三 5




「あーきー!! 腹が減ったー!!」


 店に戻るなり、漱石は夕食をねだってきた。

「猫先生、食べてましたよね!?」


 店に入るたびにテイクアウトをして与えてきたというのに。

「あんなのは食べたうちに入らぬよ」と漱石は言い、亜紀はガックリと肩を落とす。


「他にはにゃいのかね!」


 ぐるぐると足の周りを回ったあと、ふくらはぎに顔をでつけられて亜紀はため息をつく。

 可愛いけれど、中身を思い出すと複雑なのだ。深く考えたら終わりかもしれないが。

 寒月がそんな漱石を冷めた目で見つめている。


「文豪も落ちたものですね。あ、自称文豪でしたか」

うらやましいのにゃら、正直に言えばいいのだよ」


 一言で寒月を黙らせると漱石はふんふんと亜紀の持っていたバッグに鼻を近づけ、「甘い匂いがするにゃ!」と訴える。


(猫の鼻はだませない……!)


 夜食にしようと買ってきたアップルパイとシフォンケーキをしぶしぶ差し出すと、漱石は目を輝かせてかぶりつく。そうしながら尋ねた。


「で、どうだった。成果はあったのかね?」

「小豆トーストに、オムライス、かき氷に、薬膳カレーに焙煎したての珈琲。全部美味しかったです……個性的で、こだわりの味でした」

うまそうだにゃ! 全部作ってくれ!」


 亜紀は苦笑いをして首を横に振った。


「ダメですよ。全部すごく素敵でしたけれど……一緒に出したら、なんていうか、お店の味が薄まってしまう気がするんです」

「味?」

「コンセプトっていうか、店のご主人のこだわりっていうか」


 それぞれの店で、どういう店にしたいのかがにじみ出ていた。その想いが客を引き寄せていたように見えたのだ。

 そして、今の亜紀は祖母の店をつぶしたくないだけでこだわりがない。だから途中からへこみかけたのだ。

 強みや望みのない自分には、いくら頑張っても、オンリーワンの店を作るのは無理じゃないのかと思って。


(だけど……最後に連れて行ってくれたところ……)


 ふわふわなタマゴサンドに代表されるように、一般的なカフェメニューを丁寧に美味しく作っていて、奇抜なものはない。だけど、古民家を丁寧に手入れして作り上げた雰囲気がとても素敵で、大切なものを守りたいというコンセプトが琴線に触れた。

 亜紀は店を見回す。大正時代にはかなわないけれども、この店も味のある建物だ。もしかしたら諦めなくてもいいかもしれない、と思わせてもらった。


(勝負は味だけでするんじゃないんだ)


 寒月が、そんなふうに教えてくれたような気がして仕方がないのだ。

 ちょっと料理が得意なだけ、修業などまるでしていない亜紀が、今の時点で味だけで勝負というのは、むしろおこがましい話。


(課題はたくさんだけど……方向性は見えた気がする)


 亜紀はキッチンに向かうと手を洗う。亜紀は食べ過ぎなくらいだが、寒月はほとんど食べていない。そしてその原因に確信を持ってしまった。

 時折お腹を押さえる仕草。珈琲にこだわりがある割に、飲むのは決まってカフェオレ。


「寒月さん、ちょっと待っててくださいね! 今日のお礼に、夕食食べて行ってください!」


 いつも通りに誘う。だが寒月はいつも通りに遠慮した。

「いや、気にしないでください。おれ、腹減っていないので」


 そんな寒月を引き止めようと亜紀は粘った。

「私もお腹いてないので軽いもので。寒くなりましたし……雑炊なんていかがです?」


 すると寒月の足が止まった。彼は胃のあたりを押さえる。


(当たり、じゃない?)


 と思った直後、だが、寒月は「いえ。またお邪魔しますね。今日はありがとうございました」と店を出て行った。

 引き戸の隙間から、冷たい風が吹き込む。


「てっきりお腹の調子が悪いのかなって、思ったんですけどね」


 亜紀は漱石に向かってへらりと笑ってみせる。漱石は「猫のようにゃやつだにゃあ」と呆れた様子だった。


「猫って、猫先生がおっしゃるんですか?」


 亜紀は苦笑いとともに深いため息をこぼした。

 お願いなら食べてくれる。だけど純粋な善意だと食べてくれない。

 ひたすらに与えられるだけの一方通行の関係。

 ありがたいことなのかもしれない。だけど、そこに亜紀は壁を感じてしまう。

 いつになったら、ごそうさせてくれるのだろうか。どうやったら、近づくのを許してくれるのだろうか。

 亜紀は波のような寒月の態度が、ひたすら寂しいと思った。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――

〈引用文献〉

3 三好行雄編『漱石書簡集』第27刷、312ページ、二〇一八年、岩波書店

※119ページ5行目から9行目の『 』で括った台詞は、右記より本文を引用しています。

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