第8話 カンタレラと神の花


「まだ?」


「ええい、まだだ! ただでさえ上り坂なんだ、喋ると舌を噛むぞ!」




馬の体から絶え間なく汗が流れ落ちていた。ルトゥムにはその様子が今にも泡を吹いて死んでしまいそうに見えていた。




「止まって」


「は!? 何を言うのだ! 時は一刻を争うのだぞ!」


「わかった」




トーマスが馬を止めることを拒否すると、ルトゥムは強硬手段に出た。




「まて、何をする気だ!? ああーーーー!?!?」




彼は自分よりも大きなトーマスを担ぎ上げるとそのまま馬上から高く飛び上がった。


そして商店街の屋根に降り立つと、屋根の上を走ってゆく。


その速度は馬と同じくらいだと感じさせる。




「道」


「こんな場所から道がわかるか! いや、ええっと……あっちだ、向こうの路地をずっと真っすぐだ!」




落とされないか冷や冷やしながらもトーマスは道を指し示す。


何処までも上り坂の続く、スレートの屋根屋根をルトゥムは苦にした様子もなく跳躍する。




「いけるぞ……これならお嬢様を……!」




トーマスは力強いルトゥムの走りに、希望を見出していた。






*****






「ただいまでーす。」


「おお戻ったか。成果は如何だった?」


「ん~?面白いもの見つけましたよ~」




ああ疲れた、と言わんばかりにグリムはまた教皇が座る椅子のひじ掛けに腰かけた。


面白いものと聞いて、残酷な試合に退屈させられていたケセド教皇は興味をそそられる。




「ほう? 何を見つけた?」


「まだな~いしょ! 帰りがけにまた様子見てきたんですけど、そろそろ出番がくるみたいですよ。その面白いもの。」


「ははは、なんだ? もったいぶるな」




素っ気なく対応されて教皇は天を仰いで笑った。


エリオットはグリムが帰ってきたことにすら気づかないほど試合に熱中していた。


彼は宣言した全ての勝敗予想をことごとく外しているにも関わらず、白熱した会場と一体になって試合を楽しんでいる。


もはや護衛の為に来たなんてことは忘れたただの観客だった。




良く晴れた、雲一つない空は、そんな彼らを見守っていた。


光は何処までも優しく、熱狂する観客たちを照らし、剣を掲げる勝者を祝福し、


そして死んだ敗者を悼み、空へと招く。




最後の試合が終わると、その青い空の下に、一人の少女が現れた。




闘技場が一瞬にして静まり返ったのは、その少女がいつもの猛獣たちに踊り食いされるような様子ではなかったからだ。




彼女は場違いな深紅のウエディングドレスに身を包んでいた。


ベールガールもおらず、一人でドレスを引きずって歩くが、その凛とした姿には隠しきれない気品があった。




「綺麗……」




何処かの夫人が呟く。




陽光に照らされる彼女の銀の髪は光に溶けていた。


神々しく輝く彼女に、余計な飾りは必要なかった。


ただ一つ付けられた片耳のピアスは神秘的な瞳と同じ紫色で、それがさらけ出された細い首の周りに揺れる度、男たちは生唾を飲み込む。




「あれは……!」


「ね?面白いもの、でしょう?」




教皇は椅子から立ち上がり、柵に体を乗り出す。




今何が起こっているのかがわからずにいたエリオットは珍しく黙って、ただ少女に見惚れていた。






*****






ロジンカは支配人の待っている、舞台の中央にたどり着いた。




「え~、本日お集りの皆様、いつも我が闘技場をご愛顧いただきありがとうございます。


ご存知の通り、本日は我らの愛しいケセド聖下がいらっしゃっているという事で、誠に勝手ではございますが本日の締めに、聖下への感謝の意を示し、これからも末永くご壮健で合って欲しいとの祈りを込めて、




