第5話獣の攻防

 


「ああ馬鹿者馬鹿者ばかもの~~~~!お前のせいでお嬢様が闘技場に……!それ以前にもう死んでいたらどうしてくれるんだ!彼女が小さいころから親の様な目線で見てきたというのに……ううっ」




 スラム街の悪路に荷車を軋ませながら、トーマスは泣き言をいって馬を走らせる。


 それが余りにも大きな声だったので、路地に座っていた浮浪者の一人は荷車に空の酒瓶を投げつけた。




「……ロジンカ、死んじゃうの?」




 茫然としたような言葉がポツリと荷台から聞こえた。そのあまりにも今更な呟きにトーマスは鞭の柄でルトゥムの頭を小突く。




「あの仕打ちを見ただろう!頭が血で真っ赤だったんだぞ!少し打っただけでも死んでしまうかもしれないのに旦那様は何度も……ああぁ……神よ、何故あんな優しい子にこのような罰が下されるのですかーーー!!!」




 トーマスはむせび泣きながら、八つ当たりのように馬の尻を叩く。脂肪を蓄えた二の腕が踊っていた。




(わたしのせい……)




 正直なところ、ルトゥムには何故今このような事態に陥ったのかがわかっていなかった。


 何故誰もが怒り狂って、ロジンカは打ちのめされた挙句に怖いところへ連れていかれるのだろうか。


 自分が何処に行くのかは正直どうでも良かった。ただロジンカが心配で、彼女が痛い思いをしたという事実に胸が痛くて、優しく自分の頭を撫でる彼女の手を思い出して泣いていた。




「ロジンカどこいくの……?連れてって」




 鉄の鎖で拘束された手足を捩ってトーマスに訴える。しかし荷車は止まらない。小石を弾きながら車輪は走った。




「お前が行って何ができる!?お嬢様の身代わりになって死ぬなら連れて行ってやってもいい!応急処置も出来そうにないお前にお嬢様を救えるか!?お前に何ができる!なぁ、何かできるなら言っておくれ!お前に何ができるんだい!?」




 激情のままに綴られた言葉にルトゥムは何も返せない。わかりやすくお前には何もできないと教えられて、ルトゥムは手を後ろに拘束されたまま俯いた。


 罪悪感と無力感に苛まれたまま、荷車は段々と森の中へ入っていった。




 ある程度進んだところで、ルトゥムは荷台から投げ降ろされる。


 ぞんざいな扱いをされても彼はなんとも思わなかった。


 御者台からのしのしと降りたトーマスは、ルトゥムの襟首をつかみ上げる。




「……いいか、これは私の最後の慈悲だ。足の鎖は外してやるし、手の鎖の鍵はここに置いて行ってやる旦那様はお前が犬の餌になることをご所望だ!だが……」




 トーマスは一つの鍵を見せつけて近くの水たまりに投げ捨てる。


 チャリンと寂しく金属音がした。


 ルトゥムは聞いているのかいないのか、うつむいたまま涙を流すだけだ。




「お嬢様ならそうは思わないだろう。むごたらしくも……生き残れ」




 最後のその言葉に力が込められていたことに気が付いたルトゥム少しだけ顔を上げる。


 その瞬間トーマスは襟から手を離した。


 カクンと体勢を崩したルトゥムには、彼の表情は見えずに終わる。


 トーマスはそのまま御者台に戻り、馬を鞭で叩いて去っていった。




 しん……と静かな時間が訪れる。




 ルトゥムの心は真っ白で、これからどうしようと思うこともなくただぼーっとしていた。


 手の鎖を外そうと思うこともなく、木洩れ日の中、悲しみに包まれていた。




 彼が感情に支配されるのは珍しい事だ。


 奴隷としてあの老人に仕えていた時、鞭に打たれていた時だって、辛さも悲しみも、それどころか痛みすら感じない。心身ともに生粋の無痛症だった。




 それがロジンカに出会ってから密かに変わっていたのだ。


 あの日、二人が出会った日、ルトゥムの傷を見て顔を曇らせ、自分を救おうとしてくれた彼女を見た。


 それまでルトゥムを見て痛ましい顔をする人はいても、手を差し伸べる人などいなかった。差し出された手を握ったら、優しく握り返してくれた。




 自分よりも強いものに立ち向かおうとする彼女の瞳に目を奪われた。この出会いは、きっと運命なのだと感じていた。彼女が笑いかけてくれる度、彼女の為ならなんだってしてやろうと、何だってできると思った。これからの彼女の全ての笑顔を、傍で見届けたいと、そう思っていた。




