青雲の滴瀝 貳

 一雄の下宿は大学から十五分とかからない小間物屋の二階にあった。他の部屋の下宿人たちは、それなりに飲んでんで賑々しいことこそあれ、集中を妨げるほどではないと聞いている。鴫村自身もこれまでに何度か訪れたことがあり、勉学に適した穏やかな場所だと感じていた。


「ご無沙汰しています、緒都子さん」

「一雄君、久しぶりだね。変わりなさそうでよかったよ」

「おかげさまで」


 一雄が鴫村に目を移した。


あにさんも」

「うん」


 鴫村は大きく一つうなずいた。積もる話がないでもないが、そちらに割く時間は今はない。


「どうぞ、狭いですが」


 一雄が数歩下がる。すると文机の前に立つ男が視界に入った。


「こちらが久仁君です」


 一雄が言い、男が苦み走った顔を上げる。痩せているのかやつれているのか、眼鏡が顔に比べて妙に大きく見えた。


「久仁君、こないだ話した僕のブラザーと貞峰さんだ」

「どうも……文科の久仁と言います。今日はお手間をとらせてすみません」

「どうも」

「貞峰緒都だ。よろしく、久仁君――おや」


 緒都が目を細める。


「君、もしかしてこの前、はるぜんで『探検世界』の三月号を買ったね」

「あ、ああ……『探検世界』」


 久仁が視線を泳がせて首肯した。


「僕も同じ時にそこで買ったんだ。どうりで見覚えがあるはずだよ。気が合いそうだね」

「はあ」


 一同は火鉢を囲んで席についた。


「状況の説明は僕から」


 一雄が口火を切る。


「なるべく客観的に事実を話すつもりですが、僕はどうしても久仁君の側に立ちかねません。それを踏まえて聞いていただけるとありがたいです。

 今月十七日の朝、文科の学生であるがわりゅうろう君が下宿で亡くなっているのが見つかりました。遺体や周囲の様子から、警察は事件を疑って捜査しています」

「様子」


 鴫村はぼそりと言った。


「遺書はなかったそうなので、自殺の可能性は高くないと思われます。次に、彼に持病があったという話は今のところありません。最後に――遺体の顔が腫れ上がっていたそうです。発見された時点で、死後長くても十四時間ほどなので、その間に腐敗が進んだとは考えにくい。この状況だと、たとえば毒を盛られたと思われても不思議ではありません」

「亡くなった時間は何か根拠があるのかい?」


 緒都が尋ねる。


「はい。十六日の夜七時頃まで、久仁君が亜川君の下宿で彼と会っていたんです。亜川君と同じ下宿の学生が二人の話し声を聞いたそうです」


 鴫村は目だけを動かして久仁を見た。


「そして十七日の朝九時頃、亜川君が亡くなっているのが見つかりました。これでだいたい十四時間です。亜川君が最後に会った人間が久仁君だとすれば、久仁君が何か重大な手がかりを握っているのではないかというわけです。それに、亜川君の遺体を最初に見つけたのが他でもない久仁君なんです。警察はその点も怪しんでいます」

「犯人は現場に戻る」


 久仁が苦い微笑を浮かべた。

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