青雲の滴瀝 拾貳(終)
明くる日、鴫村は久仁を
久仁は大部屋の寝台に横たわり、鴫村たちに気づいて身を起こした。右手には包帯が巻かれている。
「明日には退院できるそうです。毒も残っていないみたいなので……傷口も見た目はひどいですが、少しはましになるそうです」
「よかった」
「命をとりとめたのは皆さんのおかげです。なんとお礼を言ったらいいか」
「助かったならそれで充分だよ」
緒都がゆったりと微笑んだ。
「それに河尻君曰く、藤岡君は君を疑うのをやめたらしい。一雄君の依頼も解決したね」
「はい。鴫村君から聞きました」
鴫村はぱちぱちと瞬きをした。
「一雄君から?」
「はい、ついさっきまでいたんです。まるで自分のことみたいに喜んで話していました。涙まで流しそうなくらいに」
「一雄君らしいな」
緒都が再び目を細め、それから続けた。
「そういえば久仁君、君は毒のことを知っていたんだね」
「ああ」
久仁が一瞬目を伏せて眼鏡を押し上げた。
「前に調べたことがあったんです。トリック――作品の仕掛けに使えないかと思って」
「そうなんだ」
「まさか作品以外で役立つなんて考えていませんでした」
久仁が苦い微笑を浮かべた。そこから緒都と久仁の文学談義が始まり、鴫村と沖浪は目配せしてそっと病室を出た。
「あの偉そうな巡査は久仁さんを疑わないことにしたみたいですね」
馬車回しを突っ切りながら沖浪が口を開いた。
「でも、久仁さんが犯人じゃないとは言い切れないんじゃないですかね」
鴫村は問い返すように沖浪を見上げた。階段を降りた先の通りをあてもなく歩きはじめる。
「久仁さんは自分もパイプを使ったって言ってたそうですけど、それは誰にも分かりっこないですよね。もし久仁さんがパイプの正体を毒蛇だと分かっていて、自分では使わないまま亜川さんに貸したとしたら?」
「毒蛇ち誰に聞いたと」
「売り子ですよ」
「売り子とは口ばきかんかった」
「それも嘘かもしれないですよ」
鴫村は視線を鋭くし、反論をいくつか浮かべて吟味する。しかしどれもかわされる気がして、押し黙ったままの格好に終わった。
気づけば川か濠かに沿った往来に出ていた。対岸の崖には駅らしき細い建物がへばりつき、さらにその向こうには妙な丸い屋根がのぞいている。
「そろそろ戻りますかね」
沖浪が呑気に言い、踵を返しかけてふいにやめる。続いて何かが落ちる音がした。見れば子どもが尻餅をつき、そのかたわらに箱に似た革張りの鞄が転がっていた――沖浪とぶつかったようだったが、当の沖浪は子どもを見下ろしたまま動かない。鴫村が手を伸べるものの、子どもは無視して立ち上がると、奪われまいとするかのように素早く鞄をつかんだ。子どもが
「お前」
底冷えした声だった。鴫村ははっとして目を戻す。子どもが身を翻し、来た方へ逃げ去っていくところだった。
「待て!」
沖浪の叫びに弾かれるように鴫村も走りはじめる。小柄な体があっという間に雑踏に紛れ、ちらちらと現れていた鳥打ちも見えなくなった。いや、鳥打ちなどかぶっていたか。そもそもどんな姿だったか――雑踏が開けた辻で鴫村は四辺を見回す。追っていた人影は見当たらず、そして頭の中からも抜け落ちていた。ただ、沖浪の「あいつだ」という低い声だけが耳に残った。
× × ×
早い帰りを知らせたわけでもないのに、裏口の戸を開けると待ち構えていたように男の姿があった。体が小さくすくむのを感じながら「ただいま」と告げる。返答はない。平静をとりつくろって男の脇を抜けようとする、その手から鞄が奪われた。奪われた拍子に手のひらの擦り傷が疼いた。
男が鞄を顔の高さに持ち上げ、鋲の打たれた角に目を細くする。落とした際に傷のついた場所だった。
「ぶつけただけ。中は無事」
手を握りしめながら答える。視線がのしかかってくるのが分かった。目は合わせられなかった。寝床のある部屋に逃げたくても男が立ち塞がっているし、すり抜けようにも体が動かない――男の力がはたらいているのではなく、ただ恐ろしさのために。
粘っこく糸を引くように長く感じられた時間の後、男は無言で地下へ降りていった。足音が遠のき、やがて扉の音がした後に、思い出したように心臓が騒ぎはじめた。震える足で階段を上がり、体を打ちつけるように寝台へ倒れ込む。何度かボールをつく音、そして親を呼ぶ高い声が聞こえたきり、外は人が掃き捨てられたように静かになった。
第肆幕 青雲の滴瀝 終
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