最期の一葉 玖
在森と河尻が手を振り返すと、小野原は承知したと言わんばかりに合図してから手を下げた。彼は売り子が現れた後も持ち場を離れぬことになっている――万が一売り子の仲間が姿を見せた時に、いち早く知らせるためである。
少年は小学校の上級生くらいに見えた。周りに連れ立つ者はない。ハンチングを目深にかぶって旅行鞄をさげている。シャツの上には古ぼけたジャケットを着ていた。
「靴を脱いだところで私が前から声をかけます」
在森が河尻に耳打ちする。
「河尻さんは後ろに回ってください」
河尻がこくこくとうなずいた。
少年が少ない身ぶり手ぶりで切符を買い、入口に向かってくる。遊山にしては重く決然とした、年頃に似合わぬ足取りだった。河尻が在森をちらと見てから離れる。
下足番がいそいそと進み出て少年の靴を、ついでがらんとした下駄箱を指差した。少年が鞄を置いて靴を脱ぐのを、在森は下足番の背中越しに注視していた。そして靴を拾い上げる下足番の陰から抜け出ると、少年と塔の間に立った。鳥打ちをかぶった頭がわずかに上がる。在森は微笑を浮かべながら片膝をついた。少年の顔を正面に捉えると、灰色がかったつぶらな瞳が見えた――左の頬に傷跡が一筋ある。
「
在森が努めて穏やかな声で言った。下駄箱に向かう下足番が在森に目をくれた。
「
顔面に焼けるような痛みが走った。思わず床に片手をつく。閉じたまぶたの向こうを足音が駆けていく。
「在森さん!」
在森が目を開けると、売り子ではなく血相を変えた河尻がそこにいた。
「早く」
かがんだ河尻の肩を押し戻すようにして在森が言った。
「早く彼を」
河尻が小野原に来るよう合図し、靴を脱がぬまま塔の中へ消えていった。在森はじりじりと痛む頬に手巾をあてて離した。どうやら思いきり引っかかれたようで、白い布地に点々と血がついている。
「あのう、怪我を……」
「大丈夫です、少しなので」
在森が立ち上がり、下足番に微笑してみせた。足早にやって来た小野原が眉をひそめる。
「やられましたな」
「油断しました。ここで捕まえられたはずなのに」
「子どもとはいえ馬鹿力はあなどれないものです――医者に診せますか?」
「いえ、欠けるわけには」
「そうですか。まあ、ひとまずそこいらで休むのがよろしいでしょう」
そこに河尻が駆けてくる。
「やられました、エレベーターに乗っちまいました、すんでのところで!」
「伝えておきましょう」
小野原がちらと在森を見る。
「怪我のことは……」
在森がかぶりを振りながら言った。
髭をしごきながら持ち場に戻った小野原が、塔に向けて合図を送った。これで緒都と沖浪、それに鴫村には、売り子が上に向かったと伝わるはずである。河尻と在森――河尻が止めたが聞かなかった――は次のエレベーターを待つことにし、小野原のみが地上に残った。
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