一 5



 店の外に出て、冷たい夜風に冷やされた指先でスマートフォンをタップする。ゆううつだが乗り越えねばならない壁。母に電話だ。

 びくびくしながらも帰らない旨を告げると、母の声が鋭くとがった。


『千駄木に残るって、店の留守を預かるって……何言い出すの、あなた。今病気でお休みしているんでしょう?』

「家にこもってたら余計にひどくなる気がするし。だから出来ることはやったほうがいいと思うんだ」


 実際、ここに来るまでは腹痛は起こっていない。

 つまり電車がだめなのではなくて、仕事がストレスだったのではないだろうか。

 家に居ても余計なことを考えて心がどんどん腐ってしまう気がしたし、ここで少しは動いた方がいい気がする。

 だが母は渋った。


『でも、やっぱり反対よお母さんは。素人が迷惑かけるだけじゃない。だいたい、あなたいつも途中で放り出すでしょ。ピアノだって水泳だって途中でやめちゃったじゃない。やっぱりできなかった~って中途半端で投げ出したらおばあちゃんが困るでしょう』


(投げ出したりしないし!)

 昔のことをいまだに持ち出されて思わずムッとする。

 確かに母の言う通り、習い事などは長続きしなかった。だけどそれは、母に命じられてやったから苦痛だったのだ。自分で選んで入った料理教室は途中で辞めたりしなかった。

 今回も、自分で決めたことだ。責任を持ってやり遂げてみせる。


「おばあちゃんが必死で頼んだんだよ? 困った人がいたら助けてあげなさいって、お母さん、いつも言ってたじゃない。おばあちゃんが退院するまでの孝行くらいさせて」

 他人への親切は強要するくせに、身内が困っているのに手を差しのべないなんて変だ。

『それは、そうだけど……でももうどう考えても引退の時期よ。病気は、もう無理だから店を畳みなさいってことじゃない。頃合いと思って──』

「頃合いって何!?」


 さすがに頭にきた。言って良いことと悪いことがあると思う。

 母も失言だと思ったのだろう。一瞬押し黙った。だが、すぐに正論で反撃した。


『だけど、それと亜紀のことは関係ないでしょ。仕事を休んでいるっていうことは忘れたらダメだからね』

「子どもじゃないんだし、わかってるよ。とにかく私、帰らないから。こんな時まで助けてあげないとかひどいし。おばあちゃん、可哀想でしょ」


 イライラがひどい。遅くきた反抗期だろうかと思うくらいに。

 母が、亜紀のために言ってくれていることはわかっている。過保護は愛情があるからこそ。だからこそ今までは素直にうなずいてきたけれど、今回はダメだと思った。


(今回だけは、お母さんの言うことは聞いちゃいけない気がする)


 そう思ったのはきっとあの絵を見たからだ。

 受験でも、就職でも、母の言う通りに安全な道を歩いてきた。安全圏だからと高校を選び、家から通えるからと近場の大学を選び、就職難だからと資格を取って、職を得た。

 筋書きだけ見ると、確かに順調な人生だと言える。

 それはそうだ。危険だからといって、挑戦しなかったのだから。挑戦せねば失敗などないのだ。

 だけどその弊害はどうだ。安全な道を歩くために、夢を捨てていた。祖母の店を継ぎたいという夢を実現不可能だと思い込んで。

 今、亜紀は自分がしたいことさえわからなくなっているし、与えられた仕事以外何もできないロボットのままだ。このまま、いくらでも代わりのいる人間ではいたくない。

 変わるための手がかりが今ここにある。そんな気がするのだ。

 重い沈黙がしばし続いたあと、


『亜紀』


 もう家に着いていたらしい父が電話を代わった。

『お父さんは賛成だ。亜紀には心を休ませる必要があると思ったからね。だけど、ずるずるそっちにいるのは反対だ。お母さんの言うことも一理ある。仕事先に迷惑をかけて遊ぶのはやっぱり社会人としては正しくない。やるならきちんとけじめをつけなさい』

 父の穏やかな声に、冷静さが戻ってくる。同じ正論なのだけれど、最初に同意をもらった分だけ、話が飲み込めた。扱い方をよくわかっている、と苦笑いが出た。


「うん。わかってる。……ちゃんとこれからのこと、考えるから」

『うん。それなら安心だ』


 父は頷くと声を潜めて付け加えた。

『おばあちゃんも喜ぶよ。ありがとう』


 父の声が胸に染みていく。

 だれかに必要とされている。その実感が、どうやら今の亜紀には必要みたいだった。

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