表示されていて焦る。一度開くと次からその系統の広告ばかり表示されてしまうようになるのだ。健康食品のCMばかり表示されるのは御免被りたい。


「にゃ! にゃ! にゃ! にゃ! にゃああ!」


 視聴中だった動画はあっさりと閉じられている。勝手にネットサーフィンを始めていた。

 このままさらに怪しい広告をクリックされてはたまらない!


「やめてくださいー!! まだ、途中だったんですよ!?」


 だが漱石はスマートフォンにかじりつくような様子で、ガシッと爪で固定して離そうとしない。無理やり取り上げようとすればテーブルに傷が付きそうだ。

(どうにかしてください!)

 助けを求めて亜紀は寒月を見る。すると寒月は申し訳なさそうな顔になった。


「……すみません、おれが預けたばっかりに。なんだったら、しつけ教室とか紹介します」

「い、いえ、そういうことではなく」


 謝られて恐縮する。好きで拾ったわけではなさそうだし、預かると決めたのは亜紀だ。責めているわけではないのだ。


「しつけだと!? 失敬にゃ!」


 漱石が文句を言う。見ると、まだスマホをたたくのに夢中だった。初めてのおもちゃに夢中になっているようにしか見えない。


(これはしばらくは放してもらえなそう……しょうがない)


 諦めて亜紀はちゆうぼうへと向かった。自分なりに練習してみようと思ったのだ。

 だが、亜紀が腕まくりをして豆を量りはじめたとたん、寒月が小さく息をついた。

 彼は立ち上がり、ジャケットを脱ぎ、「キッチンをお借りしますね」と厨房へと入ってくる。

 長身の彼がいると、狭い厨房が余計に狭くなったような圧迫感がある。わずかなコロンの香り。さわやかで清潔感があり、さらに好感度を上げるような。

「あ、あの……?」と戸惑う亜紀に寒月は微笑んだ。口元を緩めじりをわずかに下げたかんぺきな笑顔に、亜紀は思わず息をんだ。

(こ、この人、笑顔が凶器じゃない……!?)

 見ているといつの間にか息を止めてしまう。そして呼吸困難に陥るのだ。


「素人の趣味程度ですが、基本はお教えできると思います」

「え」

「道具は……揃ってますね」


 寒月はつぶやきながらサーバーとドリッパーを洗う。そしてケトルを火にかけた。


「だけど高性能なミルも、えんすい形のドリッパーも、ドリップポットも上手に使わないと」


 寒月は豆の缶を手に取った。ラベルはどうやら近所の珈琲店のもののようだ。この店用のブレンドを週に一度買っていることはノートに書いてあった。


「まず豆ですけど、常温だと酸化するので一日分ずつ出して使います。だから多分冷凍庫に保存したものがあると思うんですけど」


 そう言われて冷凍庫を開けると確かに豆が保存されていた。知らなかった。

 取り出した豆をはかりで量る。そしてミルに入れる。ダイヤルを調整する。


「多分細中挽きが一般受けすると思いますから」


 電源を入れると、ミルがうなる。その間、沸騰した湯をコンロから下ろし、サーバーとドリッパーを温める。ドリッパーにフィルターをセットする。作業が流れるようで、バリスタをしていると言われたらだまされそうだ。

 挽き終わった豆をドリッパーに入れて、表面が均等になるようにならす。


「ドリップしていきますけど……」

 寒月はそこで注ぎ口の細い小さなポットを出し、ケトルの湯を移す。


「え、それ、なんですか?」


 先程使わなかった道具の登場に、亜紀は目を見開く。亜紀はケトルの熱湯をそのままドリッパーに注いだのだ。


「ドリップポットですよ」

 寒月はひようひようと説明をした。

「ぐつぐつ沸いてる熱湯じゃダメです。苦くなりすぎます。逆にぬるすぎると酸味が強くなる。豆にもよりますが、九十度から九十五度くらいが適温です」


 寒月はぶら下がっていた温度計を湯に差した。九十二度。確認すると、注ぎ口から少量の湯を注ぐ。


「そして一気に入れずに蒸らす」


 先程の亜紀の作業にはそんな工程はなかった。蒸らしなどなしにドリッパーに湯が満たされるまで一気に注いだのだ。

 亜紀はだんだん恥ずかしくなってきた。

 これ、常識なのだろうか? だとしたらそれも知らずに、カフェをやろうとしていたのだろうか? と。


「あの……これって本当に趣味なんですか?」

「ハルさんの淹れ方を見てただけですよ」


 寒月は腕時計に目を落としたまま言った。集中している様子を見てなんとなく父を思い出した。そういえば亜紀の父も、好きなものにはとことんこだわるタイプだった。

 たとえば、なべものだけは父が極めていて、いつも担当となっている。性格もあるかもしれないけれど。


(意外に熱いタイプなのかな?)


 父と比べているのに気づいておかしくなった。

 熱い? 全く別のタイプなのに。

 笑いをみ締めると亜紀はメモを取る。

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