二 2-②


「四十秒」


 寒月は小さくつぶやくとドリップポットをかたむけた。銀糸のような湯がドリッパーに吸い込まれていく。ぽこぽこと小さな泡が生まれて粉が膨らんでいく。同時に良い香りが周囲に広がった。


(あ、これ絶対美味おいしいやつ……!)

 自分が淹れたときとは匂いがまるで違って驚いた。


「この泡はアクですから」

「アクって」

「料理でもすくうでしょう、あのアクですよ」

 そう言いながらも寒月の目はドリッパーから離れない。湯を落とす速度も均等だ。


「そろそろですね」


 そう言うと寒月はまだ珈琲コーヒーが落ちているのにサーバーからドリッパーをはずす。


「泡が入ると雑味が出ます」

「すごい……」


 何もかも知らないことばかりだった。感嘆のため息をつくと、寒月はわずかに笑った。


「どうぞ」


 カップを差し出されて、のどを鳴らす。色も違う。亜紀の珈琲と違って、この珈琲は色が濃い。豆の量もお湯の量もさほど変わらないというのに。

 砂糖もミルクも入れずに一口。


「ぜんぜん……違う」


 苦味がおだやかで、酸味もわずかにアクセントになっている。なにより鼻に広がる香りが全然違う。

 ショックだったけれど、落ちかけていた気分が一気に上向いた。この珈琲が淹れられれば、カフェとしては及第点だと思った。


「ありがとうございます、寒月さん。これ練習したら、ひとまずなんとかなりそうです!」

 お礼を言うと、寒月はどこか慌てたように目を伏せた。

「いや……大したことではありませんし……おれが猫を連れてきたせいなので」

「猫とはにゃんだ! にやがあるというのに、失礼にゃ!」


 漱石がにゃっと声を上げた。その目はまだスマートフォンのディスプレイにくぎけのままだ。

 大人しいと思ったら、ニュースを熟読しているようだ。すごい勢いで金色の目が左右に動いている。


「あの、じゃあ、どう呼べばいいですか?」


 この際と亜紀は尋ねた。漱石さんというのは、なんとなく据わりが悪い感じがしていた。

 相手は猫なのに呼びすてしづらいので『さん』付け。そして、実は特徴的な名前を呼ぶのもちょっと恥ずかしい。自分で付けるとしてもこの名前は付ける勇気がない。

 漱石はようやくスマートフォンから目を離した。しばらく遊んで、興奮が少し落ち着いたのかもしれない。


「漱石でよいではにゃいか」

「……まず、あなたが漱石だとは確定していませんからね」


 寒月も亜紀と同じように漱石呼びには抵抗があるらしい。彼は不満そうに口を挟むが口調がとげとげしい。

 漱石に対してだけ冷たいのは一体どうしてなのだろう。亜紀に対してはすこぶる穏やかで丁寧なので、余計に不思議だった。


(あれから、変な気がするけど)


 寒月が漱石の首根っこをつかんで店を出ていったことを思い出す。荒々しくてびっくりしたから印象に残っている。


「本人がそうだと言っているのに、頭がかたいものだにゃ」

「猫を漱石と呼ぶ身にもなってください。そんな名を付けたと思われるのは、不本意です」

「亜紀もそう思うか?」と漱石が亜紀を見る。

「えっ……と」


 あいまいに笑ってごまかしてしまう。その名を付ける勇気がないのは確かだったのだ。

 漱石は信じられない、とばかりに目を丸くした。


「にゃん……だと!? 確かに若気の至りで付けた筆名だが……人に恥ずかしいと言われるのは不愉快にゃ!」

「筆名が問題なわけではないんですよ。ただ、猫で漱石ですよ? 《わがはいねこである》の出来の悪いパロディみたいで。文学にかぶれてますって主張が趣味には合わないだけです」


 その考え方はなかった、と亜紀は驚く。

 面と向かって趣味が悪いと言われてしまった漱石は、目を細めてふてくされる。


(うーん)


 寒月の主張を聞いた後だと、さらに呼びにくくなってしまった。

(意識高い系とか思われるのはちょっとヤダなあ……)

 皆が皆そんなふうには思わないだろうけれど、もし陰で冷笑されていると思うと、つらい。折り合いをつけるにはどうすればいいか。そしてふと妙案を思いついた。


「あの……せ、『先生』っていうのはいかがでしょう!?」


 なつ漱石は小説家なのだ。そう呼ばれていたこともあるに違いない。





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