序章-②


 じんじやの裏を通って不忍しのばずどおりへと降りていく。猫は物珍しそうに辺りを見回しながらも黙ってさつきについてきた。

 ぶんきようたいとうの境目あたり、なか、根津、千駄木の周辺をせんと呼ぶらしい。

 この地には車が通れないほどの細い路地が多くある。道を挟んで立ち並ぶ住宅は新築のものもあるが、昭和の建物が多かった。中には百年前にタイムスリップをしたのではと思わせるような家屋もある。

 その一つ。かわら屋根に焼き杉の壁の木造住宅。築七十年は余裕で経っていそうな古民家の軒先には、赤く色づいた紅葉があった。

 紅葉の下には木製のベンチ。格子のついた引き戸には白い暖簾のれんがかけられている。

 アパートの近所にあり、学生時代から毎日のように通っていた食事処だった。『カフェ すぷりんぐ』とゴシック体で書かれたレトロな看板が出ているが、ここまでカフェと言う名称が似合わない店もないだろう。だがカフェと書いていなければなんの店だかきっとわからない。

 営業時間は午後五時までで、とっくに過ぎているが、常連ならばいつ訪ねても料理を出してくれる。祖母の家のような場所なのだ。

 だが、このところ疎遠になっている。理由を思い出すとため息が出た。

 足元の猫を見下ろす。店主は動物が好きだ。話題作りにはちょうどいい。

 さつきはいつも『客』の好みを細かくリサーチするのだけれど、プライベートで知り得た情報をこんなふうに使いたくなかったと思った。


(あ、でもこれは夢だった……って、なんで夢の中なのに仕事なんか……)


 何だか色々と整合性がない気がした。だが頭がいまいち働かない。極度の空腹と睡眠不足のせいなのか。それとも夢だからなのか。ぼんやりしたまま、がらり、と古びた引き戸を開ける。

 閉店後の店には誰もいなかった。だというのに、


「いらっしゃい!」


 店主ハルの明るい声が響く。だが、さつきが顔を見せ、来客が誰か知ったとたん、笑顔は能面のような顔に変わった。


「誰かと思ったら、あんたかい。そんな格好をして、とうとう本性を表したね」


 開口一番、ハルは言った。以前は「ほらほら、さっさと座りなっ」と飛んできてくれていたのに、椅子を勧めてもくれない。もう彼女の客ではなくなったのだと思うと、さつきの胃はキリキリと痛んだ。


「今日は客としてきたんです。何か食べさせてもらえませんか」

 穏やかに言ってみるが、聞こえなかったかのように無視される。

「あんたのことは孫みたいに思ってたのに。まさかあんな裏切りを働くとは」


 らちが明かない。どうやら食事は出してもらえなそうだ。猫を見やると不満そうな、だけど興味深そうな顔でこちらを見上げている。

 ハルは猫にいちべつもくれない。黒いせいで見えないのか、興奮しているせいでかまう余裕がないか。話の糸口一つ与えないつもりなのかもしれない。

 ハルさん、この猫、しゃべるんですよ。そんなセリフが頭に浮かぶ。

 以前のハルならば『なにをバカ言ってんだい、またねぼけてんのかい』と笑ってくれただろうが、今のハルからはそんな反応はとても想像できなかった。

「二度と来ないでくれ」と言うと、彼女は出入り口を見た。

 もう少し甘い夢を見せてくれたっていいのに。それもこれも己の想像力の貧弱さゆえかもしれない。一時の安らぎを求めていたさつきの心は、どんどんやさぐれてくる。


「誰がなんと言おうと、ここは孫のものだ」


 先日話した時にもハルはかたくなにそう言った。その頑なさが、さつきのぜつぽうとがらせる。


「だけど……その、肝心のお孫さんはどこにいらっしゃるんです? お孫さん、本当にお店を継ぎたいと思われてるんですか?」


 長いつきあいだが、ハルの孫など一度も見たことがない。その意味など少し考えればわかった。自分がハルの孫と似ていたからだ。

 絶句するハルに、さつきはじわりじわりと近づいた。

 残酷なことを言っているという自覚はある。だが、さつきの説得には理由があった。自分の仕事には正義があると信じていた。いや、信じないと、やっていられないのだ。


 ──これは、必要なことなのだ。


 頭の中をよぎるのはビルの谷間にぽつんと残された、陽の当たらない、暗い家。庭の木は花をつけなくなり、ついには枯れた。家族が寄り付かなくなった家の中では老女が一人、寂しそうに泣いている。意地なんか張らなきゃよかったねえと彼女は言った。

