第7話闘技場にて【2】

 


「なに!? 死んだだと!?」




 支配人室に怒鳴り声が響いた。


 プルプルと震えて執務机を叩いたのはその部屋の主だ。


 体を固くした牢屋番が応える。




「はい! 教皇聖下がおこしになられている今日の最後の演出の為に、本人同意の上で修道院から連れてきた修道女が死亡しました! 死因は栄養失調と肺炎によるものと思われます!」


「何故その様な事態が起きた!?」


「それは…」




 追及された牢屋番が口ごもる。


 事実を言ったら怒られると思っているのだろうか。


 やましい事があるなら、なおさら聞き出して謝罪させたい支配人は、語気を強めて「言え!」と命令した。




「恐れながら、もうすぐ死ぬのだから、断食と言う名目で食事を摂らせなくていいという支配人の命令で、全く食事を与えておりませんでした!」


「……つまり私が悪いというのか!?」


「いえ、そんなことは……」


「ええい! もういい、死んだのなら代わりを用意しろ! 早急にだ!」




 自分が有責だったことに焦って支配人は話を変えた。あくまでも怒りながら言うのだから、大人のプライドとは錆のように厄介なものである。




「は、それについては先程目処が立ちまして……。急遽、見目のいい銀髪の少女が地下の猛獣小屋に送られてきました! その娘は締めに使えそうかと!」


「銀髪の少女か……」




 確か、ケセド教皇は少女趣味や稚児趣味があると宮殿内ではまことしやかにささやかれている。


 その少女とやらによっては、死んだ修道女よりも教皇の気を引けるかもしれない。


 支配人はしめたとほくそえんで言う。




「その銀髪の娘、私が直々に見定めてやろう。






 我らがケセド教皇に捧ぐ、生贄の儀式にふさわしいかどうか……な」






 *****






「この敷地の地下に、猛獣や剣闘士の待機所があるらしいですよ」




 相変わらず教皇の座る椅子のひじ掛けにふてぶてしく座り、足をぶらぶらさせていた茶髪の少年、グリム・ガルシアは思い出したようにそういって、闘技場の地図を広げる。




「へぇぇ~! そこにいったらうっかり俺も剣闘士と間違えられて試合に出れたりせんかな? 千人抜きだと思うんだけどな~~~! みてあの人、滅茶苦茶へちょくない? 絶対この試合あの人負けるよ! 大丈夫、俺預言者だか……ああぁん勝っちゃったか~~~~! なぁぁぁぁんでぇぇぇぇ???? 」


「……エリオットくん、純粋に楽しみ過ぎてない? 僕たちは公務の付き添いだけでここに居るんじゃないんだけどなー」


「え? まって、何かほかに用事あったっけ?俺覚えてないですけど」




 一人で三人分くらい喋って興奮している近衛兵のエリオットをグリムは咎めるが、彼はさも「あっけにとられています」という顔をして聞き返す。


 グリムは本日何度目かわからないため息をついた。




「そんな大事なことも覚えてられないような、脳みそまで筋肉で出来てる人は当てにできないね。任務は僕一人でやっておくよ。君はどーぞ楽しんで」


「脳みそ筋肉?いや俺の脳凄いけどね!? イルカより皺多いよ!もうしわっしわで蟹みそって感じよ!? 任務マジで覚えてないからよろしくお願いします! ありがとうございまぁす! 足手まといはここで試合エンジョイしてるから! 応援してっから! 剣闘士を!」