 それは無性の少年が抱いた恋だった。




 その結果がこのざまだ。自分の起こした行動のせいで彼女は死にかけ、どこか恐ろしいところへ連れていかれてしまう。


 どうやって償えばいいのかわからなかった。


 ただ彼女に会いたかった。


 でも会っていいのかすらわからない。


 何処にいるのかも。




 ルトゥムの涙は止まらなかった。


 自分に向かって狼が襲い掛かっても、まだ項垂れていた。




 気付いてはいたのだ。


 ルトゥムは五感が人よりも冴えているので、彼らの微々たる足音や獣臭、自分を狙う視線にも気が付いていた。


 しかし反応する気も起きなかった。




 自分の肩に歯を立てる獣を見ながら、それでもいいかと後ろに倒れ込んだ瞬間だった。




「ひいいいい!」




 男の叫び声と、馬の嘶きが森を裂く。




 はっ、とルトゥムは目を見開く、まだあの御者とは別れたばかりだ。今の叫び声はきっと……。






 *****






 二匹の馬が食いつくされていく。


 自分よりも背の高い馬だったのに、とトーマスは現実感を感じられず茫然としていた。


 流れる血すら一滴も零すまいと舐めつくされていく様を見て、自分の数秒後の未来を重ね、恐怖する。


 なぜ、こんなところに狼が居るのか。だってここはスラムとはいえ人里の近くなのだ、獰猛だが慎重なはずの狼が居るなどあってはならないというのに。




「あ……、だれか、だれかああったすけてくれええええっ」




 ズボンからはみ出た腹を揺らしながら、トーマスは滑稽にも走った。


 獲物が一匹逃げた事に気が付いた狼の数匹が、焦るでもなく生餌の後を追う。


 口からよだれを垂らし、歯を食いしばって息も出来ずに走るトーマスの周囲を悠然と囲み、様子をうかがう狼はまるで遊んでいるようだった。




 なんとかスラムに駆け込んだトーマスは、走り続けながらありったけの声で叫ぶ。




「たあああああすけで!だれか!おおかみがああぁぁぁぁ!!!!」




 目に入ったのはまだ状況を飲み込めていない、路地にで遊んでいた少年達だ。


 助けを求めに何も考えられずスラムに入り込んだが、狼にとっては痩せこけた餌が増えただけ。彼の苦肉の策は大変な悪手だった。




「うわあああ!来るな!」




 少年達がようやく逃げる体勢に入ったころには、馬を食べ終えた後続の狼たちが追い付いていた。


 どうにか狼を撒こうと先頭の少年が路地裏に入ると、他の少年達も後に続いてしまい、最後尾のトーマスまでもがそれに便乗した。




「ばか!こっちはいきどまりだぞ!」


「なんでここ入ったんだよ!」


「もおだめだぁ!」




 路地裏の最奥で少年達が甲高い声で言い争った。


 こんな時に言い争っても仕方がないというのに、少年たちはわめいて泣いた。


 彼らの泣き声がどこか遠く聞こえたトーマスは、もう走ることも出来ずに膝をついてただ呼吸をしていた。


 1メートルも後ろでは、最早走ることも馬鹿らしくなった狼たちがとことこと距離を詰めてきていた。


 人間、窮地に立たされれば冷静になるもので、トーマスはもう自分が生き残ることを諦めた。


 ただ一つ、最後に自分に残された最善が何かも既に理解していた。




「お前たち、私が食われている内に逃げるんだ!!!」




 トーマスは最後の力を振り絞り立ち上がると、狼の群れに突進した。


 そして一番近くにいた狼が肩に食いついた瞬間、自ら食らいつかれた場所を押し付けてそいつが顎を動かせないようにし、数匹の狼の動きを抑制する。




 痛かった。人生で一番痛かった。


 恐ろしかった。これまでの何よりも。




 だがそれでも抵抗を止めなかったのは、それでも少年たちを守ろうとしたのは、彼に少年たちと同じくらいの歳の息子がいたからだ。


 はねっかえりでいつもトーマスを怒らせるが、死んだ妻の代わりに全ての愛を注いできた。出来が輪wる区とも、なんだかんだ可愛いと思っていた我が息子。


 ここで少年達を盾にして家に帰ったら、息子の顔を正面から見ることができるかわからなかった。


 愛息子に軽蔑されるより、ここで彼らを守って死ぬ。


 それが今まで御者として誰にでもへりくだりながら生きてきたトーマスの答えだった。




(そういえば……)




 走馬灯を見ながら、彼はルトゥムの事を思い出した。




 そう言えばあの子も、息子と同じくらいの子供だったな……と。




(一度の過ちくらい、私だけでも赦してやるべきだった。)




