一 3-③


「な、なに!?」

 あまりの展開に頭がついていかない。


「まずい。餅だ!」


 寒月が呆然としたままつぶやき、亜紀は真っ青になる。餅での死亡事故は毎年のように起こっている。

「ど、どうしよう……! だ、だって、まさか猫が食べるとは思わなくって──」

 次々に襲ってくるパニックが渋滞を起こしている。泣きそうになった亜紀は、「救急車──!」とスマートフォンを取り出しかけたが、寒月に止められる。


「落ち着いて。猫だから乗せてくれるわけがない。どう説明する気だ? とにかく、──掃除機を!」


 冷静な指示をもらい、亜紀は母屋に飛び込む。記憶を頼りに押入れを漁ると、古びた掃除機が見つかった。

 店に戻りながらコードを引っ張る。コンセントを突き刺す。スイッチを入れ、夢中で猫の口にホースの先を突っ込んだ。

 ずぽっと音がした直後、掃除機が断末魔の悲鳴のような音を立てて停止した。


「あ、壊れた」


 寒月が呟く隣で、亜紀は猫を揺り動かす。

「大丈夫!?」

 そう言った後はっとする。

(って私、返事をしたら、どうするつもり?──返事しませんように! にゃあって言って、お願い!!)

 だが、亜紀の願いははかなく散った。


「大丈夫にゃわけ……あるか! にゃんたる屈辱!」


 猫は涙目で言うと、屈辱、屈辱、と叫びながら床をゴロゴロしはじめた。

 呆然とそれを見つめたあと、亜紀は同じく呆然としたままの隣の男を見上げた。

 今、亜紀の心中を察してくれる人間はこの人以外にはいない。そう思った。


「あの……しゃべってますよ」

「しゃべってますね」


 寒月は穏やかな口調で返した。だが心ここに在らずといった様子。

 そしてしばし見つめあった後、亜紀はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。


「ひとまず、死ななくて、……よかった……」

 あんが口から漏れた後、亜紀はそのまま頭を抱える。

「って言っていいのかわからない……」


 なにをどうしたらいいのかわからないまま、再び転がり続ける猫を見つめる。

 やがて、寒月が「これは本当に現実か? だとしたら出来過ぎだろう」とぽつりと呟き、長く細い息を吐く。


「『噛んでも噛んでも、三で十を割るごとくじんらいざいかたのつくはあるまいと思われた。


 流れるように出てきたフレーズに亜紀は目を瞬かせる。

「……なんです?」

「猫踊りの一節、ですが」

 なんのことだろう? 亜紀が尋ねると、寒月はわずかにまゆをひそめた。そして「今のと似たエピソードがあるんですよ」とかばんの中から一冊の本を差し出す。


「《わがはいねこである》……?」


 それはなつそうせきという文豪が書いた、日本一有名かもしれない小説のタイトルだ。だが、亜紀は実は漱石の著作は一つも読んだことがない。有名な作品の冒頭を聞いたことがある、という程度。

 明治の文学というのは、普段本を読まない亜紀にとってハードルが高すぎる。

 カバーの外された文庫本を差し出される。旧仮名遣いの独特な文体で書かれている。ずいぶん古そうだ。

 読み込まれた形跡がある。寒月の字だろうか、書き込みまであった。持ち歩いているのだろうか?


「これ寒月さんのですか?」

「おれのじゃない。祖母のです」


 これを渡された意図がいまいちつかめないまま、ぱらぱらとページをめくる。亜紀はとあるページで手を止めた。


みずしまかんげつ……?」


 登場人物の一人にそんな名前があったのだ。

「祖母が好きだったんですよ。それで」

 由来だというのだろうか。ということは、寒月は名字ではなく、名前だということなのだろうか? そんなことを考えていると、猫が叫んだ。


「私のことは無視かね!?」


 そうだ、忘れてはいけない存在だった。

 心を防衛しようと本能が働いているのだろうか。無意識に見ないように、考えないようにしていたらしい。

 亜紀は猫を見ずに寒月に問いかけた。


「あの……これって夢じゃないんですよね?」

「夢だと思いたかったですけれど」


 二人でうなずくとわめく猫を見る。わからないことは本人に聞くしかない。


「あの……あなたは一体」

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