一 1-②


    *


 その日、亜紀は駅から会社に欠勤の連絡を入れた。あのあとどうしてもうえ行きに乗れなかったのだ。


『ええっ困るよ。日向ひなたさんいないと進まないだろ』

 上司は予想通りに甲高い声で叫んだ。

「すみません、でも、やっぱり今日は怖くて」


 ラッシュ時を過ぎてしまったせいで女性専用車両がないのだ。そしてラッシュ時は過ぎたというのにいまとうきよう方面の電車は混んでいる。


『たかだか痴漢くらいでそんな……甘えじゃないのそれ』

「…………すみません」


 迷惑をかけている自覚があったので謝ったものの……モヤッとした。

(たかだか?)

 さらに上司は迷惑そうに言った。


『被害届も出さなかったんだろ、本当に痴漢されたのそれ。勘違いじゃなくて?』

「…………」


 亜紀は言葉を失う。まるで亜紀など痴漢が狙うわけがない、そんなふうに聞こえた。確かに亜紀は地味な外見をしているし、肉付きも良くなくて触り心地も悪そうだ。さらには若くもない。だけど、実際に被害にあったと訴える人間に対して言う言葉だろうか。

 上司への信頼がガタガタと崩れていく。ああ……もういやだな、この人と仕事をするの。


『とにかく、明日はなんとか出てきてよ』

「……努力します」


 そう言いながら電話を切る。そして、亜紀は電車の混雑が収まる頃まで待って、なんとか帰宅した。



 だが亜紀は次の日も通勤電車を途中で降りた。女性専用車両に乗れば大丈夫だと思っていたのだけれど、乗るなり強烈な腹痛が襲ったのだ。

 途中下車したその場で会社に連絡すると上司はあきれたようにため息をついて、『サボるのは今日までにしてね。代わりがいないんだからさあ』と言った。亜紀はひたすら謝った。

 翌日も電車に乗れず、亜紀は会社を休んで病院に行くことにした。すると過敏性腸症候群だと診断が下りて、心療内科を勧められた。ストレスからくる腹痛だというのだ。

 診断結果を伝えると、上司はてのひらを返したようにあっさりと長期療養を了承した。


「え、休んでも、いいんですか?」


 電話口から聞こえた上司の言葉。昨日の今日で全く逆の回答。間違いじゃないかと亜紀は繰り返した。


「で、でも、まだ途中の仕事が」


 てっきり根性で治してってでもきてくれないかと言われると思っていたので、拍子抜けしてしまう。


『あー、実は、朝電話もらったあとチャチャッと交代要員探してみたら、なんとかなりそうでさあ。だから安心していいから。有給たっぷり残ってるだろうし、ゆっくり休んで治してから戻ってきて』


 軽く言われて「は?」と口から声が漏れ出た。

(は? それって私が病院に行ったからやっと探したってこと? じゃあ、病院に行かなかったら……探さなかったんじゃ)

 すさまじい不信感がのどから出かかる。上司はびるように言った。


『ほら、心療内科とか行かれると、おれの管理能力がとか言われちゃうわけよ。ほんと困るよ、察してよ』

「……すみません、ありがとうございました」


 亜紀は心の全くこもらない礼を絞り出して、電話を切った。



 代わりはいないと言われて必死でやっていた仕事だった。自分にしかできないという誇りを胸に頑張ってきた。だけど本当は自分の代わりなんていくらでもいて、あんな風にあっさりと見つかるのだ。壊れたらぽいと捨てられて、新しい人員が補充される。その程度のものなのだ。

 突きつけられた現実が亜紀をじわじわとさいなんでいく。


(あー、私、なんのために生きてるんだろう)

 何もかもどうでもよくなってきて床に大の字で寝転がった。

(私がいなくなっても世界は何も変わらない……それならいっそ)


 ずぶずぶと体が床に沈み込んでいく感覚。心が闇にちていくのがわかる。

 だが、ふと浮かび上がる言葉があった。


『ほら、いっぱい食べな。お腹がくと、ろくなこと考えないからね』


 耳元でささやかれたような気がして、亜紀ははっとしてむくりと起き上がった。ろくなことを考えていなかった。あぶない。

 時計を見ると午後六時だった。ここ数日食欲がなくて、昼食も食べていなかった。母は心配していたけれど、どうしても体が受け付けなかったのだ。

 だが、今、祖母と祖母の料理を思い出すと同時に急に空腹を感じた。


(そういえば、料理とかしばらくしてないな……前はあんなに好きだったのに)


 小学生の時の祖母のお手伝いから始まり、中学の時には簡単な物は作れるようになっていたし、高校では母と交代で料理をし、大学時代は料理教室に通い、時間を見つけては凝った料理も作っていた。

 だが、就職してからは、作る気力などなくなり母に任せっぱなしでほとんどキッチンに立つことがなかった。

 せっかく時間ができたのだ。好きなことをすれば、少しは気が晴れるかもしれない。

 亜紀は階下に向かうが誰もいない。父はまだ仕事だろう。母は買い物だろうか。

 冷蔵庫を開ける。冷凍庫と冷蔵庫で目に留まったのは牛肉。戸棚ではデミグラスソース。見たとたんに頭の中に浮かび上がるレシピがあった。

 ニンニクと玉ねぎを刻む。バターをフライパンに落として玉ねぎをいためる。甘い香りが広がると同時に活力が戻ってくる。牛肉を加えると香ばしい香りが漂う。色が変わったら赤ワイン。アルコールを飛ばすとデミグラスソースとケチャップ、水を入れて煮る。

 これは祖母がよく作ってくれたまかない飯。幼いころの亜紀でも作れた簡単なレシピ。ハヤシライスだ。

 落ち込んだ時こそ食べる。それは父方の祖母、ハルが教えてくれたライフハックだった。

 祖母は祖父を亡くしてから、せんでひとり、カフェを営んでいる。いくら同居を勧めても、店を畳みたくないからと頑としてうなずかないのだ。母といまいち折り合いが悪いせいで、しばらく会いに行っていない。

 一さじ分すくって口に含む。鼻から抜けるデミグラスソースの濃厚な香りとともに祖母のビーフシチューを思い出した。好物だと言ったせいか、亜紀が訪ねると必ず大量に作ってあって、もてなしてくれたのだ。


美味おいしいだろう? 食べたくなったら、いつでもおいで』


 ニカッと笑う祖母を思い出すと、無性に会いたくなった。

 その時、家の電話が鳴り響き、亜紀は思考を遮られた。

 いつもは家の電話には出ないけれど、今、ここには亜紀しかいない。


「もしもし、小日向です」

 しぶしぶ電話に出ると、相手がわずかにひるんだような気がした。

「あの、そちら小日向ハルさんの御家族の方でしょうか」

 相手は男の人のようだった。どうして祖母の名前を知っている?

「え、どなたですか?」


 新手の詐欺だったらどうしようと思わず録音ボタンに手をかけてしまう。だが、表示されたナンバーを見て、亜紀はハッとする。

 見覚えのあるナンバー。それは祖母の家の電話番号だった。


「祖母に、なにか?」


 声が震えた。直感で、これは悪い知らせでしかあり得ないと思ったのだ。まさか。さっきの思い出が虫の知らせとかいうものだったら。血の気が引いていく。


「あなたは」

「孫です!」


 そう叫ぶと相手はわずかに息をんだ。

「お孫さん、ですか」

「はい。それで──祖母がなにか?」

 男はしゆんじゆんしたような沈黙の後、どこか申し訳なさそうな声で言った。


「実はハルさんが倒れて、救急車で運ばれました」

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