第6話闘技場にて

「はは、気が重いな」




「何言ってるんです? この世一番の娯楽施設の一等席ですよ」




「あーーっ! みてみてみてみてあれ何! ? あれ首なっが! なっが! 俺あれに賭けます! あの首長くて黄色いの! 




 え、あれ? 弱いんか~い。……デカいのに……見掛け倒しかーーー……。賭けんでよかったわ~! 」








 首の長い動物が大きな音を立てて倒れ伏す。




 勝利した人間は勝鬨の声を上げ、観客席に向かって剣を掲げた。








「うおおおおおおおお!!! 」




「いいぞいいぞ! 」




「次も勝てよーーー! 」








 歓声と言うよりも怒号に近いその音は、闘技場の外まで聞こえていた。








「耳が割れそうだ……どうにかならんか? 」




「ならんです~ぅ。これも公務なのでね」




「え、あれじゃないっすか? ここで闘技場歓声禁止のお触れだしたら止まるくないっすか? 








 だってあなた教皇サマだし? 」








 地に着くほどに長い、艶やかな青髪、憂いを帯びたサファイアの様な瞳。




 教皇と呼ばれたローブ姿の背の高い青年は、軽い調子で提案してくる言葉を「それは無しだ」と、すげなく却下した。








「歓声をあげるのもこの娯楽の醍醐味なのだろう。うるさいというのは俺の我儘だからな。皆に窮屈な想いをさせるつもりはないぞ。ははは」




「あー、はいはいご立派ご立派。素敵な教皇様に国を統治していただいて嬉しゅうございますケセド教皇~~。」








 あしらうようにそう言ったのは、教皇が座っている重厚な椅子のひじ掛けにもたれかかっている切れ長の赤目の少年だ。特に着飾っているわけでも無ければ衛兵のように鎧を身に纏っているわけでも無いその姿は、教皇の為に用意されたその場には似つかわしくなかった。




 整えただけの短い茶髪と隠しもしていないそばかすを見るに、きっと見目を気に入られて侍っているのでもないのだろう。








「だよね~!  っじゃなかった!  で、ございましあられまする?  え?  ……とりま俺はこんな感じの方が楽しいんで!  お二人の分まで楽しむんで自分!  まかせてくださいよ! 」








 元気に頓珍漢なことを言うのは近衛兵の姿をした幼げな雰囲気の青年。




 長身で柵に身を乗り出し、プラチナブロンドの髪を風に撫でられ、青い瞳で無邪気に試合を見つめていた。








「ご歓談中失礼いたします。我が教皇よ、お楽しみいただけておりますかな? 」




「俺はとっても楽しいです!!! 」




「……ありがとうございます。え~と、あなたは? 」








 暗がりから出てきた闘技場の支配人の言葉に、近衛兵の青年は食い気味に反応した。




 彼の事を全く知らない支配人はわかりやすく戸惑って引きつった笑顔を浮かべる。








「知らないんですか?  エリオット・マーティンです!  正直自分のこと、そこの青髪のお兄さんより有名だと思ってました!  ちょっと大きく出すぎたかな?  ……冗談ですけどね!  」








 エリオットが「そこの青髪のお兄さん」と指さしたのは紛れもなくケセド教皇だった。




 あははと笑って悪びれもせず頬を掻く姿に支配人は一瞬ぽかんと口を開けたままだった。








「んな! ?  聖下に何を不敬な……! 」




「ははは、気にするな。俺も実際10年前までは無名だったわけだからな。」




「エ? 」








 教皇は笑顔を崩さないどころか、エリオットの発言に若干ウケていた。








「しかし!  今のは余りにも無礼です!  この場で介錯を……」




「支配人殿。俺はな、民の殺し合いを見る娯楽よりも、こいつの冗談の方が何倍も好みでな」




「っ……なんと……それは……っ大変失礼いたしました……! 」








 突然の爆弾発言に支配人は驚き、うろたえる。娯楽の少ないこの時代、闘技場が嫌いな人など見たこともなかったのだ。




 頭を掻いて彼は食い下がる。








「し、しかしご安心下さい!  今日の催し物は決闘と猛獣退治だけではございません!  ……っそう!  捧げものを!  我らが教皇に聖なる捧げものをご用意しております!  本日の最終試合の後に準備してございますので……!  それまでに気に入る試合がきっとあります。どうか最後まで見ていってください! 」