「すまないなぁ……」




 トーマスはそうつぶやいた。




 それが最後の言葉になると思っていた。






 高い屋根の上から黒い影が現れた。


 影は音もなく路地裏の少年たちの前に降り立つと消え、次の瞬間鈍い打撃音と血しぶきの音だけが鳴った。




 トーマスが音と共に一瞬ひどい痛みを感じ、自分の肩を見ると、食いついた狼の下顎だけが刺さっていて、頭蓋が粉砕されていることに気が付いた。


 余りにもひどい光景に、ひぃっと悲鳴を上げたが、次いで自分に食いついていた狼が全て頭部を破壊されている様子がわかった。




 一体何が起きた?と考える暇もなく、目の前の光景に意識を奪われる。




 トーマスの前には後ろ姿があった。狼が彼にとびかかると、黒い人影はなんの躊躇もなく、頭部を撃ち落とす。酷い鉄の匂いと鮮血が飛び散った。


 単独では敵わない事を悟ると、残った狼達は一斉に仕掛けてきたが、少年は焦るでもなく、腕に絡みつきっぱなしの鎖を振って、狼たちに向けて弧を描くと、獣たちはキャンッと一鳴きして地面に叩きつけられた。




「ルトゥム……!?どうして、」




 背中に投げかけられた疑問には多くの意味が詰まっていた。


 なぜここに居るのか、どうして助けてくれたのか、その人間離れした強さはなんなのか。


 そのどれもが言葉にならない。


 彼の背中があまりにも力強く見えて、どんな問いも無粋に思えた。




 残り少なくなった狼たちは、敵の顔を思い出した。


 こいつだ、こいつが我々をあの狭い檻に追い込んだ張本人だ!


 どんな生き物より野性味のある縦長の瞳孔、黄色い虹彩に何の感情もない事がわかると、狼たちは理解した。彼の前では我々は獲物ですらなく、この場では彼が一番の捕食者なのだ。




 恐れを覚えた狼たちは本能のままに地を鳴らして逃げだしていった。


 追いかけていた時よりもずっと速く。






 *****






「ありがとう!」


「お前スゲーじゃん!俺のコブンにしてやるよ!」




 ルトゥムが少年達に群がられて困っている。


 狼が現れた事と、それを追い払った子供がいた事は、広いスラムの中でたちまち広がった。


 ほとんどの人は遠巻きに見ているだけだったが、助けた少年達の家族はトーマスやルトゥムに感謝の意を示す。




 まさか自分が狼を呼び込んだとは言えないトーマスは、冷や汗を掻いて、痛む腕で会釈をするとルトゥムの下へ向かう。




「ルトゥム」


「……」




 トーマスがルトゥムに声をかけると、彼は相変わらず感情を失ったような目でトーマスを見据えた。


 何かを感じた少年たちが散ってゆく。




「助けてくれてありがとう……。わしはお前にひどい仕打ちをしたと言うのに。


 本当にすまなかった!許してくれ」




 トーマスは地べたに額を付けて心から謝った。


 そして心から感謝した。




 それにルトゥムは首を傾げる。


 耳のいいルトゥムには、ロジンカのお父さまがトーマスに命令したのを聞いていた。


 偉い人の命令は破ってはいけないことなら分かるルトゥムは、どうして彼が謝っているのかがわからない。




「そして……頼みがある」




 トーマスは地に額を付けたまま続けた。




「その力でどうか、お嬢様を救ってやってくれ!死んでなければ間に合うかもしれんのだ!足なら用意する!きっと闘技場にいるからそこまで送る!後生だ!私はもう一度死を覚悟した身、どう扱ってくれても構わないから、どうかお嬢様を…!」




 トーマスはがばっと顔を上げ、縋りつくようにルトゥムを見た。


 ルトゥムの強さを目の当たりにした今となっては、彼だけがこの世ただ一つの救いに見える。




「連れてって」




 ルトゥムは食い気味に承諾した。


 その一言で、トーマスは救われた気分になって涙を流す。




「ありがとう……ありがとう……すまない…無力なのは私の方だった…」




「おーじさん!泣いてる場合じゃないんじゃないの?」




 カツカツ、と蹄の音と一緒にそんな声が聞こえてトーマスは振り向くと、少年達が一匹の馬を連れて近寄ってきていた。




「助けてくれたお礼!こいつ貸すよ。こないだここいらに迷い込んだ貴族から盗んだんだけど、どうやって売るか迷ってたんだ。特別にただで良いぜ!」


「君たち……!」


「お礼いうよりさっさと行きな。今度そのお嬢様連れてきてよ、たまには目の保養が欲しいんだ」




 2人をからかうように少年たちは笑った。




「ああ、必ずだ」




 トーマスは応え、ルトゥムと共に鞍もついていない馬に乗る。




「時間がない!落ちたら走ってついてくるんだ!行くぞ!」




 そう言って彼は馬の腹を足で叩く。


 トーマスは遠くなっていく少年達に手を振って、存外大きいトーマスの背にしがみ付くと、大人と言う生き物に、初めて頼りがいを感じていた。








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