一 6


 寒月の内心は荒れていた。

 口元だけを見ればおそらく微笑んでいるように見えるだろうが、それは物騒に陰ったまなしを前髪で隠しているからだ。


(これは、かなり面倒なことになったんじゃ……)


 寒月は冷めたしるこを無理やりに飲み込んだ。

 直前までは確かに美味だと感じていたと言うのに、今は妙に甘ったるいだけ。空腹感が去ると甘いものが苦手だと思い出したのだ。

 水で不快感を洗い流す。

 事はうまくいっているはずだった。店主が倒れたあと、後継がいないとなると店はつぶれる。この店には跡継ぎはいないはず。つまり……時を待てばいいだけの簡単な仕事だったのだ。ついさきほどまでは。


(それをこの猫が余計なことを言うから)


 原因を作った自称漱石の猫をにらみ付ける。猫は寒月を見てにやにやと笑ったあと、さらなる爆弾発言を投下した。


「私はここで世話ににゃることにする。ここにゃら飯の心配をすることはにゃさそうだからにゃ!」

「はぁ?」


 寒月は目をみはった。何を言ってるんだこの猫は。

「何を勝手なことを。ここは飲食店ですよ、迷惑でしょう」

 焦りを抑え込みながら亜紀を見る。断ってくれと願う。

 だが、彼女は少し目を泳がせた後、「大丈夫だと思います。祖母、猫好きですし、昔飼ってたこともあるんで」と言った。


「あ、でも、ちゆうぼうには入っちゃだめです。それと、お店が営業中は外か母屋にいてもらってもいいですか?」

「構わぬぞ」


 寒月をの外にしてどんどん話は進む。顔がひきつるのがわかった。この猫は、仕事のジャマだと本能が訴えた。すると、猫は意味ありげに右目を細める。


「寒月くん。君、にゃにか不都合にゃことでもあるのかね?」


 言外に含まれることを察した寒月はヒヤリとした。

 思わず首根っこをつかむと猫は「乱暴はよせ!」と暴れる。仕事中は穏やかにと訓練している。だが、その態度が保ちきれないのを感じる。

 亜紀の驚いたような目を気にした寒月は、「ちょっと彼をお借りしますね」と言って、そのまま猫を外へと連れ出す。そして首から手を離すと問いを投げつけた。


「あんた、一体どういうつもりだ?」


 問いかけに、猫は「ようやく猫をがしたにゃ。よくそこまで化けているものよ」と嬉しそうに笑い、答えた。


「臭うんだにゃ」

「……なんだって?」


 そんなことを面と向かって言われたのは生まれて初めてだ。職業柄、清潔感が重要なのでにはちゃんと入っている。というより、それと同居がどうつながるのか全く見えない。


「『死』の臭いだ。亜紀はさっきずいぶんとマシににゃったが。寒月くん、君は会った時からずっと臭う。そりゃあもう、ぷんぷんと。だから放ってはおけぬのだ」

 猫は言った。本当に臭っているような顔だった。


「君はにゃにに絶望しておるのかね?」


 寒月は絶句する。

(死? 絶望だと?)


 何を言っているのだ、この猫は。

 急に目の前のものが人知を超えた存在にも思え、おそれが湧き上がるのがわかった。

 猫がしゃべっている。その事実さえなんとか呑み込んだばかり──いや、呑み込めたかどうかもまだわからないというのに。


「だから、取り消すつもりはにゃい。まぁ君は弱みを握られてるからにゃ、邪魔はしてくれるにゃよ」

「あんた……本当におせっかいだな。おれのことなんてどうでもいいだろうが」

 なんとか口に出せた反撃だった。


「いやいや、若者が死ぬのは見すごせぬよ。寝覚めが悪いではにゃいか」


 ふと、漱石についての逸話を思い出す。教師時代に自殺した教え子のことを、ずっと胸に刻んでいたという。そのことが彼の精神をさいなんだとも。

 だがすぐに打ち消す。そもそも、これが漱石とはまだ証明できていない。というよりまだ悪い夢の中にいるような気分だった。


(悪い夢……か)

 現実と夢。どちらの方がより生きづらいだろう?

(むしろあちらのほうが悪い夢なんじゃ……)


 疑問が浮かび上がった時、亜紀が心配そうに店から顔を出す。話が長すぎたようだ。

 寒月はていねんのため息をついた。


(しょうがない。こうなったからには利用できるものは利用する。それが猫の手であっても、だ)


 寒月は猫の使い道を思いつき、すぐに顔に笑みを貼り付けた。自分の武器はよく知っている。それをこの職についてからは丁寧に磨き上げたのだ。

 亜紀をじっと見つめる。

 地味で、大人しそうな女だと思った。色でたとえると灰色、といった印象。

 顔立ちは整っているけれども、手入れのできていない髪や、顔色の悪さや、化粧っ気のなさが台無しにしている。生気が無く、人形のようだった。磨くことを忘れたのか、それとも磨く余裕がないのか。

 やつれた様子を見るに、後者かなと寒月は予想した。祖母には似ても似つかない。


(ひとまず、気性の強さは引き継いでなさそうだな)


 だとすると、仕事は案外楽かもしれないと思い直す。攻略法について考えを巡らせる。

「申し訳ないですが、猫、おまかせしてもいいですか?」

 確認すると、亜紀は「大丈夫ですよ」とうなずいた。


「ありがとうございます。猫の様子、見に来ますね。それから……おれにできることがあったら、なんでもしますから。ハルさんにはお世話になったので」


 亜紀に向かって微笑むと彼女は計算通りに頬を染める。

 それを見て、寒月は仕事の第一段階をクリアしたことを確信し、案外、目的達成は楽かもしれないと思い直す。


(きっとすぐに投げ出すに決まっているし)


 素人が突然、カフェ経営などできるわけがないのだから。



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〈引用文献〉

2 夏目漱石『夏目漱石全集1』第13刷、44ページ、二〇一九年、筑摩書房

※41ページ1行目の『 』で括った台詞は、右記より本文を引用しています。

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