 ハルと老女はあまりにも似ている。同じような目に遭わせるわけにはいかない。


はね、小さい頃からずっとここを継ぎたいって言ってるんだ」

「ずっと?」


 幼い頃の夢をそのままかなえる人間なんて、一握りしかいない。さつきなど、夢を見ることも許されなかったが。


「本当はもうわかっているのでは? あなたの想いはお孫さんへの押し付けではないのですか?」

 思わず漏れた問いは心の柔らかい部分に刺さったらしい。ハルは顔色をなくした。

「黙ってくれ!──あきは、絶対っ……」


 彼女はげきこうした後、急に言葉を失い、覇気をなくした。

 さつきはまゆを寄せる。様子がおかしい。

 ハルがよろけ、ガシャンという音とともにカウンターの陰に崩れ落ちた。さつきは思わずカウンターの中に飛びこむ。


「ハルさん!?」


 ちゆうぼうの床はコンクリートでできていた。そこにハルの小さな体が横たわっていた。

 そばにしゃがみ込み、抱き起こそうとする。だが動かさないほうがいいかもしれないと思いつき、耳元で声をかける。


「ハルさん! 大丈夫ですか!?」


「あき、あ、き」と弱々しい声を残し、ハルはぐたりと力を抜いた。

 なんなのだろうこの展開は。さつきはがくぜんとする。


(え、え──!? これ、本当に夢?)


 さつきは立ち上がり、よろける。すると棚にぶつかり、コップが一つ落ちて鋭い音を立てた。ガラスの破片を拾い、落ち着こう、これは夢だと自分に言い聞かせる。

 だが夢にしては、なんだか細部までがリアルすぎないか。例えばこのガラスの破片。触れたら怪我をしそうだ。

「大丈夫。これは夢だし」

 ともう一度つぶやくと、深く息を吸った。そしてガラスに触れようとする。夢ならば、きっと痛くない。


「大丈夫」


 ギラリ、凶器であることを訴える破片にひるんだ時。にゃあ、と鳴き声が響き、さつきは連れの存在を思い出した。そうだ。あれがいる。だから、この状況は夢のはず。

 確かめようと見下ろすと、猫はさつきの足に飛びついてがりがりと引っいた。


「つっ!?」

「──にゃにが夢だ、愚か者! その人を放っておくつもりにゃのか!」


 猫が喋っている。その絵はあまりにも非現実的だった。だが、足の鋭い痛みはあまりにもリアルすぎた。


(夢……じゃない!?)


 さつきは足を片方の手で押さえつつ、ポケットからスマートフォンを取り出す。だが手が震えているせいかロックが外れない。緊急という文字をタップする。急がねば、取り返しがつかないことになる。


「はい、119番消防です。火事ですか。救急ですか」

「あのっ──救急です!」


 署員の指示に従い、なんとか救急車を呼ぶ。

 電話を切る。だが気持ちがはやってしょうがない。何かせねば。なんとかせねば。


(ああ、そうだ……)


 家族にも連絡をしたほうがいいと思った。考えたくないけれど、手遅れになったらと思うと恐怖がせり上がる。

 その時は、なんと言ってびればいいのだろう。

 店の電話を見ると、番号が書かれた古い紙が貼り付けてある。

 さつきは受話器を上げ、書かれていた番号に電話を掛けた。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――

〈引用文献〉

1 夏目漱石『夏目漱石全集10』第14刷、36ページ、二〇一六年、筑摩書房

※8ページ2行目の『 』で括った台詞は、右記より本文を引用しています。

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