一 6
寒月の内心は荒れていた。
口元だけを見ればおそらく微笑んでいるように見えるだろうが、それは物騒に陰った
(これは、かなり面倒なことになったんじゃ……)
寒月は冷めたしるこを無理やりに飲み込んだ。
直前までは確かに美味だと感じていたと言うのに、今は妙に甘ったるいだけ。空腹感が去ると甘いものが苦手だと思い出したのだ。
水で不快感を洗い流す。
事はうまくいっているはずだった。店主が倒れたあと、後継がいないとなると店は
(それをこの猫が余計なことを言うから)
原因を作った自称漱石の猫を
「私はここで世話ににゃることにする。ここにゃら飯の心配をすることはにゃさそうだからにゃ!」
「はぁ?」
寒月は目を
「何を勝手なことを。ここは飲食店ですよ、迷惑でしょう」
焦りを抑え込みながら亜紀を見る。断ってくれと願う。
だが、彼女は少し目を泳がせた後、「大丈夫だと思います。祖母、猫好きですし、昔飼ってたこともあるんで」と言った。
「あ、でも、
「構わぬぞ」
寒月を
「寒月くん。君、にゃにか不都合にゃことでもあるのかね?」
言外に含まれることを察した寒月はヒヤリとした。
思わず首根っこを
亜紀の驚いたような目を気にした寒月は、「ちょっと彼をお借りしますね」と言って、そのまま猫を外へと連れ出す。そして首から手を離すと問いを投げつけた。
「あんた、一体どういうつもりだ?」
問いかけに、猫は「ようやく猫を
「臭うんだにゃ」
「……なんだって?」
そんなことを面と向かって言われたのは生まれて初めてだ。職業柄、清潔感が重要なので
「『死』の臭いだ。亜紀はさっきずいぶんとマシににゃったが。寒月くん、君は会った時からずっと臭う。そりゃあもう、ぷんぷんと。だから放ってはおけぬのだ」
猫は言った。本当に臭っているような顔だった。
「君はにゃにに絶望しておるのかね?」
寒月は絶句する。
(死? 絶望だと?)
何を言っているのだ、この猫は。
急に目の前のものが人知を超えた存在にも思え、
猫がしゃべっている。その事実さえなんとか呑み込んだばかり──いや、呑み込めたかどうかもまだわからないというのに。
「だから、取り消すつもりはにゃい。まぁ君は弱みを握られてるからにゃ、邪魔はしてくれるにゃよ」
「あんた……本当におせっかいだな。おれのことなんてどうでもいいだろうが」
なんとか口に出せた反撃だった。
「いやいや、若者が死ぬのは見すごせぬよ。寝覚めが悪いではにゃいか」
ふと、漱石についての逸話を思い出す。教師時代に自殺した教え子のことを、ずっと胸に刻んでいたという。そのことが彼の精神を
だがすぐに打ち消す。そもそも、これが漱石とはまだ証明できていない。というよりまだ悪い夢の中にいるような気分だった。
(悪い夢……か)
現実と夢。どちらの方がより生き
(むしろあちらのほうが悪い夢なんじゃ……)
疑問が浮かび上がった時、亜紀が心配そうに店から顔を出す。話が長すぎたようだ。
寒月は
(しょうがない。こうなったからには利用できるものは利用する。それが猫の手であっても、だ)
寒月は猫の使い道を思いつき、すぐに顔に笑みを貼り付けた。自分の武器はよく知っている。それをこの職についてからは丁寧に磨き上げたのだ。
亜紀をじっと見つめる。
地味で、大人しそうな女だと思った。色で
顔立ちは整っているけれども、手入れのできていない髪や、顔色の悪さや、化粧っ気のなさが台無しにしている。生気が無く、人形のようだった。磨くことを忘れたのか、それとも磨く余裕がないのか。
(ひとまず、気性の強さは引き継いでなさそうだな)
だとすると、仕事は案外楽かもしれないと思い直す。攻略法について考えを巡らせる。
「申し訳ないですが、猫、おまかせしてもいいですか?」
確認すると、亜紀は「大丈夫ですよ」とうなずいた。
「ありがとうございます。猫の様子、見に来ますね。それから……おれにできることがあったら、なんでもしますから。ハルさんにはお世話になったので」
亜紀に向かって微笑むと彼女は計算通りに頬を染める。
それを見て、寒月は仕事の第一段階をクリアしたことを確信し、案外、目的達成は楽かもしれないと思い直す。
(きっとすぐに投げ出すに決まっているし)
素人が突然、カフェ経営などできるわけがないのだから。
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〈引用文献〉
2 夏目漱石『夏目漱石全集1』第13刷、44ページ、二〇一九年、筑摩書房
※41ページ1行目の『 』で括った台詞は、右記より本文を引用しています。
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