三 2-①



 火鉢の上では、食パンがこんがりときつね色になっていく。


「いい匂い!」

 香りにつられたかのように通行人の足が止まる。そして高い声が上がった。


「あ、猫漱石だ~! ほんと髭がそっくり! 超かわいい!」


 SNSに投稿された写真は、相変わらずいいねの回数を増やし続けているらしい。

 誰が名付けたのかわからないが、しくも『猫漱石』という名で有名になった漱石は店の前のベンチで丸くなり、ひなたぼっこをしながら客引きをしてくれている。

 そして、


「今日はいるかなぁ?」

「どうだろ。いる時といない時があるみたい」

「アルバイトなのかなあ……シフト聞いてみてよ」

「やだー、あなたが聞いてよ~!」


 誰のことを言っているのかわかってしまい、亜紀はカレンダーを見て苦笑いをする。


(残念! かんげつさんはスタッフじゃないし、今日はお仕事で店には来ません!)


 寒月の休みはどうやら水曜のみ。その日以外は閉店後にしか店に現れないから、そうなのだと思う。

 今のところ、その法則性を知っているのは亜紀だけだ。バレたら水曜日以外の客が減りそうなので、内緒にしておきたいところだった。


(ん……? あれ? だけど常連みたいなこと言ってなかった?)


 亜紀はふと気になった。だとしたらなぜ今まで話題になっていないのだろう。神田も知らないようだったし、祖母も一言も言っていなかったし。


(気のせい? 常連じゃなかったのかな? でもその割には……)


 先日、見舞いから帰ってきたあと、寒月は祖母の様子をしきりに気にしていた。あれだけ心配するということは、やはり付き合いは長そうに思えるのだけれど。

 ひそひそ話がみ、亜紀は思考から立ち返る。引き戸の方を注視した。

 ガラリと引き戸が開き、暖簾のれんをかき分けた女性客に笑顔であいさつをした。


「いらっしゃいませ!」



『火鉢の焼麵麭トーストセット』五百円。

 漱石発案、そして寒月と神田の試食を経て完成した新メニュー。

 バターをたっぷり塗って砂糖をまぶして焼いたシュガートースト。もしくは、厚切りトーストに自家製ジャムを添えたものを選べる。

 火鉢は使えるようにして勝手口のすぐ外に移動した。匂いも宣伝になると知ったからだ。

 始めて数日が経ったが、店はぽつぽつと客足を伸ばしていた。

 皮切りとなったのは、なんと、パンが食べたいと騒いだ男の子と、そのパパとママだった。

 男の子がパンが食べたい、猫ちゃんに会いたいと言ってくれたらしい。試食の効果が目に見えて現れて驚くと同時にじんと胸が熱くなった。

 だが、三本のパンが売り切れ、火鉢のトースト売り切れという紙を出した瞬間に店は閑散としはじめる。

 そのころになってようやく神田がやってきた。


「トーストセットは売り切れか?」

「……すみません」


 このところ毎日売り切れだ。神田の思い出の味なのだと知ってしまうと、なんだか申し訳ない。だが、


「なんだか繁盛してるみたいだねえ」


 神田は軽く肩をすくめただけ。「まあ今だけだと思うからちょっと我慢するか」と失礼なことを言ってどっしりと座ると「ハンバーグちょうだい」と言った。トースト以外で唯一娘さんの許可が出ているメニューで、こっそり糖質と塩分を減らしている。

 亜紀は今日はじめてフライパンを取り出すと火にかける。そして小さくため息を吐いた。


 神田が帰ると、閉店の札を出す。慣れるまでは午後一時閉店としているのだ。

 ついでに完売の張り紙をがすと、疲れと共に不安が湧き上がった。

(今だけ……か)

 神田の言葉がよみがえりため息が出た。


「『今だけ』か。まぁ真理だにゃあ」


 漱石が昼間の定位置であるベンチに寝そべっていた。ちなみに、母屋のこたつの中も気に入っていて、夜はそこで眠っている。


「猫先生、聞いてたんですか」


 亜紀にもこれが物珍しさからの流行だと言うことくらいわかっている。一つしかないトーストメニューでやっていけるほど商売は甘くはないだろう。

 亜紀はメニューを開く。

 ハンバーグにナポリタン、サンドイッチにオムライスという普通の喫茶メニュー。今日はとうとう神田しか注文しなかった。食品ロスを考えるとかなり頭が痛い。


(おばあちゃんの作るのと、私の作るの、何が違うのかな)


 そろそろ向き合わねばならないときが来たようだった。

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