一 3-④


 誰なのですかとは言えなかった。なんなのですか、と問いたかった。

 猫はえへん、と偉そうに胸を張った。そして髭(の模様)を前足ででる。


「私は、にゃつめ漱石──」


 猫はいまいましげに頬を猫パンチした。

「ナツメソウセキ、だ! 気がついたら猫の姿に生まれ変わっていたのだ。そこの『寒月』くんによって、この世界に引き寄せられたのかもしれにゃい──ないと思っているがね」

 まさかのまさかだった。


「は? 夏目漱石?」


 とてもじゃないけれど、ついていけない。

(え、これの著者……え?)

 亜紀が《吾輩は猫である》を見て再び思考停止する前で、寒月が片眉を上げた。


「おれに?」

「にゃにしろ──なにしろ『水島寒月』だからねえ。浅からぬ縁を感じるにゃ──な! ああもうよい!」


 どうやら口がうまく動かないらしい。不本意そうにしながらも、猫は『な』の発音をあきらめたようだった。

「しかも私のファンのようだしにゃ」

 猫はどことなくうれしそうだ。


「ファンだったのは祖母です。そもそも……あなたが夏目漱石だというのはいろいろと無理があるような気がしますが。百年前──明治・大正の文豪ですよ」


 冷静な言葉に、亜紀は少しだけ思考力を取り戻す。心の中で思い切りうなずいた。

(いろいろ、ありえない、から!)

 夏目漱石は日本の文豪で、亜紀が小さい時には千円札に顔が載っていた。さらには国語の教科書にも写真が載っている。


「似てるとしても、髭だけです」

 寒月が言うが、猫はひるまない。


てらくんとは違って、こちらの寒月くんはずいぶんと頭が固いようだにゃ」


 けんを売るようなことを言う自称漱石に、だが寒月はひようひようと答えた。

「まあ、おれは物理学者ではないですからね」

「寺田? 物理学者?」

 話が全く見えない。亜紀が首を傾げると、漱石は金色の目を見張った。


「亜紀くんは寺田とらひこを知らにゃいのかね?」

「知りません」


 それは一般教養なのだろうか。先程からあまりにも話についていけない。格差を感じ、しょんぼりとしていると、見かねたのか寒月が解説をくれる。


「『寺田寅彦』は日本の物理学者で、漱石の一番古い弟子だと言われている。そして、《吾輩は猫である》の登場人物、水島寒月のモデルだとも言われているんです」

「よく知っておるにゃ! あぁ、もしかして私と同類で寅彦の生まれ変わりかね?」

「そんな馬鹿なことがいっぺんに起こるわけがないでしょう」


 寒月はあっさりと切り返す。口調はいつの間にか穏やかになり落ち着いていた。

 亜紀などまだ全然事態に追いついていないというのに、切り替えが早い。顔だけではなく、頭もいいのかもしれない。

 亜紀がすごい、と思って見つめていると、寒月は「それより」と、急に眉を下げた。

 そして胃のあたりを押さえて、亜紀を見る。


「……おしるこ、おれの分、ありますか? 二日ろくに食べてなくて……ちょっと限界です。頭が働かなくなってきました」


 最初、漱石が言っていたのは本当のことだったらしい。見るとやはりずいぶんと顔色が悪かった。


「すぐ作れます」

「私も欲しいぞ!」


 漱石が割り込んだ。さっき死にかけたのに、凝りないのだろうか、この猫は。

 そう思っていると、寒月が言った。


もち抜きで。もうさっきみたいなのはごめんですから」


 漱石が口をとがらせるが、亜紀は心から寒月に同意する。カウンターの向こうに回り込むと、餅抜きの即席おしるこを作り始めた。


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