最期の一葉 拾

 小野原からの合図が見間違いでないことを確かめ、緒都は階段の近くにいる沖浪を振り返った。


「来る」

「エエ?」

「合図があったよ。売り子が来る」


 緒都はエレベーターの乗降場に立った。乗降場には、籠のいる階数を示す半円形の計器がある。針はすでに一を離れ、ゆっくりと、しかし確実に十二に向けて進んでいた。緒都は書斎にある巨大な歯車を頭に思い浮かべた。あの歯車の立てる小さな音が耳の底に響くようだった。


「遅いですね」


 沖浪の声が近くに聞こえ、緒都が目を動かした。沖浪が乗降場に向かってくるところだった。


「お乗りになりますか?」


 係の問いに二人して首を振った。係がぽかんとして首を傾げた時、扉越しに音とともにせり上がってくる籠が見えた。緒都と沖浪は扉の正面を空けて待ち構えた。二人で左右から飛びかかって押さえ込むつもりだった。扉が開き、その奥で籠の蛇腹の扉が開き、二人が一歩踏み込んだ瞬間、ちかちかときらめくものが目の前をいくつもよぎった。緒都が顔をかばいながら目を開けると、それは明かりを受けて輝く鍍金めっきや硝子や安い宝石の類なのだった。緒都は血の気が引くのを感じながら日傘を握る。そして視界の隅に、なぜか青ざめた売り子の顔を見た。その顔がくるりと向きを変えて階段に突き進み、沖浪が猛然と追いはじめる。


「沖浪君、鴫村君と頼む!」


 返事はなかったが、階段に消える横顔には獰猛な光がちらついていた。


「下がって!」


 床にぶちまけられた品々から目を離さぬまま緒都が言った。乗降場の係が茫然としてぎこちなく退いた。


 ペンや宝飾品は十に届くかという数で、どれも間合いを図っているかのように動かない。首飾り、パイプ、それより前に倒したものどもが緒都の頭を駆けめぐった。パイプのように毒があるかもしれない。もっと不気味な、予想だにしない力を備えているかもしれない。多勢に無勢だがやるしかない。緒都はじっとりと汗ばんだ手で日傘を握り直し、そこではたと気づいた。

 悪霊の気配がない。


 緒都は一歩、床を踏みにじるようにして進んだ。何物も動く様子はない。さらに一歩詰めても同じだった。一呼吸をおき、花をかたどった小さな硝子の置物に、日傘の手元を振り下ろした。甲高い音がして花弁の何枚かが割れて砕けた。もう何度か打撃を加えると、花は見る影もなく砕け散った――砕け散り、きらきらと破片をさらしたままそこに残っていた。緒都は他の品々に目を走らせた。物陰に隠れるものも、隙をついて襲おうとするものもなく、どれも先のままそこにあった。緒都は硝子の破片やペンや宝飾品を慎重に残さず拾い、それから階段へ急いだ。乗降場の係が嫌悪にも似た怪訝そうな顔をしていた。

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