一 2



 その後のことはあまりよく覚えていない。

 病院を聞いて父に連絡をして、亜紀は着の身着のまま電車に飛び乗った。

 私鉄とメトロを乗り継ぐ。千駄木駅でメトロから飛び降りると、病院まで走る。ようやく到着した時にはもう夜の八時を過ぎていた。


「お父さん!」


 父は職場から病院に直行していたらしい。

「おばあちゃんは?」

のうこうそくだった。だけど大丈夫だ。常連さんがいてくれたおかげで、発見が早くて命に別状はないらしいから」

 亜紀はへなへなとその場にしゃがみ込む。


「電車、乗れたのか?」


 言われて目を見開く。腹痛のことなどすっかり忘れていた。

「必死だったから」

「そうか」

 父はそれだけ言うと、長椅子の自分の隣を座れとたたく。


「おばあちゃんな、亜紀の名前ばっかり呼んでたんだ。だから来てくれてよかった」


 父は優しい声で言う。亜紀は涙が出てくる。祖母にはずいぶん会っていなかった。こんなことになるならもっと顔を出しておけば良かったと思う。


「会うか?」

「いいの?」

「父さんも会えたから。ちょっとなら大丈夫だと思う」



 父について病室に入る。細い腕に刺さった点滴の管が痛々しい。祖母はずいぶん小さくなったように見えた。


「亜紀」


 祖母が言う。だが目はつぶったままだ。うなされているのだろうか。

「薬で眠ってるはずだけど」

 父が心配そうにのぞき込む。亜紀は祖母の手を握った。

「おばあちゃん、亜紀だよ」

 会いに来れなくてごめんね。そう心の中でつぶやきながらじっと見つめると、眠っているはずの祖母がほほえみ、乾いた唇が動いた。


「あ、き、店を、守って、くれ」


 訴えると、またくたりと力を抜いて眠りに落ちていった。



「守ってって……おばあちゃん、そんなに店が心配だったのかな……」

 亜紀が呟くと、父はうーんと天井を見上げた。

「あの店はばあちゃんにとって宝物だからなあ……」

 知ってる、とうなずく。

 大事すぎて母とよくめていたことを思い出す。


『あんたたちに世話にはならないよ。私には店があるからね』

『おさん、お店は畳んで売ればいいじゃないですか』

『何を簡単に──あんたは結局この土地が欲しいだけなんだろう? 欲しがってるやつはたくさんいるし、高く売れるだろうからね。なんだい、もう不動産会社と打ち合わせでもしたのかい?』

『そんなこと……心配しているだけなのに……』


 あのけんいまだ亜紀の心に傷をつけたままだ。

 祖父と祖母は脱サラをし、自宅を改装して店を作った。したいことを存分にするのだと夢を詰め込んだ店を開店して一年、祖父は帰らぬ人になった。

 だがその遺志を引き継いで二十年。祖母は誰にも頼らず一人で店を回してきた。きっと亜紀たちの知らない歴史がギュッと詰まっている。簡単にあきらめることはできないのだろう。

 一方、母にとっても、老いた義母を一人で放って置くことは正しくない行動なのだ。


「私、ちょっと店、見てこようかな。おばあちゃんの着替えとかもいるだろうし、ついでに」


 祖母の願いを無下にはできない。

「頼んでいいか。おれはいったん家に戻る。母さんにも事情を説明したいし……」

 父はゆううつそうだ。亜紀にも、もう同居待ったなし、という話になるのが目に見えた。

 亜紀がうなずくと、父は祖母の家のかぎを手渡した。

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