「……聖下~? 」








 エリオットは強請るように教皇を呼ぶ。




 呼ばれた本人は相変わらず笑顔のまま、








「エリオット、お前がみたいなら仕方がない。今日はこのスプラッタ劇場で夜を明かそう」








 と、快諾した。








「やった~~~!! 」




「あ、有り難き……幸せです」








 一連の流れを見守っていた茶髪の少年、グリム・ガルシアは、








「……公務でごますりしにきたってのに、この人たちは……」








 そう言って、肩をすくめて呆れてみせた。












 *****












 どれくらい眠っていたのだろう。ロジンカは酷い頭の痛みで目を覚ました。




 彼女がいたのは静まり返って揺れる馬車の中。




 ロジンカが目を覚ましたと二人の女中が気づくと、泣いて喜びながら、ロジンカの隣に座っていたお母さまに声をかける。








「奥様!  奥様……! お嬢様が目を覚ましました! 」




「まだ死なずにいてくれた……良かった……! 」








「なにを喜んでいるの? 」




「え……」








 手を繋いで喜び合う女中たちに、お母さまは固い声でこういった。








「……今死ねていれば、なにも闘技場で見世物にされながら獣の餌にされることも無かったのよ」








 ぽつりと落とされた言葉に、女中たちは悲し気に縮こまる。




 その様子を見てロジンカは全てを理解する。








「私、闘技場送りなんですね」








 痛む頭を押さえてロジンカは確認した。








「そうよ。恨むならバカげたことを言ったあの子を恨むのね」




「……恨みません。まだ私、死んでないから」








 そう言ってロジンカは痛みに耐えるため目を瞑る。




 ようやく頭以外の場所もかなり痛い事に気が付いたので、話している場合ではないのだが、ルトゥムを責めることはないとだけ伝えておきたかった。




 そして、まだ死ぬつもりもないという事も。




 その一言に女中たちは勇気づけられた。妹のように思って世話をしてきた彼女がまだ生きることを諦めていないなら、自分たちはまだ悲しんではいけない。








「そうですよね お嬢様!  意識をしっかり保っててください!  きっとなんとかしてみせますからね! 」




「奥様、お嬢様を助けてあげましょうよ。ここで馬車を止めて、どこか安全なところへ……」




「あなた、この馬車をあの人が走らせているのを忘れたの? 」








 お母さま……、いや、最早ただの夫人が冷たく言い放つと、女中は2人そろって肩を落とした。




 そう、この馬車を運転しているのは他でもないあの男、ロジンカのお父さまだった彼だ。




 途中でこの馬車を止めるなど、できるはずがないのだ。








「じゃあ、どうすれば……」




「どうもしないでいて頂戴。あなたたちが何かしたら、責任をとらなければいけないのはこの私よ」




「そんなこと言っても……! 」




「奥様!  お嬢様を助けたくないんですか! ?  奥様のお子さんなんですよ! 」








 女中達は感情的に訴える。二人ともロジンカを助けたい一心だったが、夫人に対してそれは悪手だった。








「私の子……………ですって? 」








 夫人は黒いフェイスベールで隠された顔を歪め、女中たちを扇子で指した。








「知っているのよ私は! あなたたちだって、ずっと陰で私の悪口を言っていたんでしょ! いつもクスクス笑いながら、私の事を子無し女だって馬鹿にして……! 」




「え……? 子、無し……でもお嬢様は……? 」




「落ち着いてください!  奥様にはお嬢様がいらっしゃるではありませんか! 」








 怒りを浴びながら女中たちは困惑していた。夫人が何を言っているのかが全く理解できていなかった。彼女たちは夫人の陰口など言ったことはない。至って真面目に仕事をしていただけの優等生たちだ。




 そして、彼女たちの同僚の誰ほとんどが、ロジンカが養子だとは知らなかった。ましてや奴隷市場で買った子供を自分の子としていたことなど、夫人も男も、誰にも知らせていなかった。








「……お母さま、それは」








 一人全てを知っているロジンカは夫人を止めたかったが、体も口も思うように動かない。




 涙声で夫人は誰かわからない相手を責め始める。








「いつもいつも聞こえていたのよ!  お風呂に入っている時も食事を摂るときも、寝る時だってあなたたちはこそこそ噂していたじゃない!  




 ロジンカに優しくすれば【うわべだけは完璧ね】!  




 辛く当たっている時は【やっぱり自分の子じゃないから】って! 




 しまいには一人でいる時ですら、【やっぱり他人の子はいらないのね】って言ってたわ! 全部覚えるのよ……! 耳をふさいだら今度は頭の中にまで! 




 全部全部知っているくせに、表向きだけは丁寧に接してくるのが怖かった! 




