三 3-①



 翌日の午後、店を閉めたあと寒月はやってきた。

 亜紀は自転車だ。漱石に町中をウロウロさせるとなかなかに危険だと思ったため、かごに入ってもらうことにした。

 寒月は亜紀が漱石を乗せた自転車を押しているのを見ると「代わりますよ」とハンドルを持つ。そして漱石の耳元でささやいた。漱石は「別に良いではにゃいか」と鼻にしわを寄せる。


「何を?」


 気になって尋ねると「人前でしやべらないように念を押したんですよ。さすがに猫の真似はつらいので」と寒月は言う。

 亜紀は先日の『にゃ』事件を思い出してくすりと笑う。確かにあれは毎回やられると困るだろう。しかもわざとやっている感じもするし。


「行きましょう」


 お腹がきゅう、と返事をして亜紀は焦る。

(わああ、やめて! 空気読んで私!)

 たくさん食べなければならないと思ったので、朝からほとんど食べていない。

 亜紀が慌ててみぞおちを押さえていると、気が付かなかったのかそれとも気を利かせたか、寒月は地図アプリを見ながら提案した。


「まず方面に行きましょうか」


 寒月はへび道へ入っていく。亜紀はホッとしながらついていく。

 へび道というのはせんなかのちょうど境目にある、細い路地だった。車が一台通れるか通れないかのくねくねとした道。千駄木方向からここを通りぬけると根津に出るのだ。せん──谷中、根津、千駄木の根津だ。


「ここは川だったのだがね」


 漱石が思わずと言った様子で口を開く。寒月はけんのんな目をするが、漱石は知らんぷりだ。

 すれ違う人が注目するが、やはり寒月が喋っていると思っているのか、驚いてはいない。


「黒猫だよ! おひげが立派で可愛い!」


 ひそひそと黄色い声が上がるのを聞いて、漱石はどこか誇らしげにぴんと背中を伸ばしている。そして寒月も実はひそかに注目を浴びているようだった。

 ひそひそ声で「イケメン」という声がいくつか聞こえてくる。だが、本人は全く気にせずにひようひようとしていた。自分のこととは思っていないかのように。

(やっぱり、言われ慣れてるのかなあ)

 そんなことを考えていると、「あれ、彼女?」という声が耳に届き、はっとする。


「か、寒月さん、今気がついたんですけど、彼女に悪いんじゃないですか!?」


 男女二人に猫一匹、はたから見るとデートではないか。ヒソヒソと訴えると、

「彼女? 彼女とは誰だにゃ?」

 漱石が籠の中から振り返る。


「彼女って言ったら、恋人のことですよ!」

「ははは、こんにゃ猫かぶりにそんにゃのいるわけにゃいぞ!」

「いるわけないって──」


 何を根拠に。いるに決まっているだろうと亜紀は思った。これだけのイケメン、女性が放っておくわけがない。地引網レベルで女性が釣れる。


(どう考えてもいる。絶対にいる。100%いる!)


 でしょう? と顔をうかがった。

 だが寒月は「彼女はいませんよ」とため息をつく。

 亜紀が「うそっ、なんで!?」と思わず漏らすと、漱石が「だから言ったにゃあ」と勝ち誇った。

 亜紀は無礼を忘れて寒月をまじまじと観察する。

 服装はいつもの休日スタイルよりさらにカジュアルで、グレーのニットジャケットに青のダンガリーシャツにヴィンテージジーンズといういでたちだった。髪もラフに崩してあって、イケメン度が別方向へ増している。クールなイメージが柔らかくなっていて、いつもの近寄り難さが消えている。


(これでいないとか……どうして? あ、女性に興味がないとか……?)


 亜紀がいぶかしんでいると、心を読んだように寒月は苦笑いをした。


「彼女もも本当にいません。ですからなんの問題もありませんよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る