 何を言ってもエリオットはこたえそうもなかった。


 試合を見るのが億劫で、もうただ日向ぼっこし始めた教皇は「ははは」と大口をあけて笑っているが、グリムには何が面白いのかわからなかった。腹立たしいだけである。


 彼はまたため息を一つついて、素早い動きで天井の通気口に入り込んだ。


 そのしなやかな身のこなしは、一般人に見切ることは出来ないであろう。




「さて、剣闘士の間で流行ってるらしい飴とやら……本当にカンタレラだったら、この闘技場の関係者に売人が居るってことだから……


 今日は顔だけでも覚えて帰りたいかな?」




 グリムはそういって、暗い穴の中に消えていった。






 *****






「フライア夫人……」




 獣たちの唸り声が反響する、じっとりと薄暗い猛獣用の待機場で、場違いな少女の声がぽつりと落ちた。


 ロジンカは檻の中、掌に握られた白い飴を見つめている。


 自分の母だった人が別れ際、祈りなさいとロジンカに託したものがこれとは、本当に一か八かの賭けをしろという事だ。


 密かに流通しているその飴のことは、子供のロジンカでも知っていた。




 カンタレラ。




 これは飴などと言う可愛いものではない。そういう都市伝説が存在する。




 曰く、カンタレラは薬である。


 その薬は人を選ぶのだ。普通、この薬を飲んだものは血を吹いて死ぬが、選ばれた者だけは生き残る。


 それだけではない。


 カンタレラに選ばれたものはこの世の頂に呼ばれ、神の花の中から新たな神として生まれ変わる。




 普段なら神も迷信だと言ってのけるロジンカだったが、この時ばかりは縋りたい気持ちはあった。


 もう一つの隠された伝説を知ってさえいなければ。




「神となるには6つのカンタレラを飲む必要があり、6つに届かない間は、選ばれし者も、地獄の苦しみを味わう……」




 ロジンカは昔読んだ本の内容を復唱して、天井を仰いだ。


 その本は3000年前に現れた神、ルキフグス・ビナーが執筆したという本に書かれていた。


 10年前、新しい神として神の花より降臨したケセド・アスタロトは、教皇の座に就くなりこの本を絶版として、本が存在してという事実さえ歴史から消すようにと告げた。


 その理由までは誰も知らないが、本に書かれていた内容が事実なら、神が増えることによって世界が混乱に陥るのを防ぐためと考えられなくもない。




 何故ロジンカがその本を読んだことがあるかと言うと、本はあの離れ屋にあったからだ。


 10年前には既に使われなくなって、寂れていたあの場所にその本があるとは誰も知らず、廃棄命令が出ても忘れ去られたままだった。


 ロジンカだけがその本を見つけ出したのだ。




 掌にある白い飴の感触は、何度握り込んでも一つだけ。




 ロジンカはくじけそうになって蹲る。


 その振動で、ロジンカの檻の真下にある黒豹の檻が軋んで、寝ていた獣が唸った。




 一つだけでは、ダメなのだ。


 一つだけでは足りないのだ。


 フライア夫人は本に興味がないから読んだことが無かったのだろう。


 中途半端な噂だけ知っていて、その認識で今もロジンカの無事をぐちゃぐちゃの情緒で祈っているのだろう。


 ロジンカだって無事のままエミリやスカーレットとまた会いたかった。


 生き残れたら、夫人が望んだ「いい母になる」ということに、もう一度チャンスをあげられたかもしれないのに。




「……ルトゥム……」




 そして何より気がかりなのは、ずっと脳裏をちらついていたのはやはりあの黒猫だった。


 森に送られたというが、大丈夫だろうか?


 確か先生が、今あそこには狼が出ると言っていた。


 もし、襲われていたらどうしよう。


 私が銃を持って傍に居たら、全部打ち抜いて守ってあげられるのに。


 ルトゥムを運んだ人は誰だろう?


