千駄木ねこ茶房の文豪ごはん 二人でつくる幸せのシュガートースト

山本風碧/富士見L文庫

序章

序章-①



「『なつそうせき旧居跡』……」


 さつきは、石碑を見つめてひっそりとつぶやいた。

 それが目に入ったのは、おそらくさつきと夏目漱石とが、浅からぬ縁でつながっていたからだろう。

 このせんという街は文学の街として有名だ。その理由の一つに、夏目漱石という文豪がこの地で《わがはいねこである》という小説を書き、そして近代文学界に華々しくデビューしたことが挙げられる。

《吾輩は猫である》が書かれ、その舞台となり、猫の家と呼ばれた家はすでになく、今は医大の施設となっている。その敷地の隅にひっそりと石碑が建てられているのだった。

 アパートに戻る途中だったが、ふらふらとしていたためいつもとは違う道を来てしまったらしい。学生時代から住んでいる街だというのに、迷うなどどうかしている。

 徹夜続きでもうろうとしているのもあるが、なにしろしばらく何も食べていなかったので頭が全く働かない。

 さつきは胃の辺りをさする。胃のご機嫌伺いはもう癖になっていると言ってもよい。

 昔からストレスに弱く、よく胃を悪くしていたけれど、就職してからは顕著だった。薄々感じていたが、勤務先の仕事内容が性格に合っていないのだ。

 目的のためだと自分をごまかしつつ惰性で続けていたが、本当にこんなことをしていていいのだろうかという問いは常に胸にあった。

 今回担当した業務は、そんなさつきの胃をさらに痛めつけている。

 自分が内側から腐っていくような感覚にうんざりしていると、


「臭う。臭うにゃあ」


 ふと人の声が聞こえた気がして、さつきは辺りを見回した。だが周囲に人影はない。

 おかしい、と首を傾げたさつきは、暗闇に浮かび上がる二つの目と白いくちひげに思わず後ろに飛び退いた。ものたぐいに見えたのだ。

 持っていたバッグが落ち、外側のポケットから何かが滑り出る。


「──おや、落し物だぞ」


 瞬くと、足元にいるのは黒猫だった。

 開いたどうこうを彩るこうさいは金色だ。口元に白い模様があり、口髭のように見える。

 猫が前足で押さえるそれは、名刺入れから飛び出した名刺だった。名前を見た猫がほほう、と感心したような声をあげた。


「もしや、私は、君に引き寄せられたのかにゃ?」


 滑らかにしやべる猫に、さつきは声を失う。目を何度もしばたたかせる。

 だが、おかしい。何度瞬きを繰り返しても、像は消えない。


「……《ゆめじゆう》」


《夢十夜》というのは夏目漱石の作品の一つ。十の作品群で、そのうち四篇が「こんな夢を見た」という書き出しから始まる。はっきりとしたオチがなく、脈絡がないのが夢そのものだと思っていた。

 石碑に触発されたのか、思わずそんな風に漏れたが、この状況にぴったりだ、とさつきは思う。夢ならば納得がいくからだった。逆に夢でないならば、こんなことは起こりえない……はず。

 猫はうれしそうにみゃあ、と鳴いた。


「ああ、私の作品を知っているのかね。ちょうど良い。気がついたらこの有様で困っていたのだが、跡地ということはあの家はどこにいったのかね?」

「はぁ? 私のって、あなた、誰です」

「あぁ、自己紹介がまだだった。私はにやつきんすけだ」


 猫は肝心なところで見事にんだ。


「──ぬぬっ、『ナ』ツメだ! 漱石と言ったほうがよいかにゃ──うむ、この口では『な』がうまく言えぬにゃ!」


 なんなのだろう、これは。さつきは思わず笑い出す。

「『こんな夢を見たか」

 夢十夜の最初のフレーズを口にすると、猫は楽しげに黄金の目を細めた。


「腹が減ったのだが、食べるものを持ってにゃいかね。できれば汁粉がいい!」

「……汁粉はないけれど、食べ物があるところは知っています」


 さつきは愉快な気持ちのまま言った。脈絡がなくともこれは夢だ。

 気がつくと胃のあたりの不快感が和らいでいる。

 現実から逃げたくなっていたさつきは、このまま覚めずにいてほしい気がしたのだった。

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