青雲の滴瀝 捌

 藤岡の影が窓を過ぎて見えなくなる。「アア」と嘆息を漏らしたのは河尻だった。


「こうなるたあ思ってたんです! エエ、全くお嬢さんのおっしゃるとおりです。あいつは確かに身を立てることしか考えてません。しかも取り調べはからきしときた」

「担当は替わらんとですか」


 鴫村は問うた。


「替わりませんよ、誰も尻拭いなんざしたがらねえ。何せ――ヤ、こりゃ推測ですが」


 河尻が小声で続ける。


「この本里って界隈は元々は静かなところです。殺しや火付けなんか滅多に起こらない。だからこの署はああいう、叩き上げじゃないが頭はいいのが勉強に来るんですよ。連中は自分の立身出世こそひどく気にするが、まかり間違って自分の顔に泥を塗るような……案件を解決しそこなうなんて真似はしたくないんでしょう」

「火の粉はかぶりたくない」


 緒都がため息まじりに言った。河尻が「そういうことです」と応じる。


「お嬢さん方を検分に呼ぶようにもう一度掛け合ってみますよ。あんまり長いこと出入りするもんだから、現場の下宿のじいさんも迷惑してるそうです」

「そうだろうね。頼むよ。ちなみに、その下宿も大学の近く?」

「へえ、ばた館って大きなところです」

「ふうん」

「ア、お嬢さんまさか」


 緒都がはっきりと首を振ってみせた。


「僕らはあくまで所轄の依頼があって初めて動くんだ。勝手に踏み込もうなんて思ってないよ」

「そりゃよかった。しかし……まあこりゃ勘ですが、もう悠長にやってられない気がしてなりませんね」


 翌朝、食堂から部屋に戻る途中に鴫村は電話の音を聞いた。廊下には自分の他に誰もいない。河尻からの急な知らせかもしれず、意を決して受話器をとった。


「貞峰様のお宅ですか」


 一雄だった。鴫村は胸をなで下ろして名を告げた。


「アア、兄さん。無理とは承知の上、今から緒都子さんと久仁君の下宿に来るはできますか」

「何かあったと」


 背を丸めて送話器に口を寄せる。


「急なこつの起きて――久仁君も僕も無事どん――河尻巡査と藤岡巡査も今来なはるところです」

「すぐ来るけん」

「頼んます」


 久仁の下宿先を聞いて電話室を飛び出した。階段を大股に跳ねるように上がっていく。


「お嬢さん」


 扉を叩くと、ややあってから緒都が顔を出した。頬がいつもより青白い。


「どぎゃんしましたか」

「何が?」

「顔の白か」

「うん? ――ああ、ゆうべ少し夜更かししたからかな」


 緒都が微笑を浮かべてみせた。


「調べ物をしてたんだ。大丈夫、心配ないよ。鴫村君こそ何か用かな?」

「一雄から久仁君の下宿へすぐ来てほしかち電話のありました。場所は聞いとります」


 緒都の顔が引き締まる。


「分かった、すぐ支度をするよ。沖浪君も呼んでおいてくれるかな……在森君はさっき出かけたみたいだから」


 一つうなずいて沖浪の部屋に飛んでいき、どんどんと扉を叩いた。


「なんです?」


 にこにこした顔が現れる。


「久仁君の下宿へ行く」

「分かりました」


 沖浪の目が炯々と光った。

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