 トーマスが送ったのだとしたら、どうか慈悲をかけてあげて欲しい。


 無事でいて欲しい。


 生きていて欲しい。


 また会いたい。


 会いたい。




 私も、




「生きたいよ……ルトゥム……!」




 ロジンカは檻の鉄柵を掴んで泣いた。


 小さな子供のむせび泣きは、猛獣たちの唸り声の中に消えていった。






 *****






「ん~?ここは動物さんたちのエリアかぁ……


 地下の地図は流石にないから迷いそうで困るね」




 グリムはそう呟いたが、実のところ別に何も困ってはいない。


 大体この辺りに猛獣の檻が置いてあるのだろうという事は予想していた。


 剣闘士の待機所に用があるのにこちらの様子を見に来たのは、この目で内部構造を記憶するためという建前もあるが、理由の大部分は好奇心だ。


 そこまで任務に忠実な訳でもないグリムは、ちょっとこのダンジョンめいた珍しい建物を探検してみたかっただけだ。気分は観光である。




「お疲れ様で~す」


「おい君!ここは部外者立ち入り禁止だぞ!」




 訝しがる牢屋番の前を悠然と通り過ぎようとしたグリムは、当たり前だが呼び止められた。




「まったく何処から入り込んだんだ? きみ、保護者の方は?」




 牢屋番が少年の肩に手をかけようとした瞬間、グリムは牢屋番の頭に目にも止まらぬ速さで何かを飛ばした。


 すると、牢屋番は突然意識を失い倒れ込む。


 彼の額には細い針の様なものが刺さっていた。




「触らないでくださいよ。汚いなぁ」




 まだ触れられてもいなかった肩を、嫌そうに埃を払うと、再び歩き出す。




「思ったよりも勤勉だなぁ。みんな寝ててもいいのに、僕が楽だから……。ええっと、こーっちが……? ああ、小さめの動物さんたちの棲み処かぁ。さっきのとこには魔物までいたからほっとするね」




 縦に積まれて、所狭しと立ち並ぶ檻たちは、先ほど歩いていた場所の檻より格段に小さいが、それでも人の子供が入れるくらいの大きさはあった。


 中にぎゅうぎゅうづめにされた動物たちを少し哀れに思うが、それよりもその動物たちの種類の多さに舌を巻いた。


 大きな檻の中、群れで閉じ込められている動物もいたが、単体で放置されている動物たちは特に見たことがないものばかりだった。




「なにこれ……鳥さん? それともモグラさん……? あっちの動物さんは微動だにしないし……変な鳴き声ばっかりだ」




 こうも珍しい生き物ばかりだと、自分でも知っている生き物がいないか気になってしまって、グリムはあっちに来たりこっちに来たりして探してみた。


 中々見つからなかったが、それはかなり端の方で、檻の中小さく横たわっていた。




「人間の……女の子までいる。悪趣味だなぁ」




 短い感想を漏らしたグリムは、思っていたのとは違ったが、やっと見つけた知っている生き物の顔を覗き込む。




 長い銀の髪を体の下敷きにして眠る少女は、檻の中という非現実的なシチュエーションも相まって、絵画のように神秘的な雰囲気を醸し出していた。


 泣いた後なのだろうか、涙の痕跡が残る頬は薔薇のように赤らんでいる。




「随分……綺麗な子だな……」




 グリムは柄にもなく見とれてしまった。彼女を見ていると、その艶やかな髪や、薄紅色の唇に触れてみたい気がしてくる。


 そして、不思議とどこかで彼女を見たことがあるような感じもした。


 その銀の睫毛の下には、どんな色の瞳が収まっているのかが気になった。




 ちょっと起こしてみようかな?