 もういい加減にして!  もう何も言わないで!  そんなにいうならいいわよもう!  お望み通りこんな子捨ててあげるから!  ……だからもう、一人にして!  私の頭から出ていって! 」








 それは切実な痛みの籠った独白だった。




 思いの丈を二人にぶつけた夫人は肩で息をして、座席に座り直す。




 数秒で佇まいを戻すその姿は、気品だけが心の支えのようだった。








「……お母さま、いつもそう思って過ごしていたんですね」








 全て聞き終えたロジンカは、目を閉じたまま声をかけた。








「そうよ……!  あなたに優しくしたときもあったけど、全部周りの声を黙らせたかったからだわ!  あなたの事なんて何一つ考えなかった!  自己中心的な保護者で悪かったわね!  」








 夫人は、お母さまだったその人は、ただ耐えられなかったのだ。




 女性として生まれながらに課せられた、子供を産むというこの世界では強迫観念のように存在する責務を果たせていないことに……耐えられなかった。




 そして知らず知らずのうちに心を壊してしまった。




 頭の中で聞こえたという嘲笑は、その実全て、彼女自身が心の奥底で思っていたことだった。








「それじゃあ……もう、疲れちゃいましたね」




「……ええ、疲れたわ。もうどうなったっていいくらいに」








 しかしロジンカはそれをわかっていても、彼女に事実を伝えられなかった。




 あなたに敵などいなかったと伝えたとしても、彼女に自分を責める声が聞こえているのは事実なのだ。




 否定して何になるだろう。




 ロジンカの、ただの子供の言葉には、かかった呪いを全て断ち切ってやれるほどの魔力など無い。








「ずっと頑張ってくださって、ありがとうございました。フライア夫人」








 夫人の瞳が涙で曇った。




 ロジンカのその一言だけは、どうしてか悪意を感じ取れなかったから。








「本当に、最後まで気に入らない子」








 フライアの厚化粧は、涙で少し崩れてしまった。












 *****












「全員、降りろ。」








 御者台にいた男が、厳しい声音で馬車を止める。




 女中に支えられながら、ロジンカも灰色の石畳に足を付けた。








 着いたのは闘技場の正門ではなく、裏口の方だ。




 ここは人の出入りがまばらだが、会場から響く歓声の大きさは嫌なほど伝わってきた。




 誰もがせかせかと歩いて、ロジンカ達に一瞥もくれずに素通りした。








 遠くで男と話していた警備兵がこちらに駆け寄ってくる。




 逃げることを最早諦めたロジンカは両手を前に差し出し、その手には木製の枷がはめられた。








「お嬢様……!」




「生きて下さるんですよね? 今生のお別れではないですよね……?」








 女中の二人は泣いてロジンカを抱きしめながら、不安を吐露した。








「大丈夫です。すぐにまたお会いしましょう。エミリ、スカーレット。」








 立っているのもやっとな体でロジンカは二人を抱きしめ返す。




 もう少し小さかったとき、ロジンカは良く寝坊した。まだ寝たいと寝言をいうロジンカを叩き起こして朝食を食べさせたのは、この年の近い二人の女中たちだった。








(今までありがとう)








 安心させるためにまた会おうと、死ぬつもりはないなどといったが、ロジンカ自身、この先生きていけるビジョンが全く見えないところにいた。




 この場で失血死すらあり得るのだ。闘技場の中で、どうやって生き続けろというのだろう。








 ゴトゴトと鈍い音をたてて、ロジンカがはいる檻が運ばれてきた。




 大人は入れないだろうその小さい檻に、ロジンカは押し込まれた。




 抵抗は一切しなかった。正直もう生きる手立てが見つからなかった彼女には、できるだけ潔く、誰にも迷惑をかけずに最期を迎える以外の道がわからなかったのだ。








 車輪のついた檻は動き始める。








 女中は二人、手を繋いで茫然としていた。








 もっとロジンカが小さかったころ、彼女が寝る前に必ず絵本を読んだ。




 彼女がうとうととし始めると、エミリのスカートの裾を握って眠ってしまって、仕方なく彼女のベットで眠る事が度々あって、それは三人だけの秘密だった。




 三人が庭で遊んでいた時、スカーレットが脚を挫いたときがあった。




 ロジンカは歩けないスカーレットを背負って館に帰ろうとしたが、5歳年上のスカーレットは持ち上がらなくて、ロジンカの微々たる力に、痛みを忘れてスカーレットは笑った。結局二人尻もちをついた。








