三 4



 亜紀はいつしかしょんぼりと歩いている。

 いかすみオムライスの店を出てここに来るまでに、寒月たちは谷中をぐるりと回ってきた。こだわりかき氷の店、やくぜんカレーの店……と素人がすぐに真似できそうにない、オンリーワンの個性的な店を案内してきた。

 そして最後、ばいせんもしている珈琲コーヒー店の本格珈琲で一息。これはとどめとなるはずだった。

 寒月はカフェオレを口に含むと、前髪の陰でそっとほくそ笑む。


「寒月くんは、にゃかにゃか根性が悪いにゃあ」


 猫があきれたようにつぶやくが無視をすることにした。

 作戦は上々だ。亜紀の曇った顔を見るに、とても真似できないと思ったに違いなかった。


(傷の浅いうちに、あきらめたほうが彼女にとっても良いことのはず)


 そう自分に言い聞かせて──。寒月はふと目を見開く。

(言い聞かせる必要が、あるのか?)


 割り切れていないのだと気がついて、焦りを感じた。

 ベンチの隣の亜紀は珈琲を飲むと、小さく息を吐いた。


「だめですね。今のままじゃ」


 寒月は胃がしくりと痛むのがわかった。計画通りに『そうですね、今、諦めたほうが傷が浅くていいかもしれません』──そんな言葉を言うべきだと思った。それを言うがために一日かけたのだから。

 だがのどに詰まってどうしても出てこない。もう一人の自分が引き止めている。

 黙っていると、亜紀が先に口を開いた。


「寒月さんは、カフェに何を求めてますか?」


 答えるな、と『寒月』が命じる。だがもう一人の自分が無視して口を割った。


「……時間、ですかね。ホッとする時間。おれ、ハルさんの店にいると素でいられました」

「素敵ですね。私もあの店をそんなカフェにしたいんですけど……。ほんと、難問ばっかりでどうしたらいいやら──」


 そう弱音を吐きかけた亜紀は、ふいに口をつぐむ。

 そして僅かに首を横に振ると、「だけど」と寒月をじっと見た。


「私、それでも諦めたくないんです」


 ──諦めないよ。ここは私の家だ。

 懐かしい声が耳によみがえる。強烈な既視感にめまいがした寒月は思わず目を閉じた。


「……もう少し、歩けますか?」

 寒月は黙れとたける理性を跳ね飛ばして言った。


「もう一軒、見せたい店が、あります」




「すごい……ですね。雰囲気がすごく素敵」


 寒月の隣では亜紀が足を止めてぼうぜんとしていた。

 先ほどまでしょんぼりしていたのが嘘のようだ。


「大正時代の建物をリノベーションしてあるんですよ」


 たいとう区では主に保存を目的に、古民家の再利用を行なっている店が多いのだ。この店を始め、数軒の古民家がカフェやイベントスペースとして営業しながら保護されている。

 寒月が説明すると、亜紀は真剣な面持ちでメモをする。そして外観の写真を撮る。

 落ちていく夕日がそんな彼女の横顔を照らす。夕日の反射なのか活力なのかひとみは金色に力強く輝き、赤く染まった頬は、興奮で紅潮しているようにも見えた。

 琴線に触れるものがあったのだろう。亜紀は先ほどとは別人のようだった。さらに言うと、出会ったばかりの灰色に染まった女性とはとても思えなかった。

 しばし息を止めていた寒月は、やがて我に返った。


(……何をやってるんだ、おれは)


 うまく行っていたのに。どこで間違えたのだろうと思う。

 寒月は古い建物を見上げた。その建物は保存状態は数段良いものの、ハルの店とどことなく雰囲気が似ている。

 おそらくは建てられた時期が近いのだろう。味のあるドア、格子のついた窓、黒く焼かれた杉で作られたおもむきのある民家。

 内装はその雰囲気を壊さないようにシンプルで素材感を大事にしてある。

 そして出される料理はごく一般的なカフェメニュー。それを丁寧に作ってある。

 ホッとする『空間』という『コンセプト』。店を立て直すヒントを与えてしまっている自分に舌打ちしたかった。効率の悪い方へと走っている原因を探って、ふと思い当たった。


(あの目のせいか)


『諦めるわけにはいかないんです』

『それでも諦めたくないんです』


 あの目を見るとなぜか調子が狂ってしまう。

 あの顔が、あの声が、胸のどこかにとげのように刺さってしまい、ふとした折にじくじくと痛むのだった。

 そうして寒月の価値観を揺るがし、迷わせる。

 寒月は心の中で悪態をつく。


(忘れろ。仕事の邪魔だ)

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