 エリオットほどではないのだが、好奇心旺盛なグリムも思い付きで行動するところがある。


 ついでに言うと、泣き疲れて眠っている少女を起こすことに何の罪悪感も沸かない性質だった。


 瞳を見たら、彼女に抱く既視感の原因を思い出せるかもしれない。




「お嬢さ~ん、おじょ~さん! ちょっと起きて、お顔み~せ~て~」




 革の手袋をつけた手で、グリムは容赦なく彼女の頬をつついた。


 一度気になったらしつこいグリムは、少女が起きるまでつつき続ける心づもりだった。




「……ぅう?」


「こんにちは、可愛らしいお嬢さん!」




 疲れ切っていたのか、中々目を覚まさない彼女は暫くしてからようやく意識を取り戻し始めた。


 まだぼーっとしている少女に、満面の笑みで本題に切り出す。




「ちょっと僕におめめ見せてね?」


「え? あの……」




 起きたばかりだからか少しかすれてしまっているが、鈴のなるような澄んだ声だ。


 寝起きで着崩れた彼女は、子供ながらに仄かに煽情的だったので、グリムは心の中だけで口笛を吹く。


 そして困惑してやんわり開いた瞳は、彼女が纏う神秘的な雰囲気をさらに強くさせるヴァイオレットだった。


 こんなに容姿の整った少女を忘れることなど無いだろう。彼女はそれだけ印象に残る姿をしている。


 グリムは確信した。彼女に見覚えがあるのは、実際にあったことはないけれど見たことがあるからだ。




「君の名前を当ててあげるよ。ねぇ、ロジンカ」




 グリムはうっそりと微笑んで彼女の名前を呼んだ。




「? どうして私の名前を……?」


「どうしてかなぁ~? あーあ、見つけちゃった。僕のお父さんは君に会いたがってたけど、黙っておこうかな~? 内緒にしておいて、誕生日に君の首でもプレゼントしたら彼は喜ぶかな? ねぇロジンカさんはどう思う? 」




 彼はロジンカの頭を無遠慮に撫でながら、絵本を読むように穏やかな声で意味の分からない言葉を紡ぐ。


 さっぱり理解できないロジンカだったが、「誕生日に首をプレゼントする」というフレーズだけが妙に頭に残って背筋を凍らせた。




「……あなたの父上は、私の事が嫌いなのですか?」


「そんなことないよ! 大好きだと思うよ? だからあげたら喜ぶかなって。わかんない?わかんないかぁ。君は何にも知らないらしいからねぇ」




 大好きなのに何故首を?


 子供にはわからないだけで、そういう言い回しがあるのだろうか?


 それにしたって、彼の事も知らなければ彼の御父上にも心当たりがない。


 縁談を下さった人の中にいたのだろうか?でも息子がいるなら既婚者だろう。




 考えれば考える程に彼の事がわからなかった。




「……そうだ!ルトゥム……!」




 ロジンカはハッとする。そもそもこの人に惑わされている場合じゃない。自分は今、やるべきことがあるのだ。




「あの! あなたのお名前は?」


「え? 僕?」




 グリムは何を想像していたのだろうか、浮かれた表情のまま問いかけに反応した。




「僕の名前、知りたいの? どうしよっかな~? 教えたくないな~……」


「なら、教えて下さらなくて大丈夫です! 私の家族を助けて下さい!」


「え? 家族?」




 先程まで恍惚としていた彼の表情が一変した。


 ただの変わり者の少年だと思っていた彼から、狂気的な殺意が漏れ出す。


 切れ長の目が、更に鋭さを増した。




「家族です……私の……」


「へぇ……僕家族ってカンケイ、嫌いだなぁ……表向きは仲良しこよししてても、家の中っていう小さい箱の中じゃ皆本性出すでしょ?


 家族だから許されるって思ってるけど、相手が自分とは何もかもが違う別の生命だって忘れちゃうんだ。悪夢みたいでいやだよね。


 本当に仲のいい家族もそれはそれで見てるとイライラするし。


 君が助けて欲しいのは良い家族なの? それとも悪い家族なの? 


 そしてその家族さんを助けたら、君は僕にどんなご褒美をくれるのかなぁ?」




 矢継ぎ早に繰り出される敵意のある言葉に、ロジンカは縮こまる。


 どうやら彼にとって「家族」と言う言葉はそうとうな地雷らしかった。


 自分から「お父さん」というワードを出したのにこの反応をされるとは想像しがたかった。




 それでもロジンカは怯えてなどいられない。ことは一刻を争うのだ。このチャンスを逃すことは出来ない。




「嫌な気分にさせてごめんなさい。彼は家族である以前に、私にとって一番大切な人なんです!


 今はきっと郊外の森に居ます! 狼に襲われているかも知れないんです! 彼を……


 ルトゥムを助けてください! 」




 ロジンカは鉄柵越しにグリムに手を伸ばすが、その手は強く叩き落とされる。




 駄目だった……?


 と、ロジンカは痛む手よりも、ルトゥムを助けて貰えないのだと思ったが、グリムは触られたくないだけだった。




「ルトゥム……?ああ、例の……。君たち一緒に居たんだねぇ? 僕が聞いた感じじゃ、彼は狼くらいなら大丈夫だと思うんだけど……? まだ出会って日が浅いってことなのかなぁ……。どうしようかなぁ~……面白くって悩んじゃうなぁ~」




 ルトゥムという名前を聞いて、彼は何故か殺気を収めた。


 しかし、言ってることはやはり要領を得ない。


 彼とルトゥムは知り合いなのだろうか?