生贄の儀式をご用意いたしました!」




闘技場は再び熱狂に包まれる。




「「ケセド教皇万歳! アスタロト・ケセド様万歳! ケセド国に栄光あれ!」」


「「ケセド教皇万歳! アスタロト・ケセド様万歳! ケセド国に栄光あれ!」」


「「ケセド教皇万歳! アスタロト・ケセド様万歳! ケセド国に栄光あれ!」」




「まて! お前は……イ……、いやロジンカ! ロジンカなのか!?」




歓声の中では誰にも聞こえていなかった。


手すりに体を乗り出して様子がおかしい事も、民衆たちには喜んでいるように映った。






教皇を讃える大合唱をその身に受けながら、ロジンカは他人事のように思って、放置されたままの死者たちを見た。


敗者の亡骸は、みな空に手を伸ばしていた。




その姿を見て彼女は、死んだら私たちの魂は、空に向かうのかも知れないと思って天空を見上げる。




時は夕暮れ、空に浮かぶ大きな薔薇……、神の花は今日も慎ましく蕾を閉じていた。




声を張り上げる観客たちにとっては、変わり映えのない日常の一つ。




この場に横たわる死骸と私にとっては、最後の日。






不公平だ、と言う言葉が頭を支配した。




何故私たちは人々の娯楽の為に死ぬのだろうと思う。


自ら剣闘士となった人だって、安全な場所で見下ろすだけの人達の日常に、ちょっとしたスパイスを加えるために生まれたわけじゃない。






なぜ人は、他者に痛みを与えて自らを慰めるのだろう。


全ての命は尊重され、最期の時まで真っすぐな愛を受け続けるべきだ。


何故それが出来ないのだろう?




ルトゥムを傷つけ罵って優越感を得ていた老人を思い出した。


地位ばかりに囚われて、愛を失った男を思い出した。


責任に押しつぶされ心を病み、自分の首を絞めたフライアを思い出した。




そしてそれらを突き放すように高くにある、彼らを選ばなかった神の花を見た。




きっと、この世界は不完全なのだ。


みんな不完全な世界の被害者なのだ。




悪意や敵意、侮蔑などそもそも概念から存在すべきでは無い


病的な見栄も、ねじ曲がった愛も必要ない。




ただ幸福で溢れていればよかったのに。




ロジンカがぼうっとしている内に、断頭台の組み立てが終わったようだった。


華々しい花火や道化で場を繋いでいた周囲の人々が、見計らってすぅっといなくなる。




「それでは断頭と共に閉会といたしましょう!


