一 3-①



 病院を出たところでスマートフォンの電源を入れる。表示を見ると午後九時だった。右側にじんじやを眺めながら坂道を下っていく。

 坂を下り切ると不忍しのばずどおりを渡り、なか方面へと向かう。曲がり角で路地に入ると街の雰囲気が変わる。

 大通り沿いにはあった高い建物はなくなり、民家が密集した細い路地がたくさん伸びていた。そのうちの一つ。車が通れないくらい細い路地に入る。しばらく行くと目印の紅葉の木が見えた。

 祖母の店は一階が店舗、二階が住居となっているが、店舗用と住居用で入り口だけ分けてあった。店用の入り口の前に立つと、格子状の引き戸が出迎える。隣にある窓も格子つきだが、閉店時だからか戸にも窓にもカーテンが引かれていて中の様子は見えなかった。

 昔と変わらないたたずまいを懐かしく思いながら、亜紀は隣の母屋の玄関へ向かう。

 鍵を開けようとしたそのとき、にゃあ、と猫の鳴き声がした。

 ふとそちらを見やった亜紀は目を見開いた。

 紅葉の下にあるベンチで、人が寝転んでいたのだ。

 ベンチから大幅にはみ出すのは、長い足、それから質の良さそうな革靴だ。大きさを見るに、結構大柄な男性のよう。まとっているベージュのトレンチコートも上質だが、季節は秋で、冷える。夜に、外で、しかも人の家の前で寝るのはどう考えても非常識だった。

 亜紀は不審者の存在に思わず後ずさった。


(な、なにこの人!?)


 亜紀は冷静さを保とうと、そっと周囲を見回す。

 そしてふと店の看板に目をやって、ハッとする。

 もしかしたら客だろうか。休業を知らずに待っていたのだとしたら申し訳ない!


「あ、あの、お客さんですか?」


 営業時間は何時までだろうかと思いながら尋ねるが、不審者はぴくりとも動かない。

 恐る恐る近づいた時だった。


「おれはかんげつといって、ここの常連客だ。店主が急病で食いっぱぐれたせいで、行き倒れだ。しばらくにゃにも食べていにゃいから、いそいで食事を二人分作ってくれ!」

 と少し甲高い、どこか説明口調の声が上がった。


(かんげつ? それって名字? 名前? それから……『にゃ』ってなに?)


 外灯に照らされた顔を覗き込む。だが男はぐったりとした様子で目を閉じているだけ。かすかに肩が上下しているので眠っているように見える。

(頬のあたり、なんだかげっそりしてるけど……)

 亜紀は観察した後に、はっとする。

 三日月形の整ったまゆ、切れ長の目、通った鼻筋、くっきりと刻まれた口が全く狂いのないバランスで配置されている。暗くても、目を閉じていてもわかるくらいに顔が良い。

 いままでの人生の中で、一度も見かけたことのないレベルの美形だと思った。まさかの芸能人だろうか。


「早くしてくれにゃいか。客だと言っているだろう。腹が減ってたまらぬのだ。にゃんでも良いから、早くできるものを出してくれ!」


 顔と口調の差異がどうしても気になる。

(というか、今、口、動いた?)

 気になりつつも、喋っているのだから口が動いていないわけはない、客と言われてしまったら何か出さねばならないのではないかと焦った。

 彼の言い分だと、どうやら祖母の不在のせいで食べられなくなったらしいし。


「早く! 見ての通り、今にも死にそうにゃのだ!」


 かされた亜紀は慌てて鍵を開けて店に入った。

 店内に足を踏み入れると、一瞬、タイムスリップをしたかのような感覚になった。

 街中にあるお洒落しやれなカフェというよりは、昔ながらの純喫茶という呼び名が似合う店内のせいだ。

 縦に細長い十五畳ほどの広さの店。ちゆうぼうの明かりはともったままだったが、照明の光度が低いのか薄暗い。

 木枠でできている窓には薄いカーテンがかけられている。窓際に据えられた棚には人形や陶器などが雑然と置かれていた。

 壁にはメニューがぺたぺたと貼ってある。床はえんじ色の格子柄でビニール製。さらにランプのシェードはステンドグラス風で……と色が多く統一感がないため雑多な印象だ。

 そういえば祖母は可愛らしい柄やオブジェが好きだった。祖母らしくて、味があって、家に帰ったときのような懐かしさがある。

 縦長のカウンター沿いには椅子が五脚並べられている。そして壁沿いに四人がけのダイニングテーブルが一組。ソファとローテーブルが一組。奥には掃き出し窓。脇にはトイレがあり、その左隣のドアを開けると住居につながっている。


(ああ、懐かしいな。何にも変わってない──ってそれどころじゃなかった!)


 亜紀は感傷を振り払い、カウンターの裏の厨房へと回り込む。

(何かあるかな……?)

 炊飯器は空。冷凍庫には……と炭水化物を探すがご飯もパンも入っていない。肉は入っていたけれど、しばらく食べていない人に出すには不適切だと思った。

 悩みつつ、棚をあさると小豆あずき缶が見つかる。そして未開封のもちも。

 あっという間にレシピが浮かぶ。簡単で、あっという間にできて、小腹がいた時にちょうど良いもの。


「おしるこでもいいですか?」

「それがいい! 好物にゃのだ!」


 はじかれたように是の返事が返ってきたが、店には誰もいない。

 亜紀は首を傾げる。


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