一 先生と弟子と即席汁粉

一 1-①




(魔の十連勤だよ……神も仏もないよね)


 は通勤ラッシュで大混雑のけいせいせんで人混みにまれていた。

 いつもは座れるのに、こんな日に限って座れないのは神様を恨みたくなる。

 昨日も終電で帰ってきたので五時間くらいしか家にいられなかった。

 プロジェクトが大詰めでここ数日はずっとそんな調子だった。目に映る景色には紅葉がまじり始めたけれど、それを楽しむ余裕もない。

 だがふなばしえきが近付くと目の前の女性がもぞもぞと降りる支度をし始める。


(ラッキー……! 神様、ありがとう!)


 現金だが感謝する。頑張っているご褒美だろうか。女性が席を立つと亜紀は吸い込まれるようにそこに座り込む。

 そのまま目をつぶり、少しでも疲れをやそうとする。だが、その直前、視界の端につえをついた年配の女性が映り込んだ。

 しまった、と亜紀は思う。見なかったことにしたかった。特に、今日だけは。


(あぁ………ついてない)


 お年寄りには親切にしなさい。母の言葉が脳裏をよぎる。もう二十七になるというのに、母の言葉は亜紀の身体のいたるところに染み付いてしまっている。

 いい子であること。場を乱さないこと。それは幼い頃から亜紀に課せられた使命だ。親が喜ぶ顔が見たくてずっと逆らわずにいい子を演じてきたけれど、今になって後悔しっぱなしだ。

 親の敷いた『立派な人間になるためのレール』を走り続けた結果、自分がどうするべきかばかりを考えて、どうしたいのかがわからないのだ。

 古い友人たちがSNSで披露する、趣味で充実したきらきらした生活をかい見るたびに、自分が好きなものさえわからない人間なんて、生きている価値があるのだろうか──そんなことまで考える。

 不健全な思考だとはわかっている。だけどやめられない。方法がわからない。皆は一体どうやって自己実現という難題と折り合いをつけているのだろうと、不思議でしょうがなかった。


(あー……病んでる。きっと仕事のせい。十連勤だからだよ、ほんと。会社、滅びればいいのに)


 呪いのような言葉を心の中で吐きながら、重い体を持ち上げる。そして「どうぞ」と席を譲ると、亜紀は女性が気を遣わないようにとドア付近まで戻った。


(立っていても寝れそうだよね……)


 電車が揺れるたびに、揺り起こされる。亜紀の通勤時間は一時間半。一人暮らしを母に反対されて早五年。ずっと千葉から通っている。

 毎日満員電車に揺られて会社に行き、コンビニで買った弁当を食べ、帰ったら母の作った夕食を電子レンジでチンして一人で食べるのだ。


(たまには出来立てのものが食べたいな……あ、そうだ。久しぶりに食べて帰ろうかな)


 そんな想像で自分を慰めてみる。

 だけど一緒に食事をする相手もいなかったと気づいて妄想はついえた。恋人はしばらくいないし、激務で誘いを断り続けた結果、友人とも疎遠になっている。なにより、外食などして帰ろうものなら母がいろんな意味でうるさいのだった。

 母は、亜紀が二十代前半のときは嫁入り前の女の子が遅くまで遊び歩くのは体裁が悪いと言って門限を決めていた。当然一人暮らしなどもってのほか。そういうガチガチの防御壁が恋人と別れることになった一因だった。

 そんな母も、娘が適齢期になって周りが結婚し始めたら急に態度を変えた。恋人はいないのか、結婚はまだかと騒ぎ出したが、一番需要があった時期を逃した亜紀に、そうそう良い話が転がっているわけがない。

 とりあえず今みたいな仕事漬けの状況では出会いなどまったく期待できない。というより、そんな時間があったら眠りたかった。


(あ、またゆううつになってきた)

 ため息を一つ吐く。

(ようし……あと三十分の辛抱。頑張れ、私!)


 自分を励ましてつり革に必死でつかまった。そしてイヤホンを耳につっこんで、雑音を遮断する。目を閉じて視界を遮断する。だが、


(……え?)


 亜紀が背後に立っている人物の動きに気がついたのは、電車があおえきを出発した直後のことだった。

 もぞもぞもぞ──亜紀の腰のあたりで何かが動いている。振り向くといつのまにか中年の男性が一人、亜紀に寄り添うように立っていた。

 手の甲が電車の揺れに合わせてこすりつけられる。まさか、という想いと一緒にぞわっと鳥肌がたった。


かん? え、でも違ったらどうしよ……)


 こんな時でも場を乱してはいけないという呪いが亜紀を縛った。男をにらんでみるけれど、触れていることも気づいていないかのような態度。

 勘違いだろうか? と思い直して亜紀は身体の位置を変える。だけど手の甲は揺れに合わせてついてきた。

 間違いない。そう思う。だけど、なんと言ってとがめればいい? もし違うといって逃れようとしたら、自分に追及できるのだろうか?

 考えているとだんだん視界が狭まって、気分が悪くなってくる。電車がスピードを落とし始める。亜紀は不快感に耐えきれず、逃げるように途中下車をした。

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