 そんな考えが頭を過って初めて、ロジンカはルトゥムの事をあまり知らないことに気づいた。


 生まれは何処だろう。


 結局、人狩りにあったのか奴隷の血筋だったのかどちらなのだろう。


 本当の家族は? 村という場所に友達は居たのか?




 2人で一緒に居ても、ルトゥムは余り自分の事を話さなかった。


 口下手な上に少し情緒が幼いところがあるので、言葉に出来ないだけかもしれない。


 いつか教えてくれるだろうと見守っていたが、圧倒的に情報が少ないという事実は存在する。




(もしかしたら、この人の方がルトゥムの事を知っているのかしら)




 若干敗北感が湧いたのは否めないが、知り合い同士なら話が早い。この人は変わり者だけど、ルトゥムの事を助けてくれるのではないか。




「……うん、そうだね」




 誰かと話を終えたときのように、グリムは相槌をうつ。




「話し相手になってくれてありがとう。


 ルトゥムさんはなんとかなるよ。安心してね。」


「……っ! 本当!?」


「うん。だってどう考えても、彼は無事だよ」


「……え……?」




 ロジンカは、グリムが何かしらの手段でルトゥムを助けてくれるものだと思い込んだが、その考えは瞬時に覆された。


 グリムは、あくまでルトゥムは自分の力で窮地を脱するのだと予知したように語る。


 それがあまりにも当然のような顔で告げられてので、ロジンカも段々と彼は無事でいるのではないかと、不安が薄れていった。


 確かに、初めて会った時の情人離れした、戦いに慣れているような動きをしていたのは覚えている。


 あの調子で狼の群れも一蹴出来てしまうのだろうか?


 ……でも、ただの子供にそんなことが?




「ふう~、僕、君っていう面白いものに出会えたから一旦持ち場に戻るよ。じゃあね」


「あっ!待ってくださ……」


「ん~?」




 すっかり落ち着いた様子に戻ったグリムに、ロジンカは最後のお願いをした。




「あの、すみませんがここから出してもらえますか……?このままだと私、殺されてしまうから……」


「……ん? じゃあ死んだらいいんじゃない?」


「えっ?」




 なんという事は無いという風にグリムは言った。


 言われていることが理解できなかった。




 先程までちょくちょく緊迫感はあったながらも、笑顔で話してくれていたし、一応出会えたことを喜んでいたようだったのに、




「死んだらいいんじゃない」と言ったのか?彼は。


 驚愕を隠せないロジンカに、グリムはうざったそうに続ける。




「お父さんは君の事好きだし、ルトゥムさんもそうらしいけど……、僕別に君のことはどうとも思ってないし……助けたってねぇ~?


 それよりも僕、君をここに置いてったらどうなるのかが気になるよ。


 ここ一応猛獣さん置き場だし、餌になるのかな?」




 そして、無邪気な笑顔を浮かべ言った。




「君が死んだら、その両目は貰っちゃうね? 凄く綺麗な色だから気に入ったんだ」




 そう言って彼はそよ風のようにその場から消えた。




 ロジンカは震えが止まらなかった。


 何なのだろう、あの静かな狂気に満ちた少年は。




 餌にならない限り、死んだら埋葬されるものだと勝手に思っていたが、彼に存在を知られた今となっては、自分の死体を漁られる可能性もあるわけだ。


 ルトゥムが生きているなら、いつか墓参りに来てくれるかもしれないのに。




 ロジンカは想像してしまった。


 ルトゥムが花を添えてくれた土の下の自分、その顔にぽっかりと開いた眼孔を。




 余りの寒気と恐怖に幼い心は耐えきれず、涙がこぼれる。






 *****






「ここかね、例の少女の檻は」


「はい! もうすぐです」




 獣たちの声にかき消されていた足音と人の気配が近づいてきた。


 どれほど時がたったのだろう。恐ろしさで何となく息をひそめていたロジンカは、気配がする方を向いた。


 そこには真っ赤なタキシードに身を包んだ小柄な中年男性を、牢屋番らしき男性が案内しているようだった。


 彼らはこちらに向かってきているらしい。




(もしかして……)




 助けてくれるのだろうか? 


