青雲の滴瀝 漆

 河尻が電話をよこしたのは翌日の夕方で、意見を聴取したいと所轄の署から連絡があったという。さっそく向かったもとさと署の一室で、鴫村は緒都と椅子にかけて先方の来るのを待った。背後には在森が立って控えている。


「正式な協力要請じゃない」


 緒都が声を抑えた。


「参考程度に話を聞きたいそうだよ――あくまで参考にね」

「事件としての捜査が行き詰まったのでしょう。ただし、行き詰まったとはっきり認めているようではありませんね」

「それか、事件として進めるかどうか意見が割れてるのかも」


 十分ほどして廊下に面した窓を人影がよぎり、河尻と巡査がもう一人部屋に入ってきた。鴫村と緒都は立ち上がる。


「どうもお嬢さん方」


 河尻が心なしか渋い顔をしている。その隣でもう一人の巡査が、鴫村たちと向かい合うなり鼻を軽く鳴らした。


「貞峰緒都だ、よろしく。こっちは――」

「本里署の藤岡巡査です。鴫村氏と在森氏については河尻巡査から聞き及んでおりますのでご紹介は結構」


 一息に言うなり藤岡が着席し、それからとってつけたように「どうぞ」と椅子を示す。鴫村と緒都、それに河尻が腰を下ろした。


「では、そちらの見立てとやらをお話しいただきましょう――できるだけ簡潔に」

「僕たちは悪霊の仕業を疑っている」


 緒都がゆったりと微笑んでみせた。鴫村はわずかに背中を丸める。穏やかでない予感がする。


「まあそうでしょう」

「毒蛇の悪霊だ。亜川君は毒にあたって久仁君は平気だった。これは亜川君の口の中に毒の入る傷があり、久仁君にはなかったからだと推測している。亜川君の口は調べたかな」

「もちろん」

「傷は?」

「――噛んだような跡がいくつか」


 藤岡がぼそりと言い、すぐに傲然と緒都を見据えた。


「ですが、傷があっただけではなんの根拠にもなりません。被疑者は毒を仕込んだパイプを被害者に渡し、一晩経って被害者の下宿を訪ねた。死亡を確かめ、凶器を回収するために――そしてあたかも偶然死体を発見したかのように振る舞い通報させた。劇の券もこちらを混乱させるためだ、全く見え透いています。醜い嫉妬の果ての犯行です」

「どんな毒を? 瓶か何かは見つかったかい?」

「毒なら神経ではなく血や肉にはたらく類ですね。被疑者が今持っているはずがありません。パイプと同じく処分したに決まっています」

「見つかっていないということだね」


 藤岡の眉間に皺が走る。


「その調子だと毒消しもなさそうだな。毒を入手した場所、それに毒やパイプを捨てた場所は?」

「そんな重要なことを被疑者が吐くはずがない。ですがパイプこそ凶器です。開いてあった日記からも明らかだ」

「まだ聞き出せていない、またはそんな場所は元からない。でも、悪霊であれば現場を自力で離れるのは造作もないことだ。悪霊だと断言はできない、けど辻褄が合うんだよ」


 藤岡の眉間の皺が深くなる。


「今の時点で久仁君が話すはずがないと決めてかかるのは君たち所轄の怠慢だ。不確かな推測に固執して押し進めるのは頑迷でもある。または、手柄を焦る身勝手にも感じてしまうな」


 鴫村は視線を机の木目に落とした。視界の隅で藤岡の制服のボタンがちらちらと光っている。体が小さく震えているようだった。


「まあ――まあお嬢さん」


 河尻が声を励ます。


「怠慢だなんだってのは確かに耳が痛いですがね、こりゃ難しい案件ですから、そこまで言われちゃあ藤岡さんも可哀想ってもんで――」

「擁護は不要です」


 首を振りながら藤岡が言った。


「やはり悪霊などというものは公正迅速な捜査を妨げる妄想に過ぎない。我々はそんなものに付き合うほど暇ではないのです。河尻巡査とて同じでしょう。それとも、まさかあなたも妄想に憑かれているのですか?」

「な……」


 藤岡が河尻を残してつかつかと机を離れる。


「ご足労感謝いたします、貞峰氏」


 扉が音を立てて閉まった。

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