 贄よ、ギロチンの前に立ちなさい!」




ロジンカは機械的に動き出す。言われた通り断頭台へ向かった。




彼女は毅然としていながらも涙を流していたが、民たちはそれを嬉し泣きと受け取って、敬虔な生贄を讃えて国歌を歌う。




木の板に頭を通して目を瞑る。




くもり無き太陽が、ギロチンの大きな刃を照らす。




誰もが期待に息を飲む中、教皇がエリオットの肩を叩く。




「痛ぁ! 何ですか!?」


「あの場所に連れていけ!」




指さされたのは断頭台だった。


エリオットは「何故?」と聞き返すこともなくケセド教皇を横抱きにし、テラス席から跳ぶ。


主の命令に、理由も理解もいらなかった。




「間に合うか……!?」


「大丈夫! 俺天才だからあぁああああ!」




彼は人を蹴るのも構わず、満席の観客席を縫って跳躍する。






ロジンカはとうに全てを諦めていた。




この世の全てを呪いそうで、それでも良かったことまで否定したくなくて。


要らないことを考えるこの頭を早く落として欲しかった。


頭部の痛みも強くなっていたので、もう全てから逃れたい気持ちでいっぱいだった。




「それではご覧ください! 歴史に残る、ケセド教皇への最初の贄を今、皆で捧げましょう!」




歓声と共に、その刃は落とされた。




「ああーーーー! やっぱ無理です! 間に合わーーん!」


「ロジンカーーー!」




ドッ、という表現しがたい音が鳴った。


教皇は目を背けていた。だから何が起こっているのか理解が遅れたのだ。








「あれ……、誰?」








誰かが呟く、






断頭台には確かに血が滴っていた。


しかし






カランカラン……、吹き飛ばされた刃の金属音が鳴り響く。


破壊された断頭台の木片が辺りに飛び散った。




闘技場の中央には、膝から鮮血を流す黒髪の少年がいた。


突然空から落ちてきた少年は、落下する勢いのまま断頭台を破壊したのだ。


一発の膝蹴り、それだけでギロチンの刃は宙を舞った。




「ルトゥム……!!」




木枠から解放されたロジンカは、彼を視認するなり名を叫んだ。




もう生存を諦めていた少女を救ったのは、いつか少女に助けられた少年だった。




腰の抜けたロジンカをルトゥムは駆け寄って抱きしめる。




しかし事態はまだ終わっていなかった。




「なんだ貴様! 神聖な儀式を邪魔しおってからに!」




闘技場の支配人が怒鳴ると、二人の周囲を警備兵が取り囲む。


歓声席の民衆は突然の乱入に不満を露わにしていた。


突きつけられた槍からロジンカを守るようにルトゥムが立ち上がった時だった。




「待て! 殺すな!」




声を上げたのは教皇だった。


2人を囲いこんでいたその真ん中にエリオットは着地した。




「聖下!? これはどういうことなのです! あなたの為の儀式の邪魔をした犯人を殺すなとは……」


「2人は私の知り合いだ。槍を収めろ。」


「なっ……! なんとっ!」




知り合いと言う言葉に支配人は戦慄した。自分は聖下が懇意にしていた者たちを、一人は贄にして、一人は殺そうとしたのだ。




「しかし! 彼女は自ら進んで生贄になろうとしたのです! 私は……ッ」




彼は己を保身する言葉を必死に探してロジンカの方を見ると、何やら彼女の様子がおかしかった。




「あ、あの……お知り合いの少女が……」




そう言われて、その場の全員がロジンカに注目する。


そして教皇は顔をひきつらせた。




「ロジンカ! どうしたのだ!?」




彼女は胸を抑えてのたうちまわっていた。


呼吸が満足にできていないのか、顔を真っ赤にして苦しいと呻くが、声にはなっていなかった。






「ロジンカ……、ロジンカ………っ」




その様子にいち早く気が付いていたルトゥムはどうすればいいかわからず、縋るように伸ばされた彼女の片手をただ握りしめていた。




エリオットは支配人を怪しんだ。




「支配人さん、彼女に薬でも盛りました? こう……なんかヤバめの。」


「め、滅相もございません!」


「薬……?まさか、」




支配人には心当たりなど全くなかったが、教皇は恐ろしい予感が胸に迫っているのを感じていた。




その瞬間、プシャッ。と言う間抜けな音が鳴り、周囲に居た人間たちは悲鳴を上げた。




音と共に突然ロジンカの顔が裂けたのだ。深い亀裂から血が吹き上がる。


よく見ると傷口には薔薇の花が顔をのぞかせていた。




「いやぁぁぁぁぁぁ……ぁ”っあ”っあ”っ」




呼吸のできない彼女の肺から振り絞るような小さい悲鳴が上がる。


次に薔薇が咲いたのはデコルテ、次はルトゥムが握っていた腕、次はドレスに隠された足と、次々に血の花は咲いた。


猟奇的でどこか美しい光景に、人々は震えながら見ている事しか出来なかった。




「いやだ……ろじんかぁぁぁああああああっ」




ただ一人、ルトゥムだけが血にまみれることも構わず彼女に抱き付いた。




「お前……カンタレラを……」




そう教皇が呟くと、ロジンカの心臓から肉と服を突き抜けて薔薇の花が飛び出た。


花は空に伸びようとする途中で枯れる。


ロジンカは動かなくなった。








ルトゥムは泣きながら茫然として彼女の亡骸を揺すった。


その鮮血に染まった手に教皇が触れて止める。




「この亡骸は寝かせてやれ。大丈夫だ。彼女は死んだわけではない、次の神となる為、少し天に還っただけだ。お前はまだ知らないのだな」




宥めるように彼はルトゥムを抱き寄せる。


ルトゥムは抵抗こそしなかったが、言葉の意味が理解できずにいた。


しかしそれを聞いた周囲の人々はどよめく。


支配人が一歩前に出て、こそこそと問いかける。




「失礼ですが……、次の神となるあの少女は、一体この世界のどの辺りで神の花から降臨なされますか……?」


「……それはお前には教えられんなぁ、支配人殿」


「ご、ご無礼をお許しください!」




教皇は、近くに寄ってきたエリオットに密かに耳打ちする。




「……南西だ。兵を向かわせろ」


「はい」






一連の光景をテラス席から悠々と見ていたグリムは、つぶやいた。




「ねぇ、面白いゲームがはじまったでしょ? おとうさま……」




そう、これはゲームだ。


誰がいち早く新たな神を祀り上げ、権力を手にするのかどうかの




世界を巻き込んだ壮大なゲームの始まりだった。




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