 ロジンカとの思い出が走馬灯のように駆け巡った。








 そのどれもが愛しい記憶で、目の前で獣の様な扱いで連れ去られていく彼女と繋がらなかった。








「どうして……………?」








 エミリが呟く。








「ロジーちゃん……………」








 スカーレットが、三人だけの時の呼び方でロジンカを呼んだ。




 もうロジンカには聞こえない。既に闘技場の裏口の中に行ってしまった。




 余りにもあっさりとした別れに呆けていたのは二人だけではなかった。




 フライアも、十年近く娘としてきた少女が連れていかれるのに現実感を感じられていなかった。








「何をしている! 帰るぞ」








 冷たい男の声が響いた。苛立ったその声で、フライアは正気に戻る。








「……あなた、お待ちになっていて!」




「なんだと?」








 彼女は二人の女中を置き去りにして走った。馬車の方ではなく、闘技場へ。








 フライアは思い出す。




 ロジンカがまだ赤ん坊だったころ、いつだって彼女は抱っこをせがんだ。




 膝の上に乗せたらそのまま寝てしまうことが多かった。




 夫に怒鳴られた後でも、ロジンカの所へ行って一緒に積み木で遊べば楽になった。




 どこからか自分の悪口が聞こえるようになってきてからも、彼女はフライアを見るといつも笑ってくれた。




 その笑顔があまりにも無邪気だからか、フライアはロジンカの声の影口を聞いたことが無かった。












「まって!最後に話をさせて!」








 走る為の構造をしていないフライアのハイヒールがいとも簡単に折れた。












 いつからかロジンカの首を絞めるようになった。




 酷い言葉で彼女を罵るようになった。








 ロジンカなら許してくれると無意識に思った。




 結局彼女を拠り所にしていたのだ。












「衛兵! 止まって! お願いよ!」




「フライア! 何をしている? 戻れ!」








 男が御者台から降り、フライアの後を追おうとするが、エミリとスカーレットが立ちふさがってそれを止める。








「お願いします旦那様! 少し待ってください」




「罰なら私たちが受けますから!」








 フライアは夫の声も聞こえていなかった。




 余りにも走りにくい、折れたヒールを脱ぎ捨てる。








「ロジンカ! ロジンカ!」












 ――どうして私は、素直に辛いと言えなかったのだろう。








 弱音を弱音として吐いてしまえばよかった。その方が、首を絞めるより何倍もよかったはずだ。








 強くありたかった。あの子が養子として肩身の狭い想いをしないように。私が何より「あなたは私の子だ」と言ってあげたかった。




 あの子だけが私を母にしてくれていた。いつもあの子は味方でいてくれたのに。




 何処までも優しく全てを受け入れるあの子にいつの間にか甘え過ぎた。あの子に溺れてしまっていた。




 私以外のほとんどの存在に優しい彼女が嫌だった。




 私はロジンカしか見ていないのに、どうしてあなたは私以外にも優しくするの?




 私を苦しめる使用人たちにも、夫にも。




 私だけを愛してほしかった。そうして彼女の唯一無二の存在のままでありたかった。




 彼女だけが私の支えだったから、彼女の支えも私だけが良かった。








 ―――ああ、そうか。私はまだ子供だったのだ。








 胸からこみあげてくる思いは全てが幼稚だった。余りにも子供じみた想いの数々に気づいて、フライアは己を恥じる。












「ごめんなさいごめんなさい! 良いお母さんになるつもりだったのに、私にはその資格がなかった! あなたより幼稚な子供だったわ!」








 大きな扉をくぐり、薄暗い通路に入る。




 フライアはとうとう檻に追いついた。




 警備兵たちが困惑しながら彼女に槍を向けるが、夫人は服が裂けるのも気にせず檻の中のロジンカに手を伸ばした。




 夫人のフェイスベールが帽子ごと地に落ちて、乱れた長い髪が揺れる。




 昔はカラスの濡れ羽色だったその髪は、今は白髪となって、ロジンカの銀と合わさると、本当の親子のようだった。








「許されなくていいの。でも私は祈るから。あなたが生きて、いつか幸せになることを……!」




「……フライア夫人……」








 困惑しながらもロジンカは頷いた。枷をはめられた手で、差し伸べられたフライアの手を握る。




 そして、その手から何かを受け取った。




 フライアは警備兵に聞こえないよう、小声で伝える。








「それは、カンタレラよ。あの人の書斎にあったの」




「……え!?」








「ここは部外者立ち入り禁止だぞ! さっさと出ていってもらおう!」








 闘技場の警備兵たちが荒っぽくフライアを引きずって外に連れ出す。




 止まっていたロジンカの檻も、再び地下へと車輪を鳴らし始めた。








「ロジンカ! 祈って!」








 フライアは連れ去られながら、今までの人生の中でもっとも大きな声で叫んだ。








「あなたは信じて無くても、神様はいるんだから! 私は10年前に見たのよ! 彼はあなたにならきっと応えてくれる! 祈り続けるのよ! 」








 ついに闘技場の外まで押し出されたフライアは、閉じていく巨大な扉に向かって、血を吐きながら再び叫んだ。








「ロジンカ! 生きるのよ!」








 闘技場の石造りの通路に、その声は反響した。




 ロジンカは掌の中の白い飴玉を強く握って、徐々に消えていくその声を聞いていた。








 そして、彼女の瞳に光が戻る
















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