 それとももう自分が獣の餌になってしまう時間になってしまったのか。




 後者の可能性が高いと思って、ロジンカは白い飴玉を口の中に隠した。決して飲み込まないように慎重に、小さな下の裏に転がす。


 薬なので、溶けてしまうだろうが仕方がない。


 飲むつもりはないがカンタレラは表では流通していない貴重品だ。


 手に持っているのがばれたら取りあげられてしまうだろうから。


 フライアが最後に心を開いて、自分に託してくれたものを奪われたくはない。


 役に立たないとしても、せめて墓まで持っていくつもりだ。




「ほう、これが……」




 悪趣味なタキシードの男は、やはりロジンカの檻の前で足を止め、嘗め回すように彼女を見た。




「君はぁ……、処女かね?」




 ロジンカは、最初その質問が自分に投げかけられているのものだと思わなかった。


 余りにも不躾で失礼な問いに固まるが、数秒して、ここで悪印象を与えてしまえば何をされるかわからないと考え直し、恥を忍んで「はい」とだけ答えた。




「ほほぉ? 親から捨てられるような少女でも貞節を守っているとは、ずいぶん厳しく育てられたな。


 父に感謝することだ。私からも感謝を捧げよう。


 丁度いいタイミングで生贄を送ってくれてありがとうとな。」


「い、生贄……?」


「そうとも! 誇りに思いたまえ!」




 生贄とは何の比喩だろうかと思ったが、どうやらそのままの意味らしい。


 中年男性は口ひげを整えながら、うっとりとした表情で夢を語るように言葉を紡ぐ。




「そうともそうともそうとも……!今日はケセド教皇がこの私の闘技場にお越しになられているのだ!この上ない光栄に報いるべく、私は本日の最後に生贄の儀式を用意していた!


 古き良きじたいより、神とは生贄を欲しがるもの。


 我々は愛する神の為に、様々な生贄を捧げて今日まで生きてきた!


 しかしケセド聖下は、神としてこの世に降臨なされてから一度も生贄を欲しがっておいでで無い……。実に自分に厳しく禁欲的なお方だ!


 しかしここはコロッセオ、この世一番の娯楽が得られる闘技場と言う場所だ!


 今日ばかりは聖下にも地上の法悦を! 愉悦、享楽、悦楽を!


 忘我のまま、夢を見たような気分で宮殿にお帰りになってほしい!


 だからこそ、私は歴史上もっとも善いとされる神への貢物を見繕った!


 一つ! 見目麗しい乙女であること!


 一つ! 穢れを知らない処女であるこ1と!


 男神にはこれが一番気に入られるいう




 それが君だ。ロジンカ・イェソド!


 わかるかい?」




 熱に浮かされたように、星に語り掛けるように中年男性は語り、ロジンカを熱いまなざしで見据える。






 ロジンカは、これは悪い夢かと思った。


 随分滑稽な夢だ。




 彼女は神など信じていなかった。




 しかし、母だった人にカンタレラを託され、神に祈れと言われたから


 彼女が少しだけ神に縋ろうとした途端


 生贄になる運命を知らされた。




 私は猛獣に食われるのではなく、




 私は神に救われるのではなく、




 ただ、信じようとした神の餌になるのだ。






 ロジンカは思わず笑った。力なく己を嘲笑した。






「さあ! 主役は決まったんだ、こうしてはいられない!


 最高の演出を用意しよう! 


 世界で一番君に似合う豪華で可憐な服を見繕う!


 戦いを嫌う心優しい我らの神に、とびっきりのデザートだ!」




 柔らかな飴はいつの間にか半分ほど溶けていた。


 苦しみも喜びもない。


 やはりカンタレラなどただの迷信なのだろう。


 もしくはカンタレラの名前を借りた偽物、


 ただの白い飴だったのだ。




 もういい、全て諦めた。




 小躍りしながら化粧部屋へと向かう中年男性の後を、ロジンカは自らついていった。






 ――ガリッ……




 飴を噛む音が、